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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと革命の自動拳銃
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「か弱きものを助けねばならぬ」

 ジッキンゲン卿は言いました。悪くないアイディアです。外はもう夕暮れどきで雲の隙間からぼんやりとした橙色の光が見えます。これから夜になるわけですが、夜に隠れて悪さをするものたちがいるというのがジッキンゲン卿の意見です。

「おう! おれも行く!」

 カムイが同意しました。彼はジッキンゲン卿の盾持ちであり、たったひとりの領臣サーヴァントです。これも理にかなっています。

「さあ、ともに参ろう! ギフトレス卿!」

 これが理にかなっていません。潜ったり、脅かされたりした一日の終わりを風紀委員会の真似事で費消するなんてあんまりです。それにこのふたりにはわたしの筆頭会話代行人になった経験がありません。そもそも、彼らは言葉を発せずとも察してくれる能力が低いのです。ドアの横の黒板に「疲れているので嫌です」と書きました。

 五分後、わたしはロンバルド通りにて、カムイにお姫さまだっこをされています。嫌なのです。お姫さまだっこは普通に歩くよりももっと嫌なのです。

「殿さま! ヘンリー、すごくうれしそうだ!」

「うむ。よきかな、よきかな」

 蜂起が勃発してから、あちこちで犯罪が多発しているのに警察は指一本動かさない。だから、ジッキンゲン卿が騎士道にのっとって、世直しをする。それは結構です。しかし、その騎士道のなかに高々とお姫さまだっこされるわたしは含まれていないはずです。とにかく、お姫さまだっこだけは何とかやめさせる必要があります。

「この乱に乗じて、婦女のかどわかしが起きている。騎士として許すことはできぬ」

「そうだ! なんでも、そいつらはぶーぶーに乗って、びゅんびゅん走って、どこかに女の子たちを閉じ込めてる! 女の子をいじめるやつは悪いやつだ!」

 誘拐団がいるというわけです。差し当たっての問題はその悪いやつたちがどこにいるのかが全く分からないことです。

「殿さま! その悪いやつらはどこにいるんだ?」

「これに地図がある。名もなき民が正義の意志を我らに託さんとした、栄誉の紙だ」

 タレコミに栄誉という言葉をつけるのはギャングはもちろん警察にも見られない特殊な行動です。警察の仕事はタレコミのおかげでぐんと楽になるのは事実ですが、その一方でタレコミ屋はクズ呼ばわりされます。勇気ある告発とか市民の協力といった言葉はあるにはあるのですが、もし、タレコミ屋が汚職警官の利権に絡んだ犯罪をうっかりタレこんだら、おしまいです。留置所のなかで靴紐を使って首を吊った状態で見つかるハメになります。

 その心配がちらりと脳裏をよぎります。この誘拐団の後ろには有力な警官がいるのではないかと。地図をちらりと見せてもらいましたが、カムイが見ても分かるよう、目印になる建物や看板を色鉛筆を使ったイラストで教えて、どこを曲がるかを明確に示しています。それによれば、誘拐団のアジトは工業地区の歓楽街寄りの、A・P・ヒル通りにあるそうです。そこは工場向けの機械部品の制作を請け負う、煉瓦造りの街です。一応、中立ですが、中立というのは双方の陣営からの弾が乱れ飛ぶ危険地帯ということです。

 だからこそ、人目がなく、警察も来たがらない。誘拐団の隠れ家をつくるのにうってつけの場所ですが、このタレコミは一体誰がしたのか、それによって、わたしたちは切り刻まれてスープの具になることもありえるのです。

 すっかり暗くなって、途切れがちなガス灯を蝋燭が一本点ったガラスの箱ランタンで補っています。粉ふいた金属のにおいがしてくる煉瓦の工房が並んでいて、暗がりの奥で熱と動きを持った光が鍛冶屋たちの影を伸ばして、チャールストンを踊らせています。地図の通りに歩いてみると、一階が煉瓦、二階が板でできた倉庫みたいな建物にたどり着きました。煉瓦の門の向こうには鉄くずが放置された前庭があります。奥の扉の上、ガラスの細い窓から光が漏れていて、男たちの笑い声がきこえてきます。

「遠からんものは音にきけ! 近くば寄って目にも見よ! 我こそはロンバルドの騎士ジグ・ジッキンゲン! お前たちの悪行もこれまでよ!」

 まあ、そうなるだろうなと思っていました。最初に板張り壁の二階から銃が火を吹きました。弾はジッキンゲン卿の鎧で跳ね返りましたが、その跳ね返った弾がわたしの頭のすぐ上を通り過ぎたので、庭の鉄くずの後ろに隠れます。

「はっはっは! 悪党どもの姑息な飛び道具など、正義の騎士には通用せんわ!」

 わたしには通用します。ほんとやめてほしいです。

 カムイがジッキンゲン卿の隣にいるので、こちらに来るよう手招きしました。そのあいだも銃弾が跳ね返っているのですが、カムイはニコニコ笑っています。恐怖というものは人間を守るために存在するものです。危険なものから遠ざかれという本能が生物の自己保存のために働くわけです。では、恐怖が存在しない人間のことは、いったい何が、この世の数多の危険から彼を守ってくれるのでしょう?

 こたえ:馬鹿力。

 カムイはわたしが手招きしていることに気づくと、忠実な盾持ちらしくジッキンゲン卿に、

「なあ、殿さま! ヘンリーが呼んでるから行ってもいいかい?」

 と、たずね、わたしのほうへ後退する許可を得ました。

 この会話のあいだも弾がチュイーンと甲高い音を立てて、あちこち跳ねまわっています。

 カムイは十四歳。せめて若い命だけは救おうとここに伏せるようジェスチャーしますが、彼の口から出たのは驚きの質問でした。

「なあ、ヘンリー! あのチカチカ光ってるのは悪いやつなのか?」

 カムイは自分に向かって銃を撃つ連中がいいやつかもしれないという、人間の自己保存にとって極めて危険な思想を持っていました。こんな考え方をしていたら、命がいくつあっても足りません。戦争に出たら、たらふく勲章をもらって、〈国家の英雄〉なんて呼ばれたりしたでしょうが。

 わたしは彼らが悪いやつであることを、五回、勢いをつけてうなずき、とても悪いやつであることを教えました。

「そうか! 悪いやつか! よーし!」

 と、言って、カムイはわたしが弾避けに使っていた鉄くずを両手で持ち上げました。鉄くずと言いましたが、具体的には古いツアー・リング・セダンからタイヤと座席を取り外し、立方体にプレスされた錆び鉄を載せた代物です。カムイはそれを、クリームケーキの空箱みたいに軽々と持ち上げ、二階から撃ってくる悪いやつへ投げつけました。相手は白茶けて若干反っている板張りに対し、こちらは錆びたとはいえ鉄の塊です。万が一にも勝ち目はなく、哀れな狙撃者は窓ごとぶっ潰されました。さらに突然のトン単位の加重に二階の床、一階の天井が白旗を上げ、鉄くずは一階の狙撃者たちの頭へと落ちていきました。ジッキンゲン卿は剣を抜き放ち、突撃の号令をカムイとわたしにかけました。破壊された壁からなかに入ると、五人のゴロツキが倒れたポーカーテーブルの向こうで両手を上げて、服従の意思を、割と必死に示しています。やれと言われば、人殺しだってやりそうな連中ですが、突然、鉄の塊が降ってきたら、勝ち目がないことくらい分かるものです。靴の下でチップがパキパキ割れるのをききながら、ジッキンゲン卿は誘拐犯たちから少女たちをどこに隠したかききだし、ひとりが隣の部屋の床下とこたえました。カムイが床をバリバリ剥がすと、怯えた顔の少女たちが、上は十七歳、下は八歳、ジッキンゲン卿を見上げます。

「心配はいらぬ、か弱き女子おなごたちよ。正義の騎士ジッキンゲンがあらわれたからにはもう大丈夫だ」

 と、口上を述べているのをききながら、わたしはカムイと一緒に、誘拐犯のゴロツキたちと見張っています。いまは逮捕者が警察署でやるみたいに壁の前に一列に並んでいるのですが、五人とも凶悪そうな、いわゆる懲役面ちょうえきづらというやつで、奥まった目が豚の目みたいに光っていたり、顎にギザギザの刃物傷の痕が残っていたり、顔じゅう髭だらけにしていたりと、甘いマスクと優しい言葉で女性をたぶらかせるものがひとりもいません。彼らは自動車と銃で無理やり女性をさらっていった、本当にどうしようもない誘拐魔だったわけです。

 おや、一番右端のハンチングをかぶった小柄な人物、見覚えがあります。どこで見たのか――、

「なかにいるやつに告ぐ! お前らは包囲されている! 大人しく外に出てこい!」

 間が悪い。警官隊のお出ましです。

 カムイと一緒に震える女性たちに羽織らせるものを探していたジッキンゲン卿がこたえます。

「加勢痛み入る。誘拐魔どもはみな退治し捕らえたり! さあ、来るがよい!」

 警官隊がライフルを構えながら、入ってきます。なんだか、誘拐魔よりもわたしたちのほうが危険人物みたいな目で見てきます。ひとり、またひとりとあらわれて、とりあえず、少女たちが保護されました。そして、最後にあらわれたのが〈ロバの男〉です。特別あつらえの黒い軍服みたいなものを着ていて、ブーツやサム・ブラウン・ベルトが磨き込まれてピカピカ光っています。顔は少し面長ですが、顔つきは穏やかで少し垂れ気味の目じりがまた優しそうな印象を見せます。ルシオ警部と歳は同じくらいですが、つやつやした肌のせいかルシオ警部よりもずっと若く見えます。ほとんど白くなった髪が見えなかったら、三十代くらいに見えていたでしょう。

「市民の協力に感謝します」

〈ロバの男〉は簡単に挨拶しました。いまや、五人のゴロツキたちはライフルで狙われていて、手も足も出ない状態です。ジッキンゲン卿としては満足のいく成果ではないでしょうか? ゴロツキは牢屋行き、女性たちは救われ、〈ロバの男〉は手柄を立てる。誰も損しません。

「あ、ボス――」

 ハンチングの男が〈ロバの男〉をそう呼ぶまでは。

 すぐに馬鹿なことをしたと思って、彼は口をつぐみましたが、〈ロバの男〉の優し気な垂れ目がスッと光を引き、まるで潰れたひと粒の豆を見るような視線をハンチングの男に飛ばします。

 幸いなことにジッキンゲン卿とカムイは勘が悪いので、この凶悪犯罪のカラクリには気づかないでしょう。厄介事が牙を剥いて、頭をガジガジする前に外に追い出しました。

 とんでもないタレコミです。〈ロバの男〉の領域に思い切り踏み込んでしまいました。ふたりにはタレコミの見分け方を教える必要があります。あのハンチングの男が余計なことを言わなければ――。

 あ。

 思い出しました。

 あのハンチング。わたしの家で見た覚えがあります。

 同志ヨゼフです。タチアナ女史が印刷機の専門家と紹介した、あの小男です。

 ダダダダダダーン!

 建物のなかからライフルの一斉射撃が耳をつんざかんとしてきました。わたしが戻ると、五人のゴロツキたちは壁に血痕を残して、重なり合って倒れています。

「銃を隠していた」〈ロバの男〉が言いました。「残念だが、射殺するしかなかった」

 警官のひとりが死体にリヴォルヴァーを握らせています。

 もちろん、わたしはオーケーの意味にとれそうな手の上げ方をして、まったく文句はないという意思を示しました。警官は死体に握らせるための銃がまだあることを袋を持ち上げて示していたのですから。

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