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水没前はチリコンカンに豚ひき肉が入っていたと言われています。最初に豚ひき肉を炒めて、それからケチャップと豆を入れるのです。考えられない贅沢ですから、わたしたち卑小の人類は食べるとこなれず消化不良を起こすイソマグロの缶詰を使います。
このゆでたマグロをボウルに空けたら、泡だて器でぐしゃぐしゃにしてほぐします。缶詰のマグロというのは色が死人の肌みたいですが、関係ありません。どうせ、合成ケチャップでみんな真っ赤になるのです。
わたしはチリコンカンの缶詰については賛成でも反対でもありません。疲れていたら缶詰で済ませます。ただ、余力があるなら、チリは自分で作りたいものです。安物のチリ・パウダーだって、自分の好きな加減にきかせれば、レストランの味になるのですから。
今日は海藻スープを缶詰で済ませます。缶を開けて火にかければ、そのまま完成というのは抗しがたい楽です。正直、海藻スープはどう頑張っても缶詰以上の味になれないのです。鶏ガラとかがあれば話は別ですが。
さて、泡だて器でマグロを潰す目安ですが、泡だて器のなかにマグロの身が残らず、全部落ちるくらいにまで細かくほぐします。
こんなことをしているあいだに、エレンハイム嬢にはレンジの火の面倒を見てもらいます。燃やすのはカラカラに乾いた粒々お肉たちです。
「十分熱せました」
そうしたら、フライパンをレンジにのせ、缶入りオイルをさっと垂らして、フライパンを右に左に傾けて油を引きます。あらかじめ頭を落としたニシンダマシを、もう片方にはほぐしたマグロを入れ、塩コショウをし、炒めます。焼き加減でニシンダマシをひっくり返し、マグロのほうに水を切った豆と合成ケチャップ、それに缶入りドライトマトを入れます(本物のトマトが手に入らず、ドライトマトが安価で手に入ることについてはみんな不思議に思っています。いろいろ説はありますが、わたしは世界のどこかに天文学的数字の缶入りドライトマトが保管されていて、ドライトマトのシンジケートが供給量を操作している説を信じています)。そして、チリ・パウダーを二つまみ入れ、水気がなくなるまで炒めます。
チリのボウルがひとつにニシンダマシのソテー、海藻スープ。それに塩味ビスケット。
エレンハイム嬢はワカメ・ジュース。わたしは蟹ビールです。
「悪くありません」
もう慣れました。エレンハイム嬢はまずいものを食べたら、はっきりまずいと言います。悪くないとはおいしいということです。エレンハイム嬢はわたしの前ではいつもの男の子風ではなく、女の子のような話し方をしますが、中身は同じです。なかなかひねくれていて――でも、まあ、少し正直です。
「タチアナさんはスープを飲んだんですよね」
二口目を食べる途中でたずねました。飲んでないと言ったら、食べるのをやめてしまいそうです。ただ、幸いなことに彼女はきちんとビーフティーを飲み干しました。
わたしはうなずきました。
ふふっ、とエレンハイム嬢が笑います。
「よかったぁ。ギフトレスさん、やっぱりいい人ですね」
これまでの彼女に見せた数々の行動のなかでいい人ではない面があったでしょうか? 居候追い立て計画を除いて。
人並みの倫理観は持ち合わせているつもりです。仲間に裏切られている状態で牢屋のなかでひとりの女性を飢え死にさせて、ボビー・ハケットの演奏を聴けるでしょうか? ボビー・ハケット本人がこのことを知ったら、どう思われるでしょうか? こういう考え方をすればいいのです。自分の行動を大切な人の前でもできるかどうか。子ども、親、恋人。誰でもいいです。彼らに「おれはひとりの哀れな女を飢え死にさせるがままにさせたぜ、ハッハ」と胸を張って言えるかどうか。――まあ、ボトル・シティには平気で胸を張って言ってしまう人が多いし、「よくやった! お前は我々の誇りだ!」と殺人密輸婦女暴行を誉め、エールを送る人も少なからずいるのは事実ですが。
「ミカも言ってました。いい海の香りがするって」
カムイもそんなことを言ってました。野性的、特異的な身体能力を持つ方々はみんな言っています。居候軍団がわたしの生活を超高速回転木馬にしてしまう前の話ですが、男性用香水のセールスマンがわたしに香水を売りつけようとしてきたことがあります。〈アクアパッツァ〉という魚料理みたいな名前の香水でセールスマンは自分もつけていると言っていましたが。悲惨なほどトイレの消毒剤のにおいがしていて、吐きそうになったことがあります。いい海の香りが〈アクアパッツァ〉をふりかけたみたいなにおいでないことは確かです。
食事が終わると、食休み。食休みが終わったら、各自自由時間ですが、
「ギフトレスさん。ダンスしませんか?」
ふあっ?
エレンハイム嬢はどこで手に入れたのか『浪路はるかに』のレコードをかけ、
「ほら。女の子に恥かかせないでくださいね?」
と、ダンスを強要してきました。
はあ。ため息です。最後にダンスなんてしたのはいつのことでしょう?
エレンハイム嬢の手をとり、右手を背に添えます。正直、身長差がありますが、それを言ったら、足を踏みつけられそうです。
『浪路はるかに』の、スローテンポなメロディに合わせて、控えめなリードをしながら、ゆっくりステップを踏みます。何せエレンハイム嬢は自分から誘ったくせにウェットスーツ姿の足ヒレをつけたままですから、それを踏まないようステップをするには慎重さの他に、判断力、忍耐力、政治力、引力、巻き上げ力、その他もろもろの力が必要です。
え? 足ヒレくらい外したらって言えばいい? 嫌ですよ、そんな。「女の子に恥かかせないでくださいね?」って言った後に足ヒレ外せば?なんて言ったら、どうなることか。
ちょっと手を上げて、くるっとターン。足ヒレつけながらですが、見事なものです。社交ダンスには大会があって、様々な部門がありますが、足ヒレつけたままの部門もあるのでしょうか?
レコードが終わりました。フィニッシュは中途半端ですが、勘弁してもらいましょう。久しぶりのダンスの割にはわたしはかなり善戦しました。
「何か、ありませんか?」
感想ですか? わたしは黒板に向かいますが、上着の端をつままれます。
「できれば、言葉で教えてほしいです」
ええー。
ちょっと待ってください。言葉? 口で言えってことですか? どうしたものでしょうか、ヘンリー・ギフトレス。女の子に恥をかかせてはいけないとダンスして、無事終わったわけですから、もう大丈夫と思っていたら、評価を求められました。これって、こたえなかったら、乙女心が分かってないとかわたしが責められるんでしょうか? うーん……。
「次は服を変えて踊るといい」
言いました。率直な感想です。足ヒレが邪魔だし、ウェットスーツはつるつる滑るんです。よかった、と言えばいいのかもしれませんが、そうしたら、「どこがよかった?」ときかれるのは目に見えてます。もちろん彼女自身が使う「悪くない」を使ってはいけません。そのくらいは分かります。
さて、わたしは恐る恐るエレンハイム嬢の顔色を窺います。
「うん! 今度はドレスを用意しますね!」
満面の笑みです。どうやら、こたえはあっていたようで、安心――え? 今度?




