82
フィリックスからもらったドレス代が五十ドル、バグが持ってきた謎の箱の値段が五十ドル。わたしが小説に出てくる意志の弱い主人公だったら、その五十ドルでバグから箱を買い取って、己が罪と無能を嘆き、いろいろ悩んで葛藤のサンドイッチになった挙句、最後にはこんなことは何でもないんだと悟りきった調子でエレンハイム嬢に微笑みながら、自分のこめかみをピストルで撃ちぬくことでしょう。
しかし、わたしは五十ドルはちゃんとドレス代に使いますし、バグの箱もタダで手に入れました。にもかかわらず、自分がうまくやった成功者とは思えません。スキッドモア・ストリートを下って、アンクル・トッドの店でフォークとナイフと何かの光学レンズを手放しましたが、三ドル六十セントにしかなりませんでした。レンズはもうちょっと行けるかと思いましたが、工業製品の規格とはだいぶ合わない代物で、とんでもない近眼がいれば、眼鏡のレンズとして販売できますが、それ以外の人間がこれを眼鏡にしたら、数歩歩かぬうちに視界がぐわんぐわんになって、胃のなかのものをぶちまけるそうです。結局、このレンズはド近眼か天下の往来でゲロを吐きまくって迷惑かけたい愚か者にしか売れそうにないそうです。もちろん、太陽を使って着火する道具にはなりますが、水没世界において、そんなにはっきり空が晴れることを待つくらいなら、天下の往来でゲロを吐きまくって迷惑かけたい愚か者の来店を待ったほうがよいでしょう。
さて、一日の稼ぎが三ドル六十セントというあたり、五十ドルがいかに大金かがお分かりいただけると思います。フィリックスから教えてもらったのは旧市街にある婦人洋服店で、わたしの家から五分と離れていない場所でした。普段、関心がないと記憶にも残らないのです。ショーウィンドウにはひだとリボンと材質不明のキラキラしたものをこれでもかとつけたドレスが飾ってあります。人が着るというより、飾るための服のようですが、お値段は二千ドル。防弾自動車と同じ値段です。年に一度か二度着るだけの服に二千ドルを出すような名士が通りかかるのを待ちましょう。昔は服やパイプや時計を専門に扱う高級店が連なっていたようですが、現在、このあたりは寂れた商店街です。二軒隣の元高級菓子店の正面は破られて、野良犬の集団交尾場になっています。
婦人洋服店〈ル・プティ〉は根性のある店でした。根性が香っていました。外の荒廃が店内に浸透することを許さず、最後の一兵まで戦う覚悟でした。マホガニーと黒曜石を磨き上げ、ホコリは落ちる前に払われ、店の裏の空き地でニンニク・ソーセージを焼こうとする労働者たちを岩塩弾を装填した非殺ショットガンで追い散らし、品位を限界まで高めていました。高貴であろう、美しくあろうとする態度には感動を覚えますが、先週、警察が手入れをするまで隣の建物が麻薬窟だった立地では婦人服店の経営は厳しいかと思います。
わたしはこの店の主は気品漂う、ヴァイオレットが似合うマダムだと思っていましたが、実際は灰色の頭を刈りこんだせいで頭の形の悪さが目立つずんぐりした男でした。メジッチと名乗った彼の握手は握手というより、振り回しでした。
「女に着せるのか? それとも自分で着るのか?」
そのあと、大笑いして膝を叩くのですが、大きく口をあけて、体を前後に揺り動かしているのに、声が全く出てきません。引くような声もないのです。まるで超防音ガラスのなかにいるみたいに静かです。
「冗談だよ」
そう言って、今度は完全な無表情になりました。その無表情を見て、思い出しました。彼が以前、クレイス・クロッシングのそばで電球人間の開発は可能かどうかについての野外討論会を見物していたのを。討論参加者が全員マッド・サイエンティストというコメディの集大成みたいな集会で見物人たちはみんな大笑いしていたのですが、このメジッチ氏だけはこの無表情で、可能ならばいますぐ電球人間になりたいみたいな感じで論をきいていたのです。まあ、その前に声の出ない大笑いをしたのかもしれませんが。
メジッチ氏はわたしがフィリックスからもらった絵をサッと取り上げると、しばらく見つめた後で言いました。
「背と胸がないわけだ」
この場にエレンハイム兄妹がいなかったことに感謝しましょう。もし、いたら、蟹にたべられたほうがマシな目に遭わされたはずですから。
「一から縫い始めるから二か月かかる。四十ドル。五十ドル払えば、三十分で仕上げる。つまり、カネで時間を買うわけ。どうする?」
わたしとしては二か月かけていただき、そのあいだにエレンハイム嬢のダンスに対する興味が冷めるのを待ちたいですが、それだとわたしが十ドルちょろまかしたみたいに思われるのもしゃくです。だから、五十ドル払いました。
三十分間、昼食を取るためにソーセージ屋台でホットドッグをふたつ食べて、ソーダ水を飲み、戻ってくると出来上がって、店の紋章であるバラの花の印刷がある包装紙に包まれていました。
「ほら、いっちょうあがり。五十ドルできたら、また来てくれや」
ドレスの入った包みを小脇に抱えて、家に戻ると、部屋に置いておいたバグの持っていた謎の箱とにらめっこを始めます。全ての面にレンズがはまった立方体で、なかはひどく暗いです。ときどき、ミルキーな光の群れが見えたりするあたり、これはひょっとしてプラズマ爆弾ではないかと肝が冷えてきました。プラズマ爆弾がどんなものかも分からないし、プラズマが何なのかも分からないのですが、バグの言うことを信じれば、これは戦艦に積んであったのです。これが新型の爆弾である確率は非常に高いではありませんか。
ああ、やっぱり断ればよかった! した後悔より、しなかった後悔のほうが大きいとは言いますが、どう考えてもした後悔ほうが大きいです。とりあえず、これをわたしの部屋に置くのはやめましょう。不本意ながら共同スペースと化した居間に追放します。これの始末については後々考えるとして、エレンハイム嬢のドレス問題をどうするかについても考えないといけません。とりあえず、本人に渡してしまうのがいいでしょう。
そう思って、ベッドに横になったのがよくありませんでした。二時間くらい寝て、夕方に起きたのですが、居間から、何か騒ぐ声がきこえてきました。
嫌な予感がして出てみると、そこにはカムイとジーノとタチアナ女史がいて――、
「この箱、強いぞ!」
そう言いながら、この野生児はプラズマ爆弾に大きなゲンコツを見舞っています。一発、二発、三発。
「へえー、びくともしねえじゃねえか! おい、カムイ。そいつ、ちょっと置いてみそ」
ジーノとタチアナ女史は銃を取り出すと、プラズマ爆弾に全弾ぶち込みました。
「おいおい、弾が潰れやがった!」
「なかになんか入ってる!」
「同志カムイ。わたしの部屋から大砲を取ってきてくれ」
「おう!」
わたしは脳の危険を察知する部分が著しく退化した三人の人類からプラズマ爆弾を取り上げ、非常に非常に不本意ながら、わたしの部屋の床下に隠しました。いつまでもこうしているわけにはいきません。三人のしたことを考えると、このプラズマ爆弾は衝撃に強いようですが、この手の爆弾は合言葉で爆発するかもしれません。「人造バターはどこだ?」どかん! 「足がつった!」どかん! 「オーケー!」どかん! それを考えれば、わたしの部屋に置いておくのは不本意ですが一番安全です。三人はチェッとつまらなさそうな顔をしましたが、お腹がグーと鳴ると、何か食べに外に出かけました。これでひと安心です。
ところで、タチアナ女史が「わたしの部屋から大砲を取ってきてくれ」と言いましたが、これについて説明いたします。革命バリケードのバカ騒ぎのとき、わたしは彼女に頼まれて、印刷機と焼き印された箱を運び出しました。わたしはその箱が印刷機を入れていると無邪気に信じていましたが、中身は大砲の砲身と三発の砲弾でした。道理で革命家たちがこれを血眼になって探すわけです。これがあれば、どんな頑丈なバリケードも一発でバラバラです。タチアナ女史はこれを印刷機以上に有効な革命の武器と呼びましたが、この大砲、砲身しか入っていません。砲身を支えるための車輪付き砲架がないのです。だから、発射させることができませんが、カムイがそれを抱えて、一発試射をおこなったところ、カムイは見事、発射の反動に耐えて見せました。こうして、同志カムイもまた革命達成のための有効な武器となりました。もともと、その膂力は人間兵器みたいなところがありましたが、大砲とのタッグを決めたことで、彼は火力を手に入れたのでした。
わたしのなかではもうプラズマ爆弾の運命は決まりました。海に捨てます。できるだけ、沖合、わたしのサルベージ水域から外れた場所。となると、外海に向いた観光地区の沖合になります。結局、観光地区で得た厄ダネは観光地区でバイバイするのです。
「わあ!」
ん? 喜びがだいぶ加味された大きな声が居間からしました。エレンハイム嬢のようです。居間にエレンハイム嬢が喜ぶようなものがあったでしょうか。
ちらっと顔を出してみると、ビリビリに破られた包装紙。エレンハイム嬢がペパーミント色のドレスを抱きしめています。




