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観光地区に、かつて観光旅行の自動車向けに料理屋が並んでいる道があります。以前、わたしはここにある廃モーテルのひとつで殺人事件の最重要容疑者として逮捕されたことがあります。あれから、市内の料理屋のいくつかがここで営業をするようになりました。北のほうに桟橋が整備され、よその町へ行く人びとにグレイビーをかけたオットセイを提供すれば、それなりのお金になるからです。
食い逃げ犯を撃つためのショットガンが用意されていますが、善良で、そして空腹な潜水士がずぶ濡れのウェットスーツのまま、スツールに腰かけるのを許してくれるくらいのおおらかさはあります。
さて、どの店も巨人がトレーラーハウスの真横を缶切りで剥がしたような建物で奥行きがなく、波型のナマコ板に覆われ、低すぎるスツールと高すぎるテーブルで客の忍耐力を試しています。こってりとしたチャウダーと七セントの代用コーヒー、一ドル出せば飲める本物のコーヒー、メニューにはあるけど決して売られない五セントの清涼ソーダ、そして、焼かれ煮られ揚げられて元が何の魚だったか分からないようになってから供せられるウツボのフライ。別にウツボなんてそんなことしてまでして隠さなければいけない魚ではありませんが、もし、それが普通のウツボではなかったら?
ウツボ男は人間に数えないからカニバリズムにはあたらないという無邪気な意見もありますが、わたしとしてはウツボのフライは〈カートマンズ〉や〈グッド・イール〉のような水槽から出して、目のまで揚げてくれるところで食べたいです。
チャウダーのボウル、五枚の大きなビスケット(――と、固すぎるので叩き割るためのハンマーと、かびた部分を削り取るナイフ)、チコリのコーヒー。朝食としては栄養満点です。店主にフライを頼まないのかときかれましたが、別の機会にしましょう。
「もし、欲しければ、もっといいもんが手に入るぜ」
銃か麻薬か、あるいはもっといいもの。いいものときいても、思い浮かぶのは誰もわたしに話しかけてこない安心か、ボビー・ハケットの演奏です。
店主は痩せた神経質な男のようで、ときどきおかしくもなんともないのに、ヒ、ヒと笑ったりします。買ってしめてから一度も輪っかを解いていないらしい、ネクタイをしていて、ボール紙でできた使い捨ての折りたたみ帽子をかぶっているのですが、その帽子をときどき荒々しく叩き落して、狂ったように踏みつけたかと思うと、スンと落ち着いて、同じものを何百枚と入れているらしい壊れたオーブンから新しい帽子を取り出してかぶります。ふむ。発作的な暴力のたびに帽子をダメにしていては生活費が圧迫されます。この世界を少しでも低コストに生きていこうとする強い意志と偉大なる知恵の勝利を見た気分です。他にも「おれは宇宙人じゃない!」と叫びながら帽子をダメにしたり、「やめろ! 頭のなかでうだうだ話しかけてくるんじゃねえ!」とわめいて帽子をダメにしたりしていて、彼もハンデを背負いながらも頑張って生きていこうとしているわけです。この、ヘンリー・ギフトレス、感動いたしました。チップに五セントを置いていってあげましょう。
そのとき、壁がないのに立てたドアを通って、小柄な老人があらわれました。みなに〈害虫〉と呼ばれている人物で、さっそくスツールに腰かけると、十セント銅貨でカウンターを叩き、〈もっといいもん〉を注文しました。グラスで出てきたそれはクレイジー・ジンジャーでつくった密造酒でした。たまに人体発火現象がひき起こされるため、市は禁止しましたが、愛飲者たちは「火がつくくらいなんだ? どうせ残りはろくでもない人生なんだから燃えちまったほうがいいのさ」とうそぶき、飲む人間は後を絶ちません。そのくせ、実際に火がついたら、慌てて近場の水に飛び込むのですから、人は口で言うほど自分の命に淡白にはなれないようです。
「わしは死にたくねえんだがなあ」
クレイジー・ジンジャーの密造酒を飲みながらいうことではありません。
「んなこと言ったってよ。バグ。あんた、もう年寄りじゃねえか」
「だな。だから、他の年寄りが死ねばいい。わしは嫌だね」
バグはグラスを飲み干し、ポケットから取り出した十セント玉をカウンターに放ります。
「注げよ、ハーマン。飲もうぜ、お前も」
「遠慮しとくわ。おれ、燃えたくない」
「わしだって、そうだ。燃えたくない。ちきしょうが。なんで、クレイジー・ジンジャーは飲むと燃えるんだよ?」
「蟹に食べられた天使さまにきいてくれ」
「新しい教父。あいつ、どう思う?」
「前の教父よりは見栄えがするな。あれなら信者を何人かつまみ食いできるんじゃないか?」
「わしもそう思う。聖職者の何が笑えるって、この世の全てに神さまの意味が隠されていると思ってるところだ。じゃあ、新聞紙に包まれたクソには神さまはなんて言ってるんだ?」
「知らねえよ、んなこと」
「全部、魚になっちまえば解決するんだってよ。おい、ハーマン。お前、魚になるなら、何がいいよ?」
「ウツボだな。釣り上げてフライにしてやろうって人間がひとりもいなけりゃ、敵なしだぜ。じいさんはよ、魚になったら、昔の部下に謝りに行ってこいよ」
「あいつらが沈んだのはあいつらがそうしたかったからだ。わしは一度だって、まとめて沈んじまえなんて言ったことはない」
船が沈没するとき、船長は最後に脱出するというのがセオリーです。もし、誰かまだ脱出していないものがいたら、船長は脱出しません。たいていの場合、船の構造上、機関士の面々が脱出できないので、船長も脱出せず、船と運命をともにするというわけです。これは客船軍艦漁船商船問わず適応されるルールであり、ジェントルマンシップの海の男版、シーマンシップの鉄の掟となっています。これを破るとウツボ男や蟹男、債務不履行者みたいに人間扱いされなくなります。
ただ、何事にも例外があって、船と乗組員を見捨てて真っ先に逃げた悪い船長もいます。いえ、正確に言うと艦長です。
「なんで、顔を炭で真っ黒にした機関夫たちがどんくさいからって、わしまで死なないといかんのだ」
かつて、バグは戦艦ブラックプリンスの艦長をしていました。ブラックプリンスが水没時の大災厄で海に沈んだとき、彼は真っ先に救命ボートに乗って逃げ、そのまま、このボトル・シティに流れ着き、自分を卑怯者の腰抜け呼ばわりする人間にからまった海藻を投げつけながら生き恥をさらしているわけです。
「いいか、ハーマン? 人間、死んだら損だ。終わっちまうんだ。こんな分かりやすいことが分からん馬鹿どもが、この世界には多すぎる。船と運命をともにする? どうぞ、ご自由にってんだ! だが、わしは嫌だね。沈まないよ。馬鹿馬鹿しい。そんなやつを艦長にいただいた水兵どもには同情するが、だが、それが海軍ってもんだ。作戦部長の部屋で決まったことは尻の穴に花火を突っ込んで導火線に火をつけるくらいのことをせんと覆らん。そして、誰も作戦部長の尻の穴に花火を突っ込まなかった。つまり、あの部下どもはわしの命令を絶対としなければいけない。そのわしが働けと言ったらやつは働くし、わしが脱出するときはドアを開けて、わしが通り過ぎるのを待つもんだ。そいつが軍の命令系統ってもんだ」
戦艦ブラックプリンスの乗組員たちがここにいたら(その存在形態が人間であれ亡霊であれ)、この老人をびりびりに引き裂いたことでしょう。
「わしは知性がないから、哲学にははまらん。艦を史上とする下らんイズムに自分をくれてやることはなかった。それどころか、わしは、あのクソッタレな鉄の棺桶を好きになったことなんて一度もない。戦艦ってのは手間のかかる女房みたいなもんだ。あれをしろ、これをしろ、と命令してきて、出ないとぶん殴ると脅してくる売女だ。何が悲しくてそんなもんと一緒に沈まないといけないのか。このわしが。たったひとつしかないわしのかわゆい命が」
戦艦ブラックプリンスは水没時の天変地異で沈んだのですが、どこに沈んだのかがさっぱり分かりません。いえ、ボトル・シティの沖合に沈んでいるらしいのですが、まったく見当たらないのです。わたしも何度か潜っていますが、戦艦みたいに巨大なものはポケットのなかの小銭みたいにどこかに行ってしまうものではありません。たとえ、爆発して沈んだとしても、どこかにパーツくらいはあるものです。それが全くないので、沈んだのが本当にボトル・シティであったのか、怪しいのですが、一部の老人たちは間違いなく、この街の沖合で沈んだというのです。まばゆい光を出しながら。
「いいか、ハーマン。わしはな、真相を知っている。あの戦艦はあの日、ちょっと変わったものを積んでいた。そいつが何かは分からない。わしだって知らなかった。だが、わしはブラックプリンスが見つからない理由はその荷物が関わっていると踏んでいる。そいつがブラックプリンスを見えないようにしているんだよ」
透明戦艦ですか。〈バグ〉ことシンプソン氏はちょっとお酒が過ぎるようです。
「いいか、わしは酔っ払ってるが、このことだけはいつだって冴えてるんだ。こいつを見ろ」
そう言って、老人は足元に置いた(もちろんカウンターのなかからは見えない位置です)、謎の箱型装置を蹴飛ばしました。ニ十センチ四方の箱で、全ての面になにかレンズのようなものがついています。
「こっそりかっぱらったんだよ。あの荷物に関係するらしくてな。使い方は分からないが、こいつをどうにかすれば、きっとブラックプリンスは見つかる。そこでビジネスの話だ。このガラクタを五十ドルで売ろうじゃないか」
「なんだって? じいさん、本当に狂ったのか? そのダゲレオ銀板写真箱みたいなもんに五十ドル? もう、これ以上、酒はやめとけ。んなこと、本気で言ってるなら、ちょっとまずいぞ。本当にローソクみたいにメラメラ燃えちまうかもしれねえ。あんたのツケはもうきかねえからな」
「ちえっ、ハーマン。お前ってのは面白くもねえ男だな。海の男のロマンが詰まったこの箱をたったの五十ドルで手放してやるってのに」
「あんたさっき自分で言ったじゃないか。ガラクタだって」
「それは、お前――なんだ、ケツが熱いぞ。おい、あちち! まさか、ちくしょう!」
バグ艦長はお尻の炎を手で叩きながら、海へと突っ走っていきました。
わたしも食事が終わったので立ち上がると、
「なあ、あんた。バグが五十ドルで売ろうとしたガラクタ、そこにあるかい?」
わたしはうなずきました。
「じゃあ、持っていってくれよ。なんか、気味が悪いからよ」
わたしは首を横にふりました。わたしだって嫌です。
「そこをなんとか頼むよ、なー」
わたしは首を縦にふりました。これは承諾するまでからまれるやつです。




