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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと革命の自動拳銃
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 次の日、午前十一時くらいですが、わたしは警察署に行きました。ひとりで。

 地下室で大柄の女性警官にベネディクト警部にもらった通行メモを見せると、デスクに置いてあったタチアナ女史のためのスープを持っていきます。粉末ビーフエキスでつくったビーフティーと呼ばれるスープで病気がちな人に飲ませる栄養スープです。

 タチアナ女史はもう立っていることもできず、寝台に座って、壁によりかかり、目を閉じています。

 わたしは右頬の後ろの網紐を解いて、マスクを外しました。

「革命党と資本家は裏で手を組んでいる」

 動きません。

「同志ヨゼフは警官隊と営利誘拐をしていた」

 そうきき、 ゆっくりまぶたが開きます。

「同志ヨゼフは?」

「口封じで殺された。警官隊の隊長で〈ロバの男〉と呼ばれているやつに」

 小さくうなずきました。

「あなたはその価値のないものたちのために犠牲になろうとしている」

 タチアナ女史は首をゆっくり小さく横にふりました。

「犠牲を捧げる価値はある」

 ゆっくり、ふらつく足で立ち上がり、わたしの目をしっかりと見て、彼女は言いました。

「わたしの父は、伯父と魚屋をしていた。小さな店だったが、正直な商売をしていた。大手の水産会社みたいに目に染料を垂らして、鮮度を偽るようなことはしなかった。当時、あの町の魚屋はみな水産会社の魚を買っていた。買わざるを得なかった。他に魚を売ってくれる漁師がいなかったから。父と伯父は質の低い魚が流通していることに嘆いていた。父はなんとか魚を売ってくれる漁師を見つけた。値段はどうしても少し高くなるが、それでも評判をとった。鮮度のいいうまい魚だと。水産会社はいろいろ圧力をかけてきたが、父と伯父は屈さなかった。父は少しでもいい魚を食卓に届けたくて、少しでも漁師たちの暮らしを楽にしたくて、漁師と小さな魚屋が合同した組合をつくった。漁師たちは確実に魚を売ることができ、魚屋は水産会社に頼らずに魚を買いつけられ、魚の値段は下がり、よい魚が人びとの手に入るようになった。水産会社には煙たがられてはいたが、なんとか暮らしていけた。母はもう亡く、裕福ではなかったが、幸せだった。……そのころだ。靴工場の強盗殺人があったのは。警察は父と伯父を革命家のテロリストだといい、逮捕した。父と伯父はテロリストではない。革命家ですらなかった。いい魚を安い値段で食卓に届けたいと思った魚屋だ。……いろいろな人が父と伯父のために戦ってくれた。だが、駄目だった。父と伯父は処刑された。見せしめだ。大企業に逆らって、組合をつくる者に対しての。父と伯父が死ぬと世間は簡単にふたりを忘れた。結局、父と伯父に襲いかかった不正は、知識人たちにとってはアクセサリーに過ぎなかった。それだけだ。でも――」

 こけた頬に涙が伝い落ちました。

「漁師たち、魚屋たちは違った。商売が成り立たなくなり、バラバラになったが、彼らは忘れなかった」

 ふふ、と笑い、タチアナ女史は寝台に座りました。

「同志たちが信じられなくなるとは情けないが、しかし、悠長なことは言っていられない。同志ヨゼフは貴重な印刷機を管理している。裏切ったものたちの手に置いておくわけにはいかない。同志ヘンリー。あなたに頼みがある。革命家としてではなく、よりよい明日を手に入れようとする、ただの魚屋の娘として」

「……なんだ?」

「印刷機を取り戻してほしい」

「条件がある」

「……」

「食事を摂ってくれ。あなた個人の殉教、広い視野に立った革命遂行の機械を救いようのない堕落者から奪取すること。どちらかがより重要か」

「……善処する」

「このスープを全部飲むまで動かない」

「……わかった」

 わたしは最後の一滴が飲み干されるまで、そこに立って、見ていました。

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