72
マーダー・インクは自分たちの尾行がバレバレなことに気づいたのでしょう。葉っぱを隠すなら森に隠すのが一番ですが、そこに森がなかったら、どうすればいいのか? よそから森を持ってくるしかありません。根っこを傷つけないよう引っこ抜いて、何百台というトラックで運び、植えつける。こんなしんどい大仕事をすれば、葉を一枚隠すなんてことはどうでもよくなります。
さて、マーダー・インクはこっそり探るのはやめにして、威圧的調査行動を開始しました。つまり、社員をガンガン送り込むのです。このボトル・シティに。黒服たちは次々とやってきます。船からぞろぞろ上陸し、五台の自動車に満載になってやってきて(乗り切らない人は左右のステップに乗って車体にしがみつきます)、誰からも忘れられた地下道の入り口からもぞろぞろ這い出てきます。
粒々お肉目当ての潜水士たちのときもそうですが、大勢のお客さんは特需を生みます。黒服たちはフエダイ一匹に五セントを払い、パワー・オブ・ストッピング教会ではイルミニウスが特別に祝福した重機関銃が売れたそうです。
彼らは革命にも資本家にも加担しない第三の勢力となって、今回の騒ぎに影響を与えることでしょう。本人たちにその気がなくても、銃やナイフのプロというのはいるだけで威圧感があるものです。
ただ、〈ロバの男〉はボトル・シティ警察最悪の殺人鬼と言われる警官です。マーダー・インクの圧迫くらいで参るようなかわいらしい神経はしていません。しかも、彼は定年退職後にリッチに暮らすために邪悪な副業を持っていることも知れました。おそらく誘拐だけではないでしょうし、彼と裏で手を組む革命家も同志ヨゼフだけではないでしょう。
「でも、ギフトレスさん。ひとりでタチアナさんに会いに行ったってことはひとりでしゃべったってことですか? やるときはやるんですね」
ふふん。もっと褒めていいんですよ。褒められる伸びるタイプですから。
タチアナ女史がスープをきちんと飲んだので、わたしも約束を履行することにしました。
まず、三日間、革命家勢力下にある新港湾地区でビラ配りを見張ります。ビラがなくなれば、取りに行く。その先に印刷機があるだろうというわけです。その結果、波止場のそばにある工業倉庫だと分かりました。海の側にくすんだ真鍮のクレーンが三つある、工業生産品積載専門の桟橋もあるやつです。
場所が分かれば、あとは奪取後の移動手段です。
この作戦には水上トラックを運転できる人が必要です。ジーノは運転できますが、ジーノをこの作戦に加えると、例の〈貸金庫の鍵〉を乱射しまくるのが目に見えます。ロレンゾはしばらく家を空けています。マーダー・インクの黒服たちが大挙して来たことが関係あるのでしょう。ジッキンゲン卿は「やあやあ我こそは!」と叫ぶのが目に見えています。カムイは絶対に運転はできないでしょうし、身長七フィートは悪目立ちします。わたしたちは倉庫から印刷機をかっぱらうのです。いえ、本当の持ち主に頼まれて移動させるだけですから、かっぱらいではありません。ちょっとした移送です。
「わたし、車の運転できますよ」
と、エレンハイム嬢が言いました。わたしの目はエレンハイム嬢の足へ。
「そんなに短くないです」
あ、すいません。
「それに本を何冊か重ねて縛っておけば、アクセルペダルは踏めます」
やっぱり短いじゃないですか。
――と、こうして、わたしはエレンハイム嬢の運転する水上トラックに乗って、工業倉庫へ向かわんとしています。経路としては工業地区の南の桟橋から新港湾地区の南をまわり込み、逃げるときはそのまま北上してスキッドモア・ストリートを通って、ロンバルド通りの我が家に持ち込む。こんなとこです。
クランクをまわして、点火スイッチを押すと、エンジンがかかり、計器の針がふらふら頼りなく動く様子は『まあ、気は乗らないけど走ってやるよ』と言われているようです。
黒いタールがべったりとくっつく桟橋を出ます。このあたりのフジツボはタールでベトベトになっても生き残れるタフなフジツボです。うっかり車をこすったりすると、恐竜の爪でやられたみたいな傷が残りますので、ご注意を。
西へ針路を変え、最初は黄色く塗ったブイを目指します。近づくにつれて、ブイのまわりに野菜くずや壊れた木箱、白い腹を見せた魚の死骸が集まっているのが見えてきます。海藻の切れ端、ボートのオール、セルロイドの人形、それに人の死体。幸いうつ伏せで浮いているので、ぶよぶよに脹れて魚に食いちぎられたグロテスクな顔を見ずに済みます。警察に言っても、面倒くさがられるだけなので、どうしようもありません。運よく桟橋まで流れ着けば、回収されることでしょうが、身元は結局判明はしません。顔と指は食い荒らされ、歯型が残っていても、水没前だったら治療記録は残っていません。財布が見つかったとしても水でふやけて、文字は読めませんし、だいたい運転免許証など持っていません。ここにいるエレンハイム嬢のように無免許運転が当たり前のごとく横行しているからです。
わたしたちはいま、港湾倉庫の労働者みたいな服を着ています。平らな帽子をかぶってマスクを外し、毛織のシャツ。エレンハイム嬢もニット帽にオーバーオールですが、エレンハイム嬢がウェットスーツ以外のものを着ているのを見るのはこれが初めてです。
黄色い木造の倉庫が見えてきました。〈シャーマン・アンド・サン工業倉庫〉の文字の下に三つの桟橋に古いクレーンが立っています。エレンハイム嬢がギアを変えて、バックでクレーンの下にトラックをつけます。梯子で桟橋へ昇ると、トロッコのレールが設置されていました。倉庫のなかのものはトロッコで動かせるわけです。普段なら二十人くらい働いているようですが、蜂起後は出荷がなく、二、三人の労働者が端に座って、コインをかけたトランプをしている程度です。倉庫の仕組みは二階に物を保管し、出荷するものは二階から降ろして、トロッコで桟橋へ運んで、クレーンで船に乗せるようです。二階には様々なサイズの木箱が置いてあります。赤いビラの束が置いてあったので、そのあたりを探すと、〈印刷機〉の焼き印をされた箱が見つかりました。印刷機は絶賛稼働中のはずであり、こんなふうに箱詰めされているとは考えにくいのですが、まあ、向こうも何かの都合でよそに運ぶ予定があったのかもしれません。
ふたりで箱を押し、天井から垂れさがるフックを引っかけて、吹き抜けの穴から一階のトロッコへとクランクをまわして、箱を下ろし、また箱を押し、今度はクレーンのフックにひっかけて、トラックの荷台に載せます。
思ったよりも簡単でした、と思ったら、ベルが鳴って、倉庫から猟銃をもった男が飛び出してきました。弾は走り去るトラックの荷台に一発命中し、二発目はわたしと運転席のエレンハイム嬢を飛び越えて、車のすぐ前の水に刺さりました。桟橋を振り返ると、わたしたちを泥棒呼ばわりする男たちが十数人集まっていて、自分で自分の髪を引きちぎって悔しがっています。やはり、革命において、印刷機の力は過小評価してはならないようです。プロパガンダ戦争の主力を失ったら、彼らはその政策を民衆に知らせることができない――いえ、演説すればいいだけでは? あ、でも、ビラがないと、どこで演説をするのか分かりませんか。死にかけのタチアナ女史が頼むだけあって、印刷機は革命戦争の帰趨を決める重要な武器なのです。
その後、予定通り、トラックは観光地区の南の岸へと進み、スキッドモア・ストリートで水を切りながら、旧市街の桟橋のひとつにゴールしました。多少撃たれましたが、当たらなかったので吉です。
騎兵の像がある広場では体格に恵まれてもやることのない人たちがいますので、その人たちに五十セント支払って、この重たい印刷機をわたしの家の(大変不本意ながら)タチアナ女史の部屋(ということになっているわたしの部屋)まで運んでもらいました。非常に早く、丁寧な運びっぷりなので七十五セント支払うと、男たちは火酒を出してくれる店の名前を数えながら、階段を下りて、ユニオン通りのほうへと歩いていきました。
いつもの灰色の上下に着替えて、マスクをつけて、ひと段落。お腹が空きます。
「お腹が空きました」
エレンハイム嬢もそう言っています。潜る予定はないのにウェットスーツに着替え、タンクを背負ってます。
なんということでしょう! 食料庫を見たら、缶詰も魚がありません。買出しにいかないといけませんね。
エレンハイム嬢とともにわたしのボートに乗り、商業地区の水域を進み、水没したハイマン・アンド・デュボワ貯蓄銀行の二階、エディ・カールソンの雑貨屋へ向かいます。いつもならば、コンデンスミルクの赤い缶がピラミッド型に積みあがっているはずですが、ひとつもありません。エディが「あっちが全部飲んだ」と指差した先にはマーダー・インクの黒服が樽の上に座って、新聞を読んでいました。そのまわりには空き缶だらけです。うわあ。
黒服は黒眼鏡に隠れた目でわたしたちのことをじろじろ見ています。彼らは教父を殺した〈シューター〉を殺した〈ロバの男〉のバックにいるものを探っているわけですが、エディの店のコンデンスミルクの缶のなかに黒幕が隠れているとでも思ったのでしょうか? それか大の甘党?
わたしは水煮した豆の缶詰がふたつ欲しいだけです。この罪深き世界でただひとつ、わたしたち卑小の人類を導けるものは水煮した豆の缶詰だけなのです。もちろん、わたしはコンデンスミルクを否定するつもりはありません。虫歯菌が溺れるくらいコンデンスミルクを飲むのもいいでしょう。糖尿病発症のリスクは跳ね上がりますし、それ以前にデブになりますが。
次に合成ケチャップです。これは瓶詰めにされているのですが、とりあえず赤い海藻を集めて、化学薬品と煮潰していたら、なんとなくケチャップに近づいたという妥協のケチャップです。我々は不足の時代を生きているのです。ただ、ドライトマトの缶があるので、これを買っておきましょう。
豆とケチャップもどきを得たわたしたちがチリコンカンをつくるのを止められるものは誰もいません――チリコンカンそのものへの飽きを除いて。もちろん、大丈夫です。チリコンカンを食べるのは三日ぶりですので。
あとはイソマグロの缶詰。不足の時代においても人気がない、食べると消化不良間違いなしの代物ですが、使い道はあるのです。
薄く焼かれた塩味ビスケットが缶で売られているので、これがパンの代わりを務めます。クラッカーと呼んでもいいもので、これはチリコンカンとの相性がいいのです。パンが手に入らないときはチリコンカンをつくって、ビスケットを食べる。これが賢い消費者というものです。
それに海藻スープの缶詰をふたつ。このままだと色合いが茶色や赤に偏り過ぎです。
で、次は魚ですが、これはエディの店では売っていませんから、旧市街に戻ります。魚市場に行けないので、どこか、まだ営業している魚屋を探しましょう。
ボートを係留し、旧市街の慣れたところを歩いているのですが、不安を覚えずにはいられません。
警官隊を満載したトラックが信号待ちでわたしたちのすぐ横に止まりました。荷台の側面には『死よ、万歳!』と白ペンキで殴り書きされています。隊員たちを見ていると、そのうち額に髑髏マークの入れ墨をするんじゃないかという顔をしています。すぐ後ろには黒塗りの公用車が停まっていて、〈ロバの男〉が乗っています。隣には私服姿の刑事が乗っていて、コンクリートの靴を履いて沈んだように手をひらひらさせながら、話しています。あながち間違いではなく、本当にコンクリートの靴を履いた哀れな犠牲者の話をしているのかもしれません。
空が暗く、人の顔は殺気立っていて、対立する派閥の人間をならず者みたいにぶちのめすことが徳と称えられる。ボトル・シティの暴力的な面が協調されたのがいまの有様です。確かに蜂起以前にも『いっぱしの男になりたいなら、誰か刺してきな』と小学生をそそのかす悪い大人がいましたが、彼らは一応少数派でしたし、たいていの人は殺したいほどむかつくことがあったら、頭のなかで三十回くらいその相手を殺して、憎悪を発散しました。いまは革命家のテロと警官隊のテロ、そして、実は手を結んでいて、人を殺してお給料をもらっている殺し屋たちが市内のあちこちで見張るように立っています。息苦しい時代です。
それに魚屋がしまっています。革命・資本家両派が魚を安く買いたたくからです。
「なんか、おかしいですよね」
エレンハイム嬢が言います。
「魚はこの街で一番手に入りやすい食料のはずなのに」
魚屋が連なる街路はどこも鎧戸が降りています。
ただ、一軒だけ。小さな間口の、鮭の看板をかけただけの店が開いています。とはいっても、杉材でつくった平らな売り場台には小魚一匹並んでいません。
「売り物はこれだけだ」
老人が指で差したのはバケツのなかで泳ぐ二匹にニシンダマシでした。
「これしか売り物がないんだよ」
「いくら?」
老人がニヤリと笑います。
「いくら出すね?」
わたしは十六セント、一匹八セント出しました。これが蜂起と革命前のニシンダマシの値段だったのです。
わたしたちのために頭と内臓を出しながら、老人は目を瞬かせて言いました。
「タチアナが出てくれば、何もかも変わるさ」
「おじいさん。タチアナを知ってるの?」
「ああ、知ってるとも。あの子が――」
老人は魚の切り身を紙に包んで渡すと、手を売り場台くらいの高さで掲げていいました。
「こんなに小さかったときから知ってる。あの子の親父さんたちはわしらにとって希望の光だった」




