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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと革命の自動拳銃
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 大学地区は大聖堂地区の北の対岸です。大聖堂地区の北には東の新市街地区から海沿いの観光地区までつながる水域があり、大聖堂の近くの桟橋からは大学の建物が見えるのです。

 ランカスター百貨店など稼ぎ場所が沈んでいる大学地区ですが、なによりそこにはわたしが愛用しているマスクが売っているのです。ガリャルド工房というマスク専門店で、先祖は仮面舞踏会などのためのマスクを作っていて、非常に誇り高かったのですが、いまの時勢は病院でつかう布マスクくらいしか注文がなく、わたしのような特別注文をする客は大変喜ばれます。

 大学地区は今度の革命騒ぎに対しては中立を守っていて、静かです。古い納屋や倉庫、書籍商。大学の建物は現在は閉鎖されていますが、ときどき化け物になった人間の咆哮がきこえます。ただ、大学の外には出ないので、いつウツボ男が襲ってくるか分からない他の地区よりは安全です。

 ガリャルドの工房は小さな店でショーウィンドウに貴族文化華やかなりしころの仮面が飾ってあります。孔雀の羽根を刺したもの、金箔や螺鈿で飾ったもの、ため息が出るほど美しい曲線が彫られているもの。ただ、これらは顔の上半分を隠すもので、顔の下半分を隠したいわたしのニーズに合っていません。

「セニョール・ギフトレス。ようこそおいでくださいました。いつものですね」

 何も言わずとも思いのままに品が出てくる。よいことです。ガリャルドは抑制された物腰に人柄が香る小柄な老人で、マスクをつくることは職人ではなく芸術家の仕事なのだと自負しています。確かに彼のマスクはぴったり顔につき、小さな穴が開いているわけでもないのに息が苦しくなりません。ビロードの内張をした箱から取り出されたマスクをつけると、いつもの安心感です。

「マエストロの技だ」

 わたしはいつも、ひと言そう言います。わたしが自分から口をきく、それほどの価値がこのマスクにはあるのです。

「せっかくハンサムな顔をしているのを隠すのはもったいないですな。そちらのお連れの方も見ていきますか?」

 ロレンゾはマスクを引き下げ、服とくっついて顔を隠していることを示しました。

「おや、残念ですな」

 そのとき、ちりんちりんとドアの鈴がなりました。ロレンゾはさっとマスクを引き上げて、顔を隠します。

 入ってきたのは四人の紳士です。高級ではないですが、きちんとしたスーツを着て、ポケットチーフを三角に差し込み、店に入ると帽子をきちんととる。水没前はこんな感じの洗練された人たちが外交販売員として、缶入り頭痛薬や切り子細工のガラス壜や世界文学全集を売ってまわっていたと言いますが、いまはお客のほうから店を訪れます。その店に訪れるだけの価値のあるものが売っている場合に限りますが、本来、商売とはそういうものなのでは?

 とは言いますが、わたしは自分の商品をアンクル・トッドの店に売りに行っています。アンクル・トッドがわたしの家まで買いに来るわけではありません。しかし、わたしの商品――クリスタルのライターや缶詰入り保存用クッキーに価値がないとは言わせません。つまり、善良な潜水士ヘンリー・ギフトレスは古き良き外交販売員ヘンリー・ギフトレスでもあるわけです。

「お待ちしておりました。セニョール・スミス。こちらになります」

 四枚のマスクは赤茶色の箱に入っていて、セニョール・スミスが他の三人にマスクを渡していきます。そのとき、セニョール・スミス二号がうっかり箱を落としてしまい、マスクが外に出てしまいました。中身はおばあちゃんの顔のマスクです。セニョール・スミス二号は慌てて、それを箱にしまいなおすと、わたしをじっと睨みました。まるで秘密の趣味を知られてしまい、気分を害しているようです。別にわたしはそれが悪い趣味だとは言いません。具体的にどんなことをするのか分かりませんが、とりあえずわたしにコミュニケーションを強要するのでなければ、一向に構わないのです。ちらっ。

 ――ああ、セニョール・スミス二号はまだ怒っています。唇の上に鉛筆でひいたみたいな細い口髭の若者で、映画俳優に憧れて真似したみたいですが、実際はおばあちゃんになりたくて、いえ、別にわたしは本当にどうも思わないんです。

 こんな怒気はガリャルド工房にはふさわしくありません。場所に対する尊崇の気持ちがわたしを外へ連れ出しました。次はロレンゾの買い物です。偶然にもロレンゾも大学地区の店に用事があるとのことです。歩いて五分のところにその店はありました。

 ドーリンゲン精肉業刃物販売店。サンダル材の壁に肉屋が骨を叩き切るときに使う、正方形の包丁が小さなものから大きなものへと店の入り口側から奥へと並んでいるのですが、最初は手のひらにおさまるくらいの大きさだったのが、最後はドラゴンの首でも落とすのかと思うくらいの大型になりました。小さな子どもが数人乗れるくらいに大きいです。店主らしい大人はおらず。小さな女の子が甘味料を染み込ませた靴紐をくちゃくちゃ噛みながら漫画雑誌を読んでいます。

「店主はどこだ?」

「父さんなら出かけたよ」

 ロレンゾが少し肩を落としました。もし、店主がいれば、何も言わずにいつもの商品を出してくれるはずなのに、無駄に会話をしないといけないのです。大変同情します。

「人殺すときに使う刃物が欲しいの?」

「ああ」

「そんなに持ってるのに?」

「足りないくらいだ」

「死んだほうがいい大人ってたくさんいるもんね。オッケー、わたしが案内したげる。そっちの灰色のお兄さん、そこの札、ひっくり返しておいてくれる」

 わたしは豚がコーヒーを飲んでいる『ただいまコーヒーブレイク』の札を通りから見えるようにひっくり返しました。案内されたのはくすんだ真鍮の棚が並ぶ部屋で奥は少し広めにしてあって、マネキン人形が並んでいます。真鍮の棚にはすり切れはげた革が何かを巻いた状態で置いてあります。

「で、どんなのが欲しいの?」

「カランビットと陸軍の特殊部隊用トマホーク」

「オッケー」

 女の子は革をひっくり返して、隠してあったナイフをせっせと集めます。カランビットというのは三日月型のナイフですが、たいてい三日月型のナイフは反りが自分のほうを向いているものです。ところが、このカランビットは相手のほうへ向いているのです。実に殺す気に満ち溢れたナイフですが、これは本来、稲を刈るためにつくられたというのですから、人間の罪深さにただ恐れるばかりです。

 陸軍の特殊部隊用トマホークというのは手斧でした。ですが、なんだか、地金が少し厚めなのに刃はカミソリみたいに鋭くしてあり、薪を割るというよりは人間の頭や肩を割るための研究がなされた結果を見ているようです。人間の罪深さをまたも恐れます。

 ロレンゾがこのふたつを見たとき、顔は隠れていましたが、目はうっとりしていました。これは商売道具を見る目ではありません。ひとめぼれです。ボビー・ハケットにたとえてみれば、カランビットは『ビッグバター・アンド・エッグマン』、陸軍特殊部隊用トマホークはジャック・ティーガーデンと共演した『ベイジン・ストリート・ブルース』にあたるのでしょう。

「お試しに使うかい?」

 こくり、ロレンゾはうなずきます。

「一体につき、二ドルだからね」

 そう言って、マネキンを一体、部屋の空きスペースに引っぱっていきます。

 ロレンゾは指を三本立てました。

「じゃあ、六ドル」

 ロレンゾはわたしにストップウォッチを持たせて、時間をはかってほしいと頼みました。

 マネキン三体はロレンゾを囲むように立ちます。三体のマネキン全部を殺し尽くすのに十三秒。濃密な十三秒です。頭の上半分が斬り飛ばされたり、一撃で親指を除く四本が切り落とされたり、両方の肩から続けざまに腕が落ちたり。ロレンゾはまず指を、次に手を、次は腕を落とすと、例のカランビットを股間のあたりから喉元まで一気に切り裂き、トマホークで頭を両断するのですが、これが五秒とかかりません。しかも、腿の付け根の内側もしっかり切り裂かれ、出血多量のフルコースです。しでかした失敗というと、つい、気が入り過ぎて、トマホークを投げてしまい、待機中のマネキンの頭を割ったことです。これでもう二ドル取られます。

「そんな気合入れて、誰を殺すの?」

「天使だ」

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