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殺気、という概念があります。
誰かを殺そうとするときに人間が発散する気迫のことで、殺し屋はみんな、これをまとうと言います。ロレンゾですら、言うのです。殺気で標的に気取られると。しかし、今日、殺気という概念が実は嘘っぱちであることが分かりました。
「殺気を殺しきれていない。他の連中なら気づかないだろうが、わたしは違う」
わたしじゃないです。その殺気。こちらは一度もあなたを殺そうなんて考えたことないですし、むしろ小さなウサギみたいにビクビクしているのです。
だいたい殺気を殺すとはどういう意味でしょうか? 殺す気を殺す? さっき殺気を殺した? 言葉遊びというの名のダジャレ大会ですか?
「どっちが殺人鬼と呼ばれるにふさわしいか、決めようじゃないか、ん?」
不戦勝で結構です。
「銃は使わない。外にいる部下たちに決闘の邪魔をされたくないからな」
「殺そうとは思わない」
え? 誰の声ですか。おお、わたしです。わたしが言ったのです。この危急存亡の秋にわたしは自分の限界を超えて、自分の素直な意見を言ったのです。そう、わたしは善良な潜水士ヘンリー・ギフトレス。誰かを傷つけようなんて思ってもいないのです。
ただドアを開けてました。自分で自分に減点1です。ドアの一枚だって防御に使えるのです。
「そこがお前たち、本業の悪いところだ。殺しを娯楽として楽しめない」
市の警察の結構上のクラスで、この騒動のあいだ、地位が上昇した警察官が殺しを娯楽にしているらしいです。でも、まあ、子どもばかりを狙った連続猟奇殺人犯なんかが相手ならいいのではないですか? 少しくらい楽しんでも。
〈ロバの男〉はいわゆる聖職者顔と呼ばれる、おっとりとして、目尻の垂れた髭のない顔ですが、彼は誕生日のケーキの蝋燭みたいに人の命を吹き消せる、ボトル・シティ警察きっての人殺しです。その人殺しがわたしのことを対戦相手か何かのように思っている。外に逃げる? 彼の部下がわんさかいるのに?
〈ロバの男〉が手を物凄くはやく動かしました。すると、上着の袖から細身の短剣が二本、彼の手のなかに滑り落ちてきました。
手首が閃くと、わたしのシャツが真横に裂けました。〈ロバの男〉は聖職者顔のまま、わたしをメッタ刺しにするつもりです。わたしは相手を蹴ろうとしますが、左右にステップをしてかわし、今度はナイフが袖のボタンを真っ二つにしました。自然、攻撃をかわすために後ろへ下がりますが、その先は網の保管庫ですので、袋のネズミです。
そのとき、つま先が何かに触れました。それを蹴り上げると、大きなチキンマンのぬいぐるみが両方の短剣に刺さり、ガードが上がりました。わたしが蹴りを繰り出すと、それが左の足首に命中し、〈ロバの男〉が膝をつきます。おお、いい感じです。このまま倒せてしまえるのでは。そこでもう一度足を繰り出しますが、これは足首をつかまれて、思いきり後ろに押されました。
〈ロバの男〉の顔から聖職者顔が滑り落ち、懲役ツラと呼ばれる悪の化身みたいな顔になりました。わたしは彼を倒すこと能わず、それどころか激怒させ、ルールを放棄させてしまいました。テーブルの銃に飛びついたのです。
リヴォルヴァーを手に〈ロバの男〉がわたしのほうを向いたとき、ボート室から黒い影があらわれました。その影は背後から〈ロバの男〉の首に腕をまわし、すると〈ロバの男〉は小さな嗚咽をもらして、つま先立ちになりました。背後の影に腎臓のあたりを深々とナイフで刺されていたからです。
〈ロバの男〉は口をパクパクさせていますが、腕の力がますます強くなり、ナイフは深く刺さります。背後の黒い影がナイフを握っていた手を離し、その黒い仮面、――いえ、潜水用呼吸マスクを外すと、ベネディクト警部の顔があらわれました。
ああ、警部は救世主です。ボビー・ハケットの次に素晴らしい人類です。それに――、
「急いでここを出よう」
あ、はい。
「脱出にはこれを使う。つけてくれ」
呼吸マスクとつながった大きな箱――予備の再呼吸装置です。
「外の連中に見つかればわたしでも射殺される」




