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次の日、特に潜る予定もなく、ジッキンゲン卿がカムイの郷土料理であるマルタウグイのタルタルステーキをうまいうまいと食べているのを見ていたら、エレンハイム嬢に捕まって、フィリックスに会いに行くはめになりました。フィリックスは新市街水域の割と透明度のある離れ小島みたいな建物に住んでいて、海草に白い花を咲かせて、それを絨毯のようにするべく、ガーデニングをしています。エレンハイム嬢の発作はそのガーデニング風景を遠くから見るところから始まります。
「フィリックス兄さま、尊い! フィリックス兄さま、しんどい!」
「しんどいなら帰りますか?」
「ギフトレスさん、何にも分かっていませんね」
「わかりますよ。人の兄弟に無理やり会いにいかされるのってしんどいです」
「いいですか。この場合のしんどいとは尊すぎてしんどいってことです」
「しんどいなら帰ります?」
「帰りません!」
わたしたちは呼吸マスクですから、フィリックス兄さまが勧めてくるかち割られた二枚貝や渡り蟹を食べることができません。非常に非常に残念ですが。
「最近、陸地が騒がしいようだが、ふたりは大丈夫なのかい?」
「大丈夫さ、兄さま。ボクだって子どもじゃないからね」
「わたしから見たら、ルゥはまだまだ小さなルゥだよ。ギフトレスくん。妹が迷惑をかけていないかい?」
現在進行形でかけられていると言いそうになりますが、エレンハイム嬢がわたしのお尻を思いきりつねります。
「迷惑だなんてとんでもない」
暴力が言論を弾圧するとき、そこに真実の乙女が生きたまま埋葬される、掘り出すならいまだ。悔い改めよ。と、何かの本で読んだことがあります。
「人間のつまらない意地の張り合いみたいなものが続いてるよ。革命だって。ボクにはさっぱりさ」
これは事実です。エレンハイム嬢はどちらにも加担する気はないようです。ただ、タチアナ女史が犯人だとは思っていないようです。これはミカ嬢からの影響もあるでしょう。彼女が涙を落としたと言ったら、エレンハイム嬢は驚きました。塩分を外に出そうとする浸透圧の作用じゃないかと言いましたが、いえ、間違いなく、タチアナ女史を無実と信じての涙でした。
「無実の女性が、自ら牢屋に、か」
フィリックスもタチアナ女史に同情しています。
「兄さま。どうかした?」
「いや。その女性にも兄弟姉妹はいるのかなと思ってね。思想は立派なものだけど、大切な人を悲しませてまで身を捧げるべきだとはわたしには思えない」
濡れ衣とは違いますが、罪と罰の関係ではエレンハイム嬢とフィリックスも厄介なことになりました。
「すまないね。こんな暗い話を。ふたりとも残りの空気は大丈夫かい?」
残圧を見たら、わたしが五十五、エレンハイム嬢が三十です。そりゃそうでしょう。フィリックスと会う彼女は過呼吸状態です。
「大丈夫だよ、兄さま」
「すまないね、ギフトレスくん。ルゥを連れ帰ってくれないか?」
水から上がると、エレンハイム嬢はまだ三十もあるのにと文句を言っていました。わたしがいないとき、彼女は残圧どのくらいまで攻めているのでしょうか。空恐ろしくなります。ベネディクト警部にはいかに好きな人との時間が大切でも残圧五十は憲法よりも守らないといけないと念入りに教えることにしましょう。
「ギフトレスさんはタチアナさんが殺したと思ってますか?」
もうボートで帰るところなので、口頭と返答せず、肩をすくめました。どちらとも判じにくいです。
「それともうひとつ。最近、変な黒服たちに尾行されてるのに気づいてますか?」
首を横にふります。わたしは賞金稼ぎでもギャングでも暗殺者でもありません。
わたしとその他住人を尾行しているという人たちについて、特徴をざっと教えてくれました。山高帽にフロックコート、黒の蝶ネクタイ、恐らく銃を持っている。顔かたちはみんな黒い眼鏡に黒い口髭を生やしていて、見分けがつきにくい。
「どうもわたしたち、知らないうちに何かに関係してるみたいですね」
なんでしょうか。借金取り? いえ、高度に技術化された不良債権回収業者。わたしはどこからも借金していないので関係ありません。
「自動車で移動していることもあるから気をつけてね」
まるでわたしがはねられるみたいな口ぶりです。
旧市街の北の桟橋でボートをもやいます。船着き場から右手に見える警察署。その正面階段を降りてくるのは〈ロバの男〉とエレンハイム嬢が見たという黒服の男。ふたりはしばらく話してから握手してお別れしました。そのまま〈ロバの男〉は大聖堂地区へ、黒服は仲間らしい三人が待つ車に乗って、新港湾地区へ行ってしまいました。驚いたことに車三人、階段からひとり、合わせて四人は遠くから見たことを差っ引いても見分けがつきません。そんな人たちに狙われる心当たりはないんですが。まさか、フライドチキン文化復活を阻止しようとしているのでは? そうだと〈チキンマンズ・イン・ソープ〉を大佐に売ったわたしは危険人物とみなされるでしょう。
まあ、そんなわけはありません。たぶん、エレンハイム嬢の気のせいでしょう。〈ロバの男〉と仲がよいのなら、たぶん革命絡みでしょう。〈ロバの男〉は資本家階級から革命を打ち壊すハンマーとして厚い信頼を得ています。その報酬は無利子無担保返却期限なしの投資か何かでしょう。あの黒服たちはそのおこぼれに与かろうとしているだけでは?
「わたしは絶対、彼らが何かを企んでいると思います」
陰謀うんぬんはルシオ警部の一件で懲りました。まだ、わたしが凄腕の溺れさせ暗殺者であるという誤解は解けていません。勘弁してもらいたいものです。
「タチアナさんのことが関係しているのかも」
これはたとえ水中でも口には出せませんが、彼らはフィリックスに用があるのかもしれません。彼がまだ自我を保てぬタコだったときに誰か有力者を食べてしまったとか、沈没した宝船を守るのは巨大タコだと無邪気に信じるトレジャーハンターとか。
とりあえず帰りましょう。疲れました。
そう思っていたところで、突然、警察自動車がわたしの目の前で急ブレーキをかけました。ただの警察自動車ではありません。警部以上が使える六人乗り乗用車です。
「乗るんだ」
ベネディクト警部が言います。わたしたちは車に乗せられ、警察署の地下まで一気に連れていかれました。
「ボクらに何か用? こうやって無理やり警察署に連れていくなら令状は持ってるよね」
そこは大柄の婦人警官がいる例の留置所前です。
鍵が開かれ、水中銃とダイバーナイフを預けてなかへ。
「食事を摂るように、きみたちから説得してくれ」
タチアナ女史はもともと痩せ気味でしたが、いまは最後に見たときの半分くらいに細くなっていました。
「彼女は食事を摂ろうとしない。署内で餓死して革命の口火を切るつもりだ」
「ほとんど意識がない……」
「ブドウ糖を注射しているが、それでも痩せていく。食事だけは摂るように」
ケホケホホと乾いた笑い声がしました。全ては彼女の思いのままです。
「何日間食べていない?」
わたしはたずねました。
「十日間。逮捕されてからずっとだ」
「ボクらがお願いしたところで食べないと思うけど」
ベネディクト警部はため息をつきます。何かの思想のために餓死をすることの意味が見いだせないのでしょう。
「用はこれだけ? じゃあ、ボクらは帰らせてもらう」
警察暑を出るとき、エレンハイム嬢はぎゅっとわたしの手を強く握りました。
「あんなこと……」
フエダイの値段は三セントか四セントか。
「あんなことすべきじゃないです」
ああ、分かっています。
彼女はいま、救う価値のない人びとを救うために死のうとしているのです。
ブッブー!
クラクションが鳴って、悲壮な決意のようなものを吹き散らします。
「おーい、おふたりさん。ちょっと乗ってけよ」
ジーノが黒服や警部のよりもずっと優雅で高価なフェートン車から手をふっていました。




