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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと革命の自動拳銃
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 午後五時ごろのことです。署長命令で避難民は全員外に追い出されました。〈自発的献金〉を払って、保護されていた避難民のひとりが革命党員のスパイだったことが発覚したからです。彼奴は署内の武装について書いた紙飛行機にして新港湾地区の方向へ飛ばそうとしたところを見つかりました。署長は白い髭を蓄えた家父長的制度の権化みたいな人物で、芝居がかったことが好きでした。スパイは警察自動車が駐車している中庭に連れていかれ、軍隊式の銃殺刑にされ、署長自ら、トドメを頭にぶち込みました(この家父長的制度の権化の署長閣下は中世の伝統にのっとって、死刑囚の手足にそれぞれロープを結んで、四頭の馬を走らせて、バラバラに引きちぎる馬裂き刑にしたかったようですが、非常時には誰でも妥協をするものです)。

 そして、処刑の後、避難民が追い出しを食らったわけです。もちろん避難民たちは文句を言って〈自発的献金〉を半分返せと騒ぎましたが、一度自分のものになったお金を手放せなんて、通らないのが警察の理屈です。我々は十二ゲージのショットガンで狙われながら、武装せる市街へと追い出されました。

 我々はバラバラになって、放火魔と乱射魔と強姦魔と演説魔が跋扈する街へと消えていき、自己の技量と勇気で避難場所を見つけねばなりません。このとき、わたしにまとわりついたのは、ひどく太っているのに手足が長くて細い、童話に出てくる卵人間みたいな男でした。わたしのことを中学生か何かと思っていて、わたしがうまく立ち回れるよう助けてやるのが大人の義務だと勘違いしていました。わたしは二十一歳です。もちろん、四十歳の人から見たら、ひよっこですが、アンドレアス伯父が亡くなってから、ひとりで生きてきたので、それなりに社会人としての自負はあるつもりです。

 卵人間氏には、ボビー・ハケットの不滅の十八番おはこにちなんだ、ミスター・エッグマンのあだ名をつけてあげましょう。これは感謝されていい大盤振る舞いです。さて、ミスター・エッグマンですが、彼が一方的にぺらぺらしゃべったところによると、彼は蟹ビール醸造所を経営していて、その醸造所は市内で唯一の、まだ仕事をしている蟹ビール醸造所なのだそうです。蟹ビール醸造所だって革命で労働者がストを起こしているのに彼のところだけそうではないのは労働者に毎日二パイントの蟹ビールを無料で飲むことを許しているためで、これをもって、彼は自分のことをなかなか抜け目のない人物だと言いました。本当にそう言ったのです。おれは抜け目のない男なんだ、と。

 本当に抜け目のない人は自分で自分のことを抜け目ないとは言わないものです。そもそも『抜け目がない』という言葉は本人に面と向かって言ったり言われるものではありません。第三者が別の第三者へこっそり「あれはなかなか抜け目のないやつでね」と指差して言われるのが、本当に抜け目のない人物なのです。おそらく、ミスター・エッグマンの労働者たちは()()()()()()、雇い主の知らないところで、ビールを七ないし八パイント抜いていると思います。この状況下、たかが二パイントで満足するとは思えません。

 でも、何も知らないミスター・エッグマンは幸福です。「おれは抜け目のない男だ」と言っただけで幸せになれるなら、彼はまさに成功者であり、蟹に食べられた天使の祝福を受けた人間であり、人生の勝者なのです。たとえ、彼の労働者たちが七ないし八パイントのビールを抜いていたとしても。

 しかし、自分で自分を抜け目ないという人物に会ったのは初めてですが、彼はずっと、自分がいかに巧緻で、策をめぐらし、利益を少しずつ上乗せしているかをわたしに話し続けました。もう二度と、自分で自分を抜け目がないという人間と一緒にいたくありません。どこかのテント食堂に抜け目ないと自称する男が入ってきたら、世人は真っ先にテントから飛び出すわたしを見ることでしょう。そのくらい嫌です。蟹みそがホップの代わりになることを発見したのはおれだとか、彼の自慢は明らかに妄想の域へと到達しつつあります。人間の妄想と戦いの狂乱はおそらく親和性があり、今のところ、世界は彼らのものなのです。

 バリケードでの撃ち合いから始まった戦いは既に乱戦となり、一本の戦線ではなく、点在したゲリラ戦の集まりとなっています。市街戦第二フェーズは強迫性スパイ障害であり、誰も彼もがスパイに見える男たちがポケットにピストルを入れて、十字路クロッシングの真ん中に立ち、道行く人びとに疑いの目を向けます。チカモーガ・トーマス・クロッシングでは中央にガラクタが積み上げられて燃えていました。火の高さは四階建てのアパートをはるかに超えていて、見ているだけで顔がひりひりするほどの熱が渦を巻いています。これでネズミ一匹、夜闇に紛れて、この十字路を通り過ぎることはできないというわけです。火の粉から顔を守るために布を顔に巻いた男たちがこの火の神への捧げものを欠かしてはならぬと、他人の家に押し入って、家具を斧で薪に変え、壁から板材を引きはがし、そして、スパイを生きながら焚火のなかに放り込みました。慈悲深い人間がいると、燃えるスパイの頭に二、三発ぶち込んで終わりにしてあげますが、スパイを人類の敵だと思っている人たちは滑車用の細いレール材の四メートルくらいあるやつでスパイを焚火のなかに押し込み、逃げられないようしっかり燃やします。

 さらなる遠回りを余儀なくされますが、なんとかロンバルド通りへとたどり着きました。すると、銃撃戦参加者が五十名に増え、倒れている死骸が十五か六くらいに増えました。ここまでくると、やってくるのは恐怖でも諦観でもなく、いったい彼らはどこからこんな大量の弾を見つけてくるのだろうという疑問でした。

 ミスター・エッグマンはさすがにあの銃撃戦のなかへ自分の抜け目なさを宣伝しにはいきませんでしたが、わたしのお供には飽き出したようです。そのうち喧嘩別れしましたが、わたしは別に喧嘩していません。彼が勝手に怒って、どこかに行ってしまったのです。ミスター・エッグマンはわたし相手にずっとしゃべってきたのですが、彼としては、ひと言くらい好意的な返事をしてもいいはずだとこう言ったのです。つまり、「その通りだ。あんたは抜け目ない!」と言ってほしかったらしいのです。そんなことはありえないともっとはやく気づくべきです。わたしは挙措動作、そして圧倒的な沈黙で、あなたと会話するつもりはないと知らせていたのですから。

「もう、あんたと一緒には行かない! 金輪際ごめんだね!」

 では、さようならです。

「いいかい! わたしはもう行ってしまうよ!」

 どうぞ、どうぞ。

「いいのかね! 本当に本当に行ってしまうよ!」

 望ましいことですな。

「あとで後悔しても知らんからね! 泣いても遅いよ!」

 まさかとは思いますが、引き止めてもらいたいのでしょうか? そこは旧市街の東の外れで、桟橋と岸辺の向こう、新市街水域には散発的な銃声をさせるボートたちが浮いています。わたしはもう疲れていたし、おやつのミックスパンケーキを食べてから、何も胃に入れていません。もう、これ以上、うろつくのはごめんですし、ミスター・エッグマンの相手もごめんです。桟橋のそばに漁具を入れるのに使う小屋がありました。わたしはそのなかに入ると、後ろ手にドアを閉めて、何かわめいているミスター・エッグマンをシャットアウトしました。しばらく彼の声はきこえましたが、そのうちそれもなくなりました。完璧な沈黙です。

 今日はこの小屋でひと晩かわしましょう。朝になれば、馬鹿げたカーニバルも終わっているか、最低でも盛り下がっていることでしょう。

 わたしは本当に疲れていました。体が重くて、鈍くて、砂を詰め込んだ袋みたいになっています。今いる部屋はテーブルと椅子と古いストーブ、それに空瓶が入った箱があるだけです。床はタールを塗って防水した木の板で、もう、ここで寝てしまいたい衝動にかられましたが、それをやると次の日、体が棒でも飲み込んだみたいに曲がらなくなります。ドアがふたつあるので、どちらかにベッドがあればと思い、ドアを開けると、危うく水に落ちかけました。そこはボートを係留するための部屋です。ボートはなく、黒く光る鏡みたいな水がわたしの疲れた顔を映しています。もうひとつのドアを開けると、網がしまってありました。あまり大きな部屋ではありませんが、わたしが体を伸ばせるくらいの広さはありますし、柔らかい魚を捕まえるための柔らかい網が重なっています。横になってみると、網とはこんなに寝心地がよかったのかと感動すらしました。

 と、同時に心臓が止まりかけました。小人がドアの陰にいたからです。邪悪な笑みを浮かべたその小人――いえ、これは小人ではありません。彼――いえ、これは――チキンマンです。チキンマンのぬいぐるみです。四歳児くらいの大きさのある、口の端を真上にひん曲げた、ピエロ恐怖症の人なら死んでてもおかしくない気味の悪い人形です。

 いえ。でも、待ってください。この気味の悪い人形でもアンドリュース大佐は喜んで買い取ってくれるのでは?

 ふむ。これはよいです。こうして宿と臨時収入を得るあたり、わたしはなかなか抜け目がないです。

 さて、臨時の寝床の上に横になり、自分が抜け目のない男だと分かったところで、ミスター・エッグマンが抜け目なくないこと――つまり抜け目あることを示す事例について考えてみましょう。思考のたわむれです。

 例えば、彼は警察署に逃げ込みましたが、抜け目のない人間なら、もっと安全で、しかもタダで隠れられる場所を知っていそうなものです。それに彼の右目は青いあざに囲まれていましたが、あれは〈自発的献金〉を返せと警官に詰め寄ってぶん殴られたものです。抜け目のない人間なら、警官がたとえ落として拾われたお金だって返してくれないことが分かるはずです。そんなことを考えていると、彼が従業員に抜かれている蟹ビールは二十パイントくらいではないかと思えてきました。

 そんな退屈なことを考えているうちに眠りがやってきたのですが、実際、自分が眠っていたのかと分かるのは次に起きたときです。

 このとき、わたしを起こしたのは〈ロバの男〉の声でした。

「それで、あいつはいつ来るんだ? あの気取った教父さまは」

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