85
まず、水の明るさ。そして、白い砂底にかかった光の網。これがまともな太陽の上った海の底。海面の形を写した海の底なのです。これひとつ、見てもわたしは自分が、違う次元、異世界に飛んだのだと確信しました。海がきれいすぎます。
珊瑚はまるで宝石であり、魚たちはみな華やかです。ボトル・シティの魚はみな食用で売買されるもので観賞用の販売は皆無ですが、この魚たちであれば観賞用でも売ることができるでしょう。存在を無視されたウミウシでさえ、ここでは青と黄色の美しい生き物として存在をアピールしています。
そして、この珊瑚の谷の真ん中にある、巨大な戦艦。
バグが乗組員もろとも見捨てた黒い艦体。よく見ると、何かのバリアみたいなものがドーム状に覆っていて、甲板やブリッジには潜水具なしで走りまわる乗組員が見えます。近づいてみると、砂の上をライフルを手にしたふたりの水兵がいて、手でわたしの前進を遮りました。ライフルは構えられておらず、負い革で背中にまわしている状態ですが、ここは言う通りにしましょう。
「おい、見ろよ、ハンク」水兵が相棒に言います。
「見てるよ、ジョージ」
「今日はまた、人間デーか?」
「なんだよ、人間デーって?」
「人間のデーだよ」
「なんだよ、それ?」
「さっきの女の子とその兄貴に続いて、三人目だぜ。今日を人間デーと呼ばず、いつを人間デーと呼ぶんだよ?」
「二・五人目」
「あん?」
「二・五人目だ。三人目じゃない。あの子の兄貴、あの燕尾服の兄ちゃんは半分タコのタコ人間だ」
「だから、なんだよ? お前はタコ人間を差別するのか?」
「してねえよ。だから、半分人間としてカウントしただろうが。〇・五人分」
「それより、そっちの兄ちゃんだ」
「そうだな。あんた、あの子たちが言ってたヘンリー・ギフトレスか?」
「はい、そうです」
スーッ、ゴボゴボ。
「こっちに来いよ。ここは空気があるんだ。そんなお面つけなくても、息はできるぞ」
そこで気軽に足ヒレを舞わせて、前進すると、危うくお腹から落下するところでした。ですので、ちゃんと砂地に着地して、その状態で泡のドームへ入ります。
「な、大丈夫だろ?」
「あ、あぅ……」
「マスク外せよ」
わたしは顔だけ水に突っ込んで話しました。
「話すことが苦手で何も話せないのです。陸地では」
「今は?」
「水のなかは平気です」
「でも、首だけだろうが。ここだって水のなかみたいなもんだぜ?」
「わたしもわたしがどの状況だったら話せるのかは目下手探りの状態です。沈没船などにあるエアポケットのなかはダメなことは知っていましたが、それは規模の大小に関わらないようです」
「分かった、分かった。とりあえず、まずは艦長に会ってくれ」
「艦長?」
「そうだ。艦長」
「あの、それはシンプソン氏のことですか?」
「なんだ、艦長知ってるのか?」
「いえ、その……」
「まあ、いいや。こっちに来い。案内するからよ。それとそのデカい空気タンクはそこに置いていきな。人をやって取りに行かせるからよ」
ハンクとジョージは出会った水夫たち全員にわたしの名前がヘンリー・ギフトレスであり、先ほどの人間たちの知り合いであり、艦長を知っている人物であり、そして、話しかけられたり話したりすることが死ぬほど苦手なことを触れまわりました。これだけ触れまわってもらえれば、わたしに話しかける人はいなくなることでしょう。
砂の小道の左右には赤い珊瑚の岩山があり、珊瑚のあいだを縞模様のアナゴがゆっくり宙を泳いでいます。この泡のドームのなかでは魚が普通に存在できるようです。人間と魚の麗しき共生。ますます奇妙です。珊瑚の陰にはガラス細工みたいなエビや高く美しい瑠璃色の背びれのハゼ。非常に平和的な風景です。
と、思ったら、小道を出たところで大きな穴が開いていました。深さ五メートル以上、幅三十メートルの穴です。
「平和な海に見えるだろ?」ハンクかジョージがわたしにきいてきます。「でも、おれたちはいま戦争の真っ最中なんだ。それもただの戦争じゃない。地球の命運をかけた戦いだぞ。信じねえだろうがな」
「お前、戦争は好きか?」ハンクかジョージがわたしにきいてきます。「なら、ラッキーだ。ここでなら人類史上最も意義のある戦争を飽きるだけ戦える」
わたしは立ち止まり、砂に指で『わたしは平和主義者です』と書きました。
ブラックプリンスに近づくにつれて、珊瑚の華やかで緻密な絵柄のなかから、シャツやパンツをぶら下げた洗濯紐やサッカーのコート、一世代古いジャズを流す蓄音機とケーキウォークを踊る水兵たちが見分けられ始めました。
ブラックプリンスはブリッジが低く、二本のマストのあいだに四本の煙突が生えていて、その煙突は濃い青と濃い赤に塗られています(本当は黒く塗りたかったのでしょうが、それをしたら、艦隊は海上でこの艦を見失います)。マストに上がる方法は梯子ではなく螺旋階段で、見張り台もやや大きめでよく見ると狙撃兵がいます。わたしは、『わたしのことを狙っていない銃についてはどうでもいい』派の人間なので深くは問いませんが、この天国みたいな海でああやって見張りを置くあたり、戦争が続いているのはあながち勘違いではないようです。
巨大な鉄塊の圧倒する様は実際、近くで見ないと分からないものです。水没前は世界じゅうの国が軍艦をつくる競争をしていたのですが、よくぞそこまで鉄とお金があったものです。そのせっかくの軍艦も水没によって、全て沈没したのだから笑えません。軍艦をつくるお金を、太陽の光が弱くても作れる野菜の収穫量を上げる方法とか重さは半分なのに潜水時間は四倍になるエアタンクの開発などにまわしていたら、いまの人類はもっと面白おかしく愉快に暮らせたことでしょう。
よく見ると、この戦艦、あちこちに穴が開いていて、そこから砲口や機関銃が見えます。主砲や副砲は下を向くことができませんから、こうして穴を開けておけば、接近した敵を倒すことができるわけです。
戦争の工夫をまたもや見つけたあたりで、機関部に通じる出入口へ案内されました。無用になったボイラーやエンジン、砂と化石の入った袋、立てかけたライフル、錆ひとつない通路、水兵たちの腕で膨らむブルドッグの入れ墨、艦内に散らばった組み立て式飛行艇のフロート部分。階段と隔壁を越えて甲板に出る直前、階段室に当直士官のデスクがふたつありました。平らな軍帽をかぶった子どもみたいな顔をした二等中尉とつるつるに剃った頭で皇帝髭を生やした、サーカスの怪力男みたいな一等中尉が隣り合って座っていて、そのデスクの前でエレンハイム嬢とフィリックスが質問攻めにされていました。
「崖で兄妹仲良く座っていたら、光がぱあっと湧き上がって、いつの間にかここにいた。この言い分をどう思うね、二等中尉」
「まったくもってありえない話であります。一等中尉殿!」
「いや、おれはそうは思わん。きっと何かの理由があって、転移装置を動かしたに違いない」
「わたしもそう思っていたところであります、一等中尉殿!」
「ところが、こっちのふたりはその理由を教えることができない。理由を知らないからだ」
「馬鹿にした話であります、一等中尉殿!」
「いやいや、こいつはなかなか賢しい話だぞ。なにか秘密の任務についていて、おれたちに教えることができないのかもしれん。つまり、自分の機密事項をよく心得ていて、抜け目なく立ち回ろうとしている。どう思うね、二等中尉?」
「わたしもちょうど同じことを考えていたのであります、一等中尉殿! なぜなら、軍の目的や機密を港町の酔っ払いのごとく、ぺらぺら話していては作戦の完遂も危うく、それによって海軍が得る損害と作戦遅延は目も当てられないことだからです、一等中尉殿!」
「おれはそうは思わんな。機密機密でがんじがらめにしたら、柔軟性が失われて、陸軍のアホどもみたいに連隊ごとに横一列に並んで、機関銃目がけて走るなんて馬鹿をしでかす」
「わたしもそう思っていたところであります、一等中尉殿!」
二等中尉が階級をひとつ飛び越して大尉になったら、どんなふうに関係が再構築されるのだろうと興味をそそられる会話です。しかし、それよりもエレンハイム嬢とフィリックスの尋問に対する態度ですが、これはなかなか素晴らしいものです。というのも、このふたりは何も話さず、一等中尉と二等中尉が話すままに任せているからです。ということは、ふたりが通過した後、同じような尋問が行われるのでしょうが、善良な潜水士ヘンリー・ギフトレスはこうやって相手が勝手に掛け合いをするのをきいているだけで大丈夫であろうことは確実だからです。
エレンハイム嬢とフィリックスはわたしが後ろにいることに気づかず、一等中尉の、まあ、いいや、のひと言で甲板へ出ることが許されました。わたしも、この一等中尉からまあ、いいや、の言葉を引き出すべく、徹底無口を貫きます。
「二等中尉殿!」ハンクかジョージが言います。「付近の海域を潜水中だった潜水士をお連れしました。おそらく転移装置でやってきたものと思われます」
二等中尉はさっきまでのへこみ全てを取り戻さん勢いの威厳をペタペタ顔に貼りつけ、ぞんざいに返しました。
「ご苦労」
そして、一等中尉に対し、
「水兵二名が転移によって出現したと思われる潜水士を一名連れてまいりました、一等中尉殿!」
「ほう。今日は大忙しだな。ところで、二等中尉。お前さんはなんでこちらの先生が転移装置でやってきたと思ったね?」
「水兵二名の申告であります、一等中尉殿!」
「じゃあ、お前は水兵二名がそちらの先生がココナッツのなかからあらわれたときいたら、そう思って、おれに報告するのかね?」
「はい、一等中尉殿!」
「本当に? ココナッツから出てきたなんて馬鹿げたことを、本気でおれに報告するのかね?」
「いいえ、一等中尉殿!」二等中尉は冷や汗をかいていました。「馬鹿げた報告は全て、不肖本官が精査し、上奏の必要がないものは弾くのであります」
「じゃあ、お前、こちらの先生が転移装置でやってきたと水兵ふたりが言ってきたら、それを弾くかね?」
「はい、一等中尉殿!」
「だが、おれはこちらの先生が転移装置でやってきたと思っとるんだがね」
「は? えーと……恐れながら一等中尉殿、先ほどココナッツから出てきたことは馬鹿げたことだと、おっしゃられたのであります」
「そうだ。ココナッツは馬鹿げている。だが、転移装置についてはそうはっきりと言ったことはないぞ、ん?」
「はい、一等中尉殿! 一等中尉殿は転移装置で人間があらわれることについて、馬鹿げているとは言ったことがないのであります」
「そうだろう、そうだろう。で、きみはこの先生がさっきの先生方と同じ転移装置で来たものと認めるわけだ」
「はい、一等中尉殿!」
「だが、おれはこちらの先生が転移装置でやってきたと思っているとは言っていない」
「は? あの――、はい、一等中尉殿!」
「まあ、二等中尉くん。きみはこうは思わんか? この潜水士については我々では判断をすることができない。この先生もさっきの先生たちとおんなじで司令部に判断を任せるのが妥当と思うが、どう思うね?」
「はい、わたしもちょうどそう思っていたのであります、一等中尉殿!」
「じゃあ、そういうわけだから、先生。そこの階段を上って甲板に出て、ブリッジに行ってくれ。そこに艦長がいるから」
素晴らしい! わたしはひと言も発せずに前進したのです。
木目に沿って水夫たちがデッキブラシをかけているのを横目にブリッジに向かいます。そこは舵輪と計器と電話と予備の双眼鏡がこれでもかと詰め込まれた機械の王国で、そこにエレンハイム嬢とフィリックスがいるのが見えます。
そして、艦長は――え? 女の子?




