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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと革命の自動拳銃
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 世界はろくでもない方向に転がっていますから、殺人を専門に販売する会社がいたとしてもおかしくはありません。マーダー・インクは発覚しない確実な暗殺を商品化していて、社員はみんなプロの殺し屋。彼らは会社から月給をもらって殺しをして、ボーナスは年に二回。六月と十二月。保養施設があって、会社直属の医者(産業医といわれるものです)がいるので、安い診療代で病気を治せます。

 彼らは仕事をするときには服装が決まっていて、山高帽、フロックコート、黒い眼鏡で口髭を蓄えること。

 昔、ロレンゾもスカウトされたそうですが、彼は自分はジーノの直属で他の暗殺はしないので断ったそうです。それに服装が決められるのも嫌だったとか。

 これでタチアナ女史の無実はほぼ確定です。セニョール・スミス二号が嘘をついている可能性は限りなく少ないというのがジーノの見解です。

 ジーノとロレンゾが言うにはマーダー・インクはアフターケアも完璧で、要するに標的を殺した後、顧客が確実に利益を得られるように計らうのもサービスのうちらしいのです。だから、最初から濡れ衣を着せる相手にタチアナ女史を選んでいたのに、タチアナ女史が率先して出頭し、殉教者になろうとし、そのために発生した現在の革命状態は依頼主の望むところではない。

 だから、彼らはあちこちで見え隠れしているわけですが、わたしとエレンハイム嬢を尾行して、彼らにどんな得があるのでしょう?

「わたしじゃなくて、あなたを尾行していると思いますよ。だって、あなたは現在、ボトル・シティで最高の殺し屋ですから」

 んん? ちょっとよく分かりません。

 そこでエレンハイム嬢にさらにきいてみると、ロレンゾからきいた話だとして、例の三つのギャングの破滅的な銃撃戦の後、ジェファーソン弁護士、ホレイショ・ギャヴィストン、ビリオネア・ジョーの三人が溺死体で見つかったという噂が広まっているそうです。

 いえ、そんなわけありません。あの地獄の三乗みたいな場所に、わたしはいました。あの三人は間違いなく溺死以外の死に方をしたのです。ふたりは射殺、ひとりは落下死です。確かにわたしはひとりだけ傷つけました。それはフランク・アンシュターですが、それは彼がわたしを殺そうと襲ってきたからです。それにわたしが刺した銛をトドメとばかりに踏みつけて殺したのはジーノなのです。

 わたしが殺し屋だという悪夢のジョークはなんだかんだでこなれてきて、もうわたしを悩ませることはないと思っていたのに。

 とにかく、近くのガス工場で背中の空っぽタンクにエアを充填してもらって、ロレンゾと潜り、しっかりとっくり話し合う必要があります。もしかしたら、あれは殺し屋同士のジョークみたいなものだと言ってくれるかもしれませんしね。

「あなたを獲得するためにマーダー・インクの社長が動こうとしているときいたことがある」

「ああ、もう」

「あくまで噂だ」

「わたしについての噂といい、暗殺を生業とする人たちはどれだけ噂話が好きなんですかね?」

「実地で見てみるか?」

「え?」

「殺し屋たちの集まる、サロンというか、そんなものがある」

「ボトル・シティに住んで長いですが、そんなものがあるなんて夢にも思ったことはありませんよ」

「カタギが入ることができる場所じゃない。ジーノだって入ることはできない」

「じゃあ、わたしも入れないですよ」

「いや。あんたは人づきあいを好まない孤高の殺し屋として知られている」

「もー」

「とりあえず、マーダー・インクの動きは気になるし、ジーノはタチアナを気に入っている。多少動くが、ついでにあなたもどんな噂が流れているのか、きちんと知っておくのがいいだろう」

「わたしが会話させられる可能性は?」

「ほぼゼロだ」

「ほぼ?」

「ときどき『お前を殺して、おれがナンバーワンになる!』と叫ぶ馬鹿がいる」

「行きたくなくなりました」

「安心してくれ。そんな馬鹿が出たら、あなたが手を汚すまでもないとかなんとか、適当に理由をつけて、おれが相手する」

「本当ですか? お願いしますよ」

 わたしとロレンゾはパッと見、似ているという人がいます。双子のジーノよりもわたしのほうが似ているという話をカムイから言われたこともあります。どちらも顔を隠していて、黒いほうがロレンゾ、灰色のほうがわたし、人はわたしのことを「ほら、あの二人組の灰色のほう」って言ったりしているそうです。確かにロレンゾといる時間はあの居候軍団のなかでは一番多いかもしれません。彼自身は無口であり、ぺらぺらしゃべることの苦悩を知り、それでいて話すべきときは口をきけますから、いざというとき筆頭会話代行人になってもくれます。ひとりでいるとき以外の時間で一番楽なのはロレンゾなのです。

 まあ、たぶん、それもあるから、わたしが暗殺者であるという誤解が解けないのでしょう。

 新港湾地区まで行きます。市電に乗れればいいのですが、革命家たちの占領地には入れません。それにまもなく市電の運転手や整備士たちが革命家たちに加勢するらしいので、市内全域で市電はストップすることでしょう。

 結局、革命家側のバリケードを超えるのは面倒なので、エアタンクも残っていることですし、中立区域の桟橋まで歩いていき、そこで潜っていくことになりました。足ヒレというのは世人が考えているよりもずっと速く進めるのです。泡をぶくぶくさせながら、沈んだ起重機やタグボートのあいだをスイスイ南下します。そのうち、防波堤沿いに泳ぐのですが、ロレンゾが指差した先に石でつくった階段が見えます。そこから顔を出し、外した足ヒレをベルトにひっかけて下げると、ああ、タンクが重いなあと階段を上ります。頭上には板張りの桟橋らしいものが出っ張っていて、沖のほうでは釣り人が垂らしているらしい釣り糸が数本見えます。一匹も魚がいないのにご苦労なことです。板張りのギリギリまで昇ったところで丈の低い扉が見つかりました。上縁が丸くなっていて、ドアノブのかわりに鉄の輪がついている、芝居がかった古い扉です。ロレンゾがそれを引っぱって扉を開けます。こういうときは秘密のノックとか合言葉があるものです。ジーノのカジノがそうではありませんか(例の強盗たちはロシアンルーレットの死体を捨てるところから根性で這い登ってきたそうです)。

 なかに入った途端、甘ったるいアヘンのにおいに呻きました。受動喫煙が心配です。わたしたちは裏口から入ったらしく、大きな白い絹の幕のそばに、ギラギラしたライムライトが二基燃えていて、三人の小男が平らな人形のようなものを棒で操作しています。ああ、これは影絵芝居です。三人は白く輝く絹のなかに自分の影が映らないように注意しながら、影絵人形を動かしていました。髭の長い戦士や怠惰な猫、桃がなっている木、空を飛ぶ龍と不死鳥。そっと裏方から横の通用口を通ると、長椅子が三十くらい設置してあって、キセルを吸いながら影絵を見ています。小柄で人形みたいな少女がひとつの長椅子につき、ひとりついていて、客とキセルの世話をしています。ごく小さなアヘンの玉を練り上げて、キセルのなかでゆっくり燃やし、客が快感のあまり戻ってこれないところへ飛んでいく前に気つけのお茶を飲ませる、至れり尽くせり。サービス業の鑑です。しかし――。

「全員だ」

 ロレンゾが言います。このアヘン中毒者たち全員が殺し屋? 人を殺すというのはそれなりに体力と精神力がいる仕事だと思いますが、これは――。

「おれも正直分からない」

 体を鍛え、粗食に慣れ、ただカプタロウたちと遊ぶことだけを我が身に許した贅沢とするストイックな暗殺者ゆえに、この悪習にどっぷりつかることの理解はできないとのことです。

 やせ衰えた体を長椅子に転がす男女のなかでも大きな寝台があって、そこにはヘビー級ボクサーの干上がったものが転がっていました。歳は五十歳くらいでしょうか。肌は悪習の歴史です。おそらく最初は酒で赤く焼け、性病で黄斑をいくつも作り、最後はアヘンで骨のように白くなっていました。

「元気か、ヘンドリクス?」

 ヘンドリクスと呼ばれた男はちらりと見て、言いました。

「二人組の尻尾のあるほうか」

 これはロレンゾのことです。少し伸ばした髪を後ろで結んでいます。

「最近、仕事は?」ロレンゾがたずねます。

「大きく稼いだから、あまり。アヘンが買えなくなったら、ひと仕事するさ」

 わたしがどうやったら、この体で人殺しができるのか訝しんだのが分かったのでしょう。ヘンドリクスはキセルを握っている両手のうち、左手を上げて見せました。アヘンに命を吸い尽くされた体のなかで左手だけは元気旺盛な健康体を保っていました。ゴツゴツして肉つきも十分。指の一本一本が葉巻くらいに太いです。それに比べて、右手は指が枯れ枝みたいに見えるまで痩せています。

「この手で頭を握りつぶすんだ。ケホケホ。こいつは石から水を絞れるほど強いんだ。スパイク付きの鉄のヘルメットをかぶっても無駄だ。グシャ! ケヒケヒ」

 竹でできた吸い口に薄い唇を寄せて、ちゅうちゅうと煙を吸います。体の細胞全員から総スカンを食らう煙は遠慮なくヘンドリクス氏を破壊していきます。脳細胞の言い訳がきこえます――そりゃあ、おれたちだって反対だよ。でも、御大がちゅうちゅうしてえって命令を出すんだからしょうがねえじゃねえか。

「次の仕事で終わりだ。次の仕事で稼いだ分を吸ってるあいだにおれは死ぬさ」

「本人が言うのだから、間違いないんだろう」

「そうさ。ケホケホ」

「残念だな」

「なにが?」

「あんたなら、もっと上を目指せた」

「マーダー・インクの代表取締役にでもなるか?」

「マーダー・インクのライバル会社をつくれたさ」

「ケホケホ。ロレンゾ。お前はいつだってだんまりなのに、そのユーモアはどこから出てくるんだ? ケホッ! おい、シャオリン! 灰をかき集めるのを忘れるな! きっちり灰まで吸い尽くしてやる」

 ヘンドリクス氏付きの少女がぺこりと頭を下げ、言われた通り、盆に落ちた灰を集めます。

「で、マーダー・インクの何が知りたい?」

「話がはやくて助かる」

「尻尾のないほうも連れてくるんだもんなあ。ケホッ。おい、水に引きずり込むとはいい殺り方だな」

 わたしは首をふりました。

「まあ、謙虚なのはいいことだ。――こんなところで影絵を見ながらちゅうちゅうパイプを吸ってても、外の話はきこえてくる。特におれは耳がいいからな」

「いくらだ?」

 ヘンドリクス氏は口をキセルから離し、手を煙でも追い払うように動かしてから、

「金はいらんよ。どのみち、もう、使い切れない。なあ、尻尾の生えてないほう」

 え? わたしですか?

「あんた、おれのことを覚えておいてくれ。ネーベルト将軍の頭をスパイク付きのヘルメットごとつぶした、このおれのことを覚えておいてくれ。アップルシードル郡の大会じゃあ四勝したアームレスリングの新星! サウスポーの恐怖! アイザック・ヘンドリクスの登場だあ! ケホツ、ケホッ」

 了承の印にうなずきました。暗記科目はそこまで得意ではありませんでしたが、努力します。

「わかった。じゃあ、話そう。教父殺し。あれは〈シューター〉の仕事だ。いま、会社(マーダー・インク)にはセールストップがふたりいる。〈シューター〉と〈リッパー〉。撃つやつと切り裂くやつ。〈シューター〉はきちんと自分の仕事をしたのに殺された。殺し屋ってのは殺すのは得意でも、自分が殺されないようにするのは下手なもんだ。もちろん、ロレンゾとあんたは例外さ。ケホケホッ! で、〈シューター〉のことだが、誰が殺したのか分からんが、掟破りなのは間違いない。依頼人が殺したにしろ、ライバルの躍進を面白く思わない〈リッパー〉が殺したにしろ。あるいは社長が、自分の地位を脅かす可能性があると思って殺したにしろだ。そして、こいつは教父のときと同じだが、ケホケホ――〈シューター〉殺しの下手人をおれは知っている。おまわりだ。〈ロバの男〉。やつが殴り殺した。〈シューター〉は銃にかけちゃ敵なしだが、飛び出しナイフのどこを押せば刃が飛び出るのかもしらんやつだ。まあ、〈リッパー〉も逆で同じだがな。ともあれ、セールストップの片割れが殺された。それで会社は怪しいやつを片っ端から見張らせてる。あの黒服で」

 では、わたしをスカウトするつもりはないわけです。ほっ。

「やつらが一番に見張ってるのはもちろん〈ロバの男〉だ。すぐに殺さないのは泳がせて、黒幕を突き止めたいからだろう。前だったらホレイショ・ギャヴィストンかジェファーソンあたりの大物が疑われただろうが、灰色のほうが殺っちまったもんな。いい仕事ぶりだぜ。ケホ」

 わたしはあくまで否定し続けます。

 しかし、〈ロバの男〉が警察署の前でマーダー・インクの殺し屋と握手していたのは理由があってのことなわけです。マーダー・インクの皆さんはこっそり尾行するかわりにパートナーみたいな馴れ馴れしさで常にそばにくっつき、ボロを出すのを待つつもりでしょう。

「連中は〈ロバの男〉に仕事を外部委託するふうに見せかけて、油断を誘うつもりだ。もっとも〈ロバの男〉だって、ボトル・シティ警察最悪の人殺しと言われるだけのやつだから、マーダー・インクが何かを探ってることには気づく。だが、どうしてカネのなる木のほうからくっついてくるのにそれを追っ払う理由がある? まずったら、黒幕じゃなくて、警部のベネディクトに頼ればいい」

 ヘンドリクスはキセルを吸い、口からエクトプラズムみたいに濃い煙を吐き、虚ろな目をして、

「八日前、おれは天使を見た。蟹に食われた天使を。天使はこうおっしゃった。人間を救いたい。この水没から。全ての人間を魚にして救いたい。天使はおれにどんな魚になりたいかとたずねた。おれはカマスサワラになりたいとこたえた。そうだ。すらっとしてて、魚雷みたいに強い。カマスサワラがいい。ダンゴウオは嫌だ」

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