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つまり、こういうことです。
現在の転移装置にはわたしたちをあっちの世界に戻す機能がない。
だから、宇宙人たちの持っている機械の残骸で転移装置を改造するしかない。
だから、わたしたちも戦うべきだ。
本当でしょうか? 帰ることができるのに隠している気がします。しかし、そのことをしつこくききだそうとして、タイプライターで殴られるのは面白くありませんし、どの道、装置の使い方も分かりません。
わたしの任務は海のなかを潜って、敵が見えたら、戻ってきて知らせること、海中に何か使えそうな物資がないかを探すことです。今も探しているのですが、ほのかなピンク色の砂にイルカが落とした影が見つかりました。見上げると、わたしが吐いた泡にじゃれて、数頭のイルカが遊んでいました。
水没世界ではイルカは貴重なタンパク質です。東洋ではイルカは海の豚と書くそうですが、実際、豚肉の代わりに食べられていますが、こちらのイルカは白い筋が入っていて、人懐っこく、人を怖がることを知りません。これはかわいいですね。これからイルカが食べられなくなるのではないかと心配です。水没世界のイルカは完全に人間を敵視していて、噛みつきます。
こんなきれいでかわいらしい海でも食物連鎖があるとは信じられません。水没世界にはもちろんあります。食物連鎖。イワシは鱸に食べられ、鱸はイソマグロに食べられ、イソマグロはアザラシに食べられと積み上がっていく食物連鎖のピラミッドの頂点には捕鯨砲を携えた人類が立っているのです。
右五十メートルにフィリックスとエレンハイム嬢がいます。わたしたちと彼女たちのあいだにはモンガラハギが棲みついたサンゴの要塞があって、イソギンチャクを見つけ損ねたクマノミや体高が高いけど頭だけは細い水玉模様のサラサハタがいて、ルリスズメの群れが珊瑚の隙間を埋め尽くしています。「すごい! とてもきれいだ!」
ときどきエレンハイム嬢から海を誉める通信が入ってきます。
「カムイが言っていた、いい海のにおいってこのことなのかな?」
「忘れないでほしいんですが、この海は目下、宇宙人に侵略中です」
「わかってるよ。あの魚、面白い!」
いま、わたしの目の前でヒメダイが泳いでいます。ちょっと赤いだけで何の特徴もない、これぞ魚という形をした魚です。クロダイのような体高の高さもなく、タカサゴのような美しいヒレもなく、カエルアンコウみたいに不細工でもなく、クロカジキみたいな上顎もなく、アジのようなゼイゴもない。ニシンをピンク色にしただけの魚です。食べることはできるのでしょうが、いかんせん水没世界で見たことがない、図鑑でのみ馴染んだ魚ですので、味は分かりません。
一番感動したのはギンガメアジの群れでした。その群れは筒状の形をしていて、ギンガメアジはぐるぐる円を描いて泳いでいました。その群れのなかに入ると、水をかきまぜる音がゴロゴログルグルと鳴り続けていて、そこから見た太陽はこの素晴らしいショーのための照明装置のように見えるくらい、楽しい潜水でした。エレンハイム嬢はイルカの背中につかまって一緒に泳いだりしていて、楽しそうです。
ただ、任務があることを忘れてはいけません。わたしたちはこのあたりの偵察を任されています。そして、間もなく見つけたのが、建物の群れでした。
ああ、やはりこの世界も水没していたようです。馴染みのある災害が次元を超えている。それだけ分かれば、もう十分ですが、サルベージできるものがあるかもしれないと思ってしまうのは職業病でしょうか?
ただ、ざっと見ただけでも、こちらの文明のほうが、なんというかテクノロジーに優れている気がします。道路に沈んだ自動車は角ばったエンジンブロックもなく、ドアステップもなく、革製のトランクを縛りつけるための格子床もありません。どれも流線形で曲面ガラスで運転席を覆っています。水没世界の科学雑誌に『これが僕らの新未来だ!』と子ども向けの絵が描いてありましたが、あれによく似ています。街同士はガラス・チューブの道路でつないでいたらしく、その名残が頭上を走っていて、ちょっと浮上してみると、謎の飛行機械らしいものが屋上にありました。円盤状でこれまた曲面ガラスですが、何か音がしたのでなかを覗くと、そこは客室で円柱型お掃除ロボットが終わりなき掃き掃除に勤しんでいました。
生存者、というか生存ロボットがいたことは驚きでした。未知のテクノロジーはわたしたちの帰還に十分役に立つことでしょう。あのロボットを分解できたら、何か部品が手に入るでしょうか?
フィリックスが首をふります。
「あれはよしておいたほうがいい」
その理由はお掃除ロボットがくるりと後ろを向いて、分かりました。回転ノコギリとショットガンが格納されていたのです。お掃除、というのは人間も掃除対象に含まれているようです。
看板や道路標識はありますが、文字がまったく読めません。建物の第一印象以外に判断材料がないのです。そりゃ、『転移装置 パーツ・その他 売ります』の看板が見つかってくれると思うほどの楽観主義者ではないですが、もう少し何かヒントがあっても良かったのではないのでしょうか?
ただ、ひとつだけ、たったひとつだけ読むことができた文字がありました。
$です。
数字も分からないのですが、$は存在しています。
わたしたちの知る$と同じものです。
ドル万歳!
「ヘンリー、どうする?」
スーッ、ゴボゴボ。
「とりあえず、一番大きな建物から探索しましょう。ドラッグストアなんて調べても目当ての部品があるとは思えません」
浮上して近場最大の建物に目をつけます。通りを二本またいだ先、建物がみな思い思いの方向へ傾いた地区に大きな塔がありました。曲面ガラスと曲面建材は珊瑚とイソギンチャクに覆われていて、ぶち破れそうにないので、結局、一階の入り口から入ることになりました。大型バスがその建物の正面に突っ込んでいて、バスのなかを経由すれば、建物のなかに入ることができます。
バスの運転席近くには警備ロボットが群がっていました。この侵入者をどうにかしようとして、そのまま水に飲まれたのでしょう。このバスだって水没の津波にやられて、ここまで流されたと見えます。
さて、侵入した建物は相変わらず文字は読めませんが、カウンターが五つ、待合用と思われる流線形のベンチがたくさん、だんだん絞れました。病院か馬券屋です。パネルみたいなものがいくつかあり、世界じゅうの競馬レースの結果を常に更新し続けたのかもしれませんが。カウンターの裏の部屋に錠剤製造装置があるのを見つけて、病院と判断しました。フィリックスがパネルのひとつを見つけたのですが、そのパネルはわたしたちの知るテクノロジーよりはるか先を行くもので、透明の板に光る絵が記されていて、しかもその絵は動きます。赤い謎の文字たちが警告するように点滅し、大きな金庫もどきへ人びとが走っていきます。
これはなんとなく意味が分かりました。シェルターです。少し前、水没世界でさらなる水没から生き残るために人間が入るための金庫、シェルターが必要だとのたもうた御仁がいました。彼は地下にシェルターをつくり、さらなる津浪が来ても、自分だけが生き残ることを考えると笑いが止まらない様子でみなが止めるのも無視してシェルターへと入っていきました。通信装置が壊れてしまったらしく、なかとは連絡が取れません。最初はみな気にしましたが、何があっても絶対に開けるなと言われ、それに食料は十年分入っているという説明を思い出し、彼らはその哀れなサヴァイヴァリストを放置しました。わたしもヘイク漁で近くを通ったので、そのシェルターをノックしてみましたが、音の伝わり方が水のなかのそれです。あのシェルターのなかは完全で水で満たされています。
大きな病室には金属製のベッドが並んでいて、壁際には人類の寿命を延ばすべく発明されたであろうテクノロジーがずらりです。治療に使うらしい機械とやたらと検針がはめこまれた機械、そのあいの子の機械。食べ物を運ぶ機械はガラスの塔がついていて、なかは空気があって、食事がありました。四角いお皿が対角線で四等分になっていて赤いマッシュポテト、黄色いマッシュポテト、青いマッシュポテト、緑のマッシュポテトがきれいに乗っていて、グラスのなかの飲み物は紫色。健康と引き換えにハードな食事です。あるいはこの人類たちはマッシュポテト以外は食べないのでしょうか、いえ、そもそも、これはポテトなのか。考古学的疑問は尽きませんが、マッシュポテトがわたしたちを元の世界に返してくれる役に立つとは思えません。
手術室もありました。手術台のまわりに切ったり穿ったりするための道具がくっついたアームがいくつも天井から伸びていて、外科手術を自動でやっていたようです。医術とは絶え間ないです。敵は病原菌、腫瘍、複雑骨折、遺族。もし、何かの間違いがあっても訴えられるのは機械というわけです。ただ、もっとゾッとしたのは上にガラスの回廊があって、そこに観覧席らしいベンチが五段くらいあったことです。内臓摘出にショービジネスの可能性を見出した病院関係者がいたようです。現在はウメイロモドキという青と黄色の美しい魚が切なげに鰓蓋を動かしているだけです。
機械部品をいくつかと不思議な光を放つ球体、シェルターへの避難を促しているらしい薄いボードを持ち帰ることにしました。
「エレンハイム嬢。そちらの残圧は?」
「五十七」
「では、引き上げましょう」
病院から出たとき、何か違和感を覚えました。何かが足りない気がします。
ああ、バスが足りないんだと気づいたとき、そのバスを両手で持った巨大なロボットがあらわれました。病院で見たのとは違う、ちょっと型式が古い――バスを投げてきて、頭部が見えたのですが、楕円形のガラスのなかに脳みそがひとつ、目玉がふたつ浮いていました。
滅亡人類より宇宙人のほうがテクノロジーでは劣るようです。身長八メートル以上ですが、水中ではそれはあまり意味はありません。さっさと浮上してしまえばいいのです。バスだってこの通り、頑張って泳げばかわせます。もちろん、この最中はそんな余裕はありませんでした。
わたしとエレンハイム嬢はその脳みそロボットの頭上五メートルの位置に浮かびました。
「フィリックス兄さまがいない!」
「バスの下敷きになったのを見ました」
「兄さま!」
潜ろうとしたので慌てて止めました。
「離してください、兄さまが!」
「フィリックスは無事だよ。ほら」
バスの表面を怒りで黒くなったタコの足がぐるりと巻きつき、持ち上げて、そのまま脳みそロボットに返却しました。受け止めきれず胸にバスがぶつかり、脳みそロボットがギリギリで耐えます。ロボットは反撃して、フィリックス・タコの足を一本切り落とします。暴力は新たな暴力しか生み出しませんが、どちらかと言うと怪獣対ロボットの映画を見ているようです。まさか怪獣映画を見ている子どもたちに報復の連鎖の悲しさを説く人はいないでしょう。
「兄さま、がんばれーっ!」
フィリックスは人の形は残しています。燕尾服もきれいにパリッとしていて、このまま晩餐会に出席できそうです。問題は燕尾部分でそこから大きなタコの足が伸びていて、それがいま、ロボットの腕をちぎりました。
戦闘は消耗戦になったようです。これはロボットが大きく不利です。フィリックスはあと七本も足がありますが、ロボットには一本しかないのです。しかも、フィリックスの足は再生します。フィリックスが墨を吐きながら、ロボットへ突進します。あっという間にわたしたちの下には黒い絨毯のようなものが広がって、フィリックスたちは見えなくなりました。ですが、音がします。バキバキ、バキバキバキッ! フィリックスはロボットの頭部、ガラスの水槽を足で締めつけて潰そうとしているようです。
墨が散らされて、暗くぼやけていた水のなかに輪郭があらわれます。頭と腕がなくなったロボットが立っていて、すぐそこでは足を全部しまい終えたフィリップスが口をナプキンで控えめに拭いていました。
悪食。これからしばらく、わたしはフィリックスのご飯にならないようにするにはどうすればいいかを真剣に考えることになりました。




