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(サブタイトルが73話になっています)ベネディクト警部はストイックで、現在、街がごたごたしているあいだはミカ嬢への恋慕はいったん置いておくことができます。それでもときどき、潜水術を教えてほしいと頼まれることがあります。やはり、好きな子のために頑張るのは警部でも変わらないのだなと思っていたのですが、潜るときにわたしに見せたのがレギュレーターのかわりに再呼吸装置がつけられてエアタンクでした。
人間の呼吸では空気中の酸素のうちほんの少ししか使っていなくて、ほとんどは泡となって、外に出ます。そこである技師が考えたのです。泡となって消えるのをもう一度ホースのなかに逃がし、二酸化炭素だけ除去して、呼吸を再利用できないか。
それで出来上がったのが再呼吸装置ですが、これはまだ発達途中の技術であり、安全性が確保しきれていません。非常に高価で市場にも出回っていませんが、再呼吸装置には潜水時間が長くなる以外にもうひとつ、大きな長所があります。それは泡が出ないことです。吐いた呼吸は酸素を加えられ、二酸化炭素をフィルターで除去し、また吸い込むので、外に泡を出すことがないのです。
つまり、隠密性に優れることです。
正直、ミカ嬢と一緒に潜るのに必要な技術ではありません(ミカ嬢はむしろわたしたちが吐き出す泡に興味津々で喜んで、これで遊ぶからです)。
ベネディクト警部は隠密性に優れた潜水技術を単身、極秘に学ぶ必要があるということです。たぶん何かの内偵があるのでしょうが、わたしは破滅主義者ではないので、それをきいたりしません。
陸に上がると、
「タチアナ・レラトワが食事を摂るようになった」
と、教えてくれました。
「それと、革命家が〈印刷機〉を探している。〈ロバの男〉たちもだ」
わたしは肩をすくめました。確かに彼らのスローガンをばら撒くのに必要な機械ですが、いざとなれば、彼らはどこか別の街から密輸なり何なりするでしょう。
「ビラは相変わらずばら撒かれている」
たぶん、手で刷っているのでしょう。印刷係が腱鞘炎を起こす前に密輸が成功したらいいですね。
「きみはわたしに潜水術を教えてくれる教師だ。死なれては困る」
わたしもわたしはわたしですから死なれては困ります。冷酷な現実主義者と意見の一致をみると、なんだか励まされた気がしてきます。
ベネディクト警部が自動車で警察署へ帰っていき、わたしはエアタンクを背負ってロンバルド通りへ向かいます。ここは資本家サイドの縄張りなので、青いビラやポスターがあちこちに貼ってあり、〈死よ、万歳!〉の横断幕が決して狭くない通りの上に張り渡されています。それを見上げている人がひとり――カイン教父です。いつものストラを下げていないので気づきませんでした。
「死よ、万歳、か――。死を称えるのは感心しませんね。命は種を越えてつなぐだけの価値あるものなのですから」
わたしに気づくと、ふ、と笑いかけてきました。
「あなたはギフトレスさんですね? このあいだ、ロレンゾくんと一緒にいた」
わたしとカイン教父、それにロレンゾは直接言葉を交わしたことはありません。
「ああ、すいません。もっと教区の人のことを知ろうと思って、前任のリチャードソン教父が残してくれた教区の住民について書いた本を読んだのです。あなたはとても無口な方だとのことで」
まあ、そうですね。無口です。ボトル・シティで一番無駄口をたたかない人類と自負しております。
「わたしが以前いた教区は水没が進み、意思を持った海藻によって完全に滅ぼされてしまいました。救済について考えることは不遜です。それは主と蟹に食べられた天使さまが司るのですから。ですが、わたしは思うのです。もし、世界の海がさらに水位を増すのであれば、人類を救う手段はひとつ、魚に変化することだろうと。人類を人の形のまま、救うことができるかどうか、数多の聖職者がそれに悩み、大きな船や高い塔を考えていきましたが、船や塔に全人類が入ることはできません。貧しい人、弱い人がおそらく見捨てられることでしょう。だから、わたしは人類を魚とすることで取りこぼしなく救いたいのです」
カマスサワラとダンゴウオ。
「ん? ああ、わかります。確かにみなが同じ魚になることはできません。食物連鎖が崩れて、早晩、海もまた滅亡するでしょう。魚の種類によって、救いの平等性が損なわれることは分かります。しかし、わたしはやはり人が魚になることは蟹に食べられた天使さまの思し召しなのでは?と思うのです。オオクチバス病やその他海棲生物へ変化していく人びとのことを考えてみましょう。どちらの減少も水没前にはありませんでした。つまり、オオクチバス病も変化も疫病や発狂ではなく、魚となって人類を救わんとする大いなるバランスのあらわれではないかと思うのです。ギフトレスさん。あなたなら、どんな魚になりたいですか?」
メガロドンですね。他の魚は怖がって話しかけてこないでしょうから。
「ふふっ。あなたは海のなかでも無口でいたいのですね」
彼がわたしの意をくみ取る能力が高いことは分かりました。筆頭会話代行人に任命したいです。
「ウツボ女だぁ! ウツボ女が出たぞぉ!」
誰かが叫び、クレイズ・クロッシングに通じる横道からボロボロの夜会用ドレスを着た両手がウツボの女性があらわれました。ウツボの両手は既に誰かに嚙みついたらしく、牙だらけの顎から肉のきれが垂れ下がっています。
首にくっついたフジツボやまとわりついた海藻、海のなかでの暮らしが長すぎて、女性の思考はもうウツボに乗っ取られているようです。人間のことはおいしそうなタコの足くらいにしか見えていません。
わたしは六連発の水中銃を取り出しました。あまり遠くまで飛びませんが、命中すれば、逃げる時間くらいは稼げます。
「いえ」
と、カインがわたしの腕に触れました。
「大丈夫ですよ」
そう言って、カインはウツボ女へと近づいていきます。あ、これは頭から食べられると思いましたが、カインが近づくにつれ、ウツボ女の唸り声が少しずつ小さくなっていき、最後はどやされた犬みたいに縮こまりました。それだけも驚くべきことですが、カインはそのままウツボ女を抱きしめて、その小さな唇を顔の横に寄せて、耳元で何かをささやきました。
すると、ウツボ女が両目から涙を流し始めたのです。初めて見ました。化け物になった人間、それももう人の言葉も分からぬくらいに狂った化け物が涙を流すのを。
「さすが、教父さまだ」
「あの人は天使のみ使いだ」
カインは奇跡を起こし、それにまわりの人びとは教会の印を切って、敬意を払って深々と頭を下げました。
そのときです。ウツボ女が自分の両手に、自分の喉を食いちぎらせたのは。
女の首は真後ろに落ち、皮一枚でぶら下がりました。両ひざをつき、そのまま真上に噴き出た鮮血がそのまま雨となって降り注ぎ、ドレスをまとった胴を真っ赤に濡らします。
いったい何をつぶやいたのでしょうか、カイン教父は。
彼はわたしのほうと見て、人差し指を自分の唇に寄せ、
「秘密です」
と、微笑みました。
彼は何も言わないわたしの意をくみ取る能力が高いので、筆頭会話代行人に任命したいです。
――が、イルミニウスはこの青年を邪悪なものと言い、ロレンゾは彼を見たその足でより強力な近接武器を買いに行きました。
そして、その彼が言うのです――人類よ、魚になれ。




