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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと革命の自動拳銃
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 どうして〈ロバの男〉がこんなうら寂れた漁具小屋にいるのでしょう?

「教父なんて、そもそも信用がならんのだ」

 と、〈ロバの男〉よりも声の低い男が言いました。

 わたしはそっと網から降りて、壁に開いた節穴から隣の部屋を見ました。

 最初に目に入ったのはテカテカに磨かれたブーツのつま先です。〈ロバの男〉は顔を反対側に向けていて、ボート室のドアのそばでは見たことのない男が腕組をしています――古い狩猟用ジャケットみたいなものを着て、ニット帽をかぶっている頬髯の男です。

「どうした、モール。警官、教会、革命家。三位一体でちょうどいいじゃないか」

「おれたちはあんな無駄口くらいとは違う」

「そのあたりについては納得したと思っていたんだがな」

「自分がここに赴任するために前任者を殺すようなやつ。信じられるか?」

「あんただって、女をひとり、監獄に送っている。どうだ?」

 頬髯の男――革命家は少しもひるまずに言いました。

「それとこれとは話が別だ。それに彼女も革命のために自分から罪をかぶり、今日の蜂起がある」

「じゃあ、いいだろう? あの優男は自分が教父になるために前任者を殺した。あんたは革命のために仲間ひとり飢え死にさせる。勘定はちょうどいい」

「あんたはどうなんだ?」

「おれはただの警官隊の隊長だ。自分の仕事をして、自分の甲斐性で暮らす。あんたらみたいな働きもしない連中と一緒にするな。――いい、何も言うな。分かってる。お前は革命家だが労働者じゃない。そのきれいな手を見れば分かる。雨が降ってるのか降ってないのか分からない寒い空の下でひたすら網を引き揚げたこともなければ、石切り場でツルハシをふるったこともない。日雇い仕事にあぶれたやつらが怒り狂ってナイフで刺し合うのを見たこともない。それでいて、労働者が自分についてくるのは当然だと思ってる。別にいい。その挙句、効率的な問題を持ち出して、教父やおれなんかと内通して、立派な革命家でございって顔をしていやがる」

「不満があるなら、解消してもいいんだぞ」

「不満なんてあるわけがないだろ? このままいけば、月に三万ドルは手に入る。革命万歳だ」

「あんたの不正に目をつむるのは、真の労働者政府ができてからだ」

「できるさ。神を信じる連中と革命を信じる連中が殺し合えば、まあ、その真の労働者政府に三人くらいは労働者が残るんじゃないか?」

 そのとき、ドアが三回ノックされました。

「入れ」

 入ってきたのはカイン教父です。黒のフロックコートに祭礼用のストラを首にかけていて、首元まであるチョッキのボタンをきちんとしめています。

「こんばんは。あなたたちに蟹に食べられた天使の加護があらんことを」

「いま、あんたの話をしていたところだ」革命家が皮肉っぽく言います。

「魚の救済の話ですか?」

「ああ、世界が魚市場になれば――」

「そうではありません。このまま、世界が水没するのであれば、人類が魚になることは唯一の救済です。蟹に食べられた天使は救いの手を常に、わたしたちに差し伸べているのです」

 マーダー・インクどもはどうするんだ?と〈ロバの男〉が言いました。

「そっちは抑えられるというから、こっちは〈シューター〉を殺したのに、マーダー・インクの黒服どもが街じゅうにいて、おれにも仕事を共同でしたいなんて白々しいことを言って、圧をかけてくる」

「リチャードソン教父は素晴らしい方でした」

「それを〈シューター〉に殺させたのはあんただ」

「リチャードソン教父は神秘主義教派にあって、救済について誤った考えを持っていました。それが人類を窮地に陥れてしまうのは明白でした。あのように善良な方が、良かれと思って、人びとをタビネズミのように破滅へいざなうのを止めなければなりませんでした」

「あのじいさんはおれたち全員、魚になれとは言わなかったもんな」

「教父さまは神秘主義者であるのに、不思議なことに人という種に賭けておられました。人間はこの世界を生きるに値する。それが蟹に食べられた天使の意思だと。残念なことです」

「こっちはあんたのせいで厄介のタネをかかえてる」

「もうじき終わりますよ、警部補殿。全ての苦難からあなたは解放されるでしょう」

「魚になる以外の方法でお願いしたいものだ」

 ……わたしは今回のごたごた騒ぎの、最も深いところにあるものを見て、きいて、覚えてしましました。恐ろしい三位一体があったものです。

 もっと考えるべきでした。古い漁具小屋は身をひそめるのに持ってこいでしたが、あまりにも向きすぎていました。誰にも知られずに集まりたい邪悪な意志を持つ人間たちがこっそり悪だくみの話をしたくなったら、どうするか? 古い漁具小屋ほどふさわしいところはないのではないでしょうか? それを知らずに網の上に横になって、自分は抜け目ない人間だと思っていたなんて、赤面ものです。

「すいません。ちょっとすることがあるので、先に大聖堂に帰りますね」

「おい、こっちは話し合いを――言っちまいやがった。あの野郎、まったく信用がなら――」

 革命家の開いた口に弾が飛び込み、後頭部から血と脳漿と歯が一度に噴き出ました。ゴリラみたいに体の大きい警官隊の隊員が慌てて、部屋にあらわれましたが、銃をテーブルに置いた〈ロバの男〉は手をふって、気にするなと言いながら、煙草を取り出します。

「なんでもない。外で待っていろ、――その前に、この死体をそこの部屋の水場に放り込んでおけ。錘を忘れるな」

「はい」

「そうだ。あいつはまだそこにいるのか?」

「あいつ?」

「新しい教父だよ」

「やつがどうかしましたか?」

「いま、そこから出ていっただろ?」

「教父がですか? いえ、出てませんよ。それどころか、一度も見てませんよ」

「お前、ちゃんと見張ってるのか? 酔ってるんじゃないだろうな?」

「本当です! あの教父はここに来てませんよ。あなたが言う通り、もう、このボートは水の上です。おれたちに見られずにこの部屋に入れるやつなんてひとりもいませんよ!」

 ああ、もう! わたしは抜け目あるどころか抜け目だらけです。外国産のチーズみたいに穴だらけです。

 なぜ、ボート室にボートがないのか。それはこの小屋全体がハウスボートだったからです。

 隊員はゴリラみたいに大きな男ですが、細面の〈ロバの男〉を死ぬほど怖がっているようでした。

「……もう、いい。いっていいぞ」

〈ロバの男〉が煙でも散らすように手を振ると、ゴリラは踵を打ち鳴らして敬礼し、革命家の死体をボート室で沈めてから出ていきました。

 一方のわたしはというと、ここから出られなくなりました。出たら革命家の隣に沈むことになります。どうすべきでしょうか? 新聞の質問コーナーに応募することもできません。この網の部屋には隠れる場所はありません。網のなかに隠れると言っても、柔らかい網しかなく、その網目から床が見えます。人が隠れられるものではありません。せめてボート室のほうにいたのなら、まだ泳いで逃げられます。――いえ、警官隊員が外を見張っているので、息づぎに顔を出したが最後、狙い撃ちされます。

 こうなると、もう咳ひとつできません。〈ロバの男〉に気づかれないよう、息を潜めて、このハウスボートが再び陸地につき、彼らがいなくなるのを待つしか――。

「そこに隠れているのだろう、ヘンリー・ギフトレス?」

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