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「しばらくは忙しくなるので、訓練ができない。外の海を潜りたかったが」
「それはまだやめたほうがいいかと思いますよ」
「技術面での問題か?」
「ミカ嬢はタチアナ女史が犯人じゃないといい、かわいそうだと泣いているんです」
「そうか……」
「あなたも難しくなると思いますから、だから、外では潜れません」
「……彼女については、我々でも困ってはいる」
「どういう意味ですか?」
「彼女は革命の殉教者になるつもりだ。このまま、彼女のいうところの無実の罪で彼女が死刑になれば、彼女の支持者や仲間たちが行動に出るかもしれない。つまり、革命だ」
注釈ですが、わたしの発言は手帳に鉛筆で書きつけた筆談です。
さて、タチアナ女史はこれまでボトル・シティに存在したことのなかったものをもたらしました。
英雄です。
女衒やニシンダマシやゴム引きの雨合羽には事欠かなかったボトル・シティには、誰かを率いて、よりよい未来を目指そうとする人間がいませんでした。しかし、タチアナ女史がそれになりました。
英雄の登場と投獄は政情不安定をもたらしました。水産物加工場や缶詰工場の労働者は世のなかの不満に対して、ただあきらめ、幸福を給料袋のサイズに切り詰めて、おれは幸せ者だと言っていたのですが、革命党員は少し前からこの切り詰めた幸福論に浸透し、給料袋サイズの幸福を工場まるごとサイズにできることをこっそり演説してまわっていたのです。十人以上の労働者を抱える作業場や工場では労働者たちがタチアナ女史の逮捕は市政府の陰謀だと叫び、正しい裁きを!と書かれたプラカードで潮臭いボトル・シティの空気を掻きまわし始めました。銀行や工場長と言ったお偉方はこの労働者の動きがギャヴィストン一家や粒々お肉よりもタチが悪いものだと認識し、革命党の言う未来が想像以上に雇い人たちの脳みその襞に差し込まれているのを知って、あたふたしています。彼らは一番未熟な労働者がコルク製のコースターをひっくり返しただけで、慌てて警察に電話して、ライフルで武装した警官隊をよこすよう頼んでいます。
タチアナ女史逮捕の後、すぐ労働者たちはバリケードを作り始めました。それは道の舗石や煉瓦を引っぺがして積み上げ、近所の家を襲撃してその家具も全部積み上げ、銃眼を開けておき、自分たちの味方以外の通行を許さないという、わたしからしたら迷惑この上ない運動でした。赤い旗が建物の窓から飛び出して、週休二日制と八時間労働、残業の際の手当支払いの厳格な履行を約束しろ、しないとひどいぞ、の大合唱でした。
この数日のあいだに特権階級のスターダムにあらわれたのは印刷技師でした。資本家にしろ労働者にしろ、通したい意見があり、それを誰かにきかせる方法はふたつ。ひとつ目は銃を突きつけて、耳元で大声で叫ぶ。これは効果はありますが、効率が悪いです。ふたつ目はビラです。銃を突きつけるより威力に劣りますが、効率性が段違いです。革命党は赤い紙、資本家は青い紙にスローガンや脅し文句を刷り、ばら撒いています。そのビラを刷る技術を持つものこそ印刷技師、それに植字工です。今や彼らは魚屋と同じくらいに偉いのです。
「ひえー、こいつぁおもしれえや! サツに弾を浴びせたら、街の半分が英雄扱いだぜ」
ジーノのカジノは相変わらず繁盛していました。革命だの蜂起だのがあっても、みな遊びたいのです。革命くらいでギャンブルをやめられるなら、苦労はしません。それがギャンブル中毒です。わたしはジーノの〈ハードウェア・ジョバーズ〉の四階から見下ろしているのですが、アザラシ解体業の肉屋たちが歓楽街の店をまわっては革命のための資金を捻出しろと強請していました。カンパというらしいです。
「カンパかカンパチか知らねえが、このジーノさまがそんなものにビビると思ってるなら、大間違いだ。だが、まあ、革命も悪かねえからな。ちっとはカンパに乗ってやろう」
二丁の四五口径のオートマティックをベルトに差し、非常用階段で自分から路上へと降りていきました。ジーノは降りる前に挿弾子を外して、わたしに金の弾丸が装填されていることを見せました。
「お望み通りカンパしてやるぜ。十八金で受け取れ!」
まもなく下のほうから銃声と悲鳴と逃げる背中へ弾を撃つときガンマンが発する独特の甲高い歓声がしてきました。バリケード蜂起が始まってこの方、市内は混乱の坩堝ですが、ジーノもその混乱を深めるのに一役買っているようです。
ロレンゾがわたしに向かって、出口の階段を顎でしゃくりました。確かにここにいると、ジーノの純金のカンパを見せ続けられそうです。ロレンゾと非常階段を降り、とりあえず歓楽街地区から逃げる算段をつけました。普段なら闇のなか、誰の眼にも止まらずに市内を移動するロレンゾですが、今回はそれをやって見つかったら、即撃たれる。それにどっちの側でもない中立の道を進めば、どっちからも撃たれる。それならどちらかの側に深く入って移動したほうがいいということで、革命家サイドの道を歩くことにしました。危険を察知し、それに対応し、騒ぎをできるだけ小さくすることについてはロレンゾの右に出るものはいません。彼と一緒に歩いていれば、風穴開けられてバリケードの部品にされることはないでしょう。
ロンバルド通りに帰るなら、ポート・レインを通り過ぎて、カーマイン・ブリッジを渡り、そのまま北へ行くのがはやいのですが、現在、カーマイン・ブリッジは革命党のガンマンと資本家に雇われた警官隊との境界線になっていて、その橋を渡ろうとしたら、誰でも狙い撃ちにされるそうです。だから、労働者側の手に落ちた新港湾地区へとまわり道をするわけです。
革命勢力の手に落ちた街というのは、とにかく赤いです。壁に赤いビラが海藻からつくられた糊でぐじゅぐじゅになってへばりついていて、労働者たちも赤い布を腕に結び、去就を明らかにします。横断幕も赤。『自由、平等、幸福』と書いてあります。そして、あちこち演説だらけです。演説する人というのはなぜ果物の空箱に乗るのでしょう?
魚市場では相場の概念が消えました。フエダイは一匹三セント。どう考えても安すぎます。十五セント前後のはずです。しかし、三セント。これで固定されているのです。世界からフエダイが絶滅して、そこにあるのが最後の一匹だとしても、三セントです。成長不良のひん曲がった小さなフエダイも、しっかり肉がつき脂ものった、四十センチ以上あるメスのフエダイも同じく三セント。
労働者に安価で栄養価のある食事を用意したいのは分かりますが、せめて一匹八セントはつけてください。シルバーヘイクのキロ当たりの値段も十セント。相場の半額です。これでは漁師たちは魚を獲りに行きたがりません。実際、魚市場の売り箱には隙間が目立ちます。普段なら売れていくと、その隙間に新しい魚をさっと入れて、いつも箱を満杯にするのに。魚は生ものですから、値段が上がるまで抱えることができません。だから、漁獲量を減らして、漁師のありがたみを再認識し、値段を上げるまでこらえるしかないのですが、プラカード労働旅団の面々に言わせれば、それは反革命だそうです。それはこっちに飛び火しました。プラカード労働旅団のひとりが、わたしに気づいて、レース中、親の仇を見つけたレーサーみたいにこっちに突っ込んできたのです。
「同志ヘンリー! 海に潜れ! 魚を獲るんだ!」
「あ、う……」
なんということを! シルバーヘイクのキロ当たり買取価格十セントのときに海に潜れとは、恥知らずの、思いやりのない 冷酷な人間にしかできないことです。それだけでもひどいのに、わたしに向かって話しかけてくるなんて! これはもう人間ではなく、人の形をした別の何かに違いありません。
「海に潜れよ、同志! でなきゃ、反革命だぞ!」
「あうぅ……」
わかりました。海に潜ります。シルバーヘイクもそっちの言い値で手放します。だから、もう話しかけないでください。辛いです。
そのとき、ロレンゾの拳が人でなしのみぞおちに深々と入りました。人でなしは足をふるわせて、へたりこみます。
「行こう」
もし、わたしが潜水士ではなく、彫刻家だったら、いまの勇気ある義挙の彫像をつくり、もしわたしが市長だったら、その彫像を市の真ん中の広場に置かせるし、もしわたしが神さまだったら、ロレンゾのための動物王国を天国に用意することでしょう。
気になるのは目撃者ですが、わたしもロレンゾもマスクをしているので、顔は見られていません。――あ、でも、いつもマスクをしているから、「あのマスク野郎どもの仕業だ!」と言われたらアウトです。
とりあえず、価格を固定化した計画経済的魚市場を後にしましょう。また、自由主義的経済に戻ったころまで行くのはやめておきます。幸い、アンドリュース大佐からもらった百ドルがありますから、しばらくは何不自由なく暮らせます。
ブッブー! 警笛が鳴って、広い道を装甲車が爆走しています。蜂起が起きてから、この装甲車という代物は街のどこにいても見かけるようになりました。絨毯の下とか浴室とかにいてもおかしくないほどだくさんです。この装甲車という生き物は資本家サイドにもあるのです。ただ、あっちは兵器工場でつくられた本物の装甲車で機関銃もついていますが、革命家サイドの装甲車は鉄板をトラックにリベット打ち込んで止めた、夏休みの宿題みたいな装甲車です。いま、見かけたのは〈労働者の勝利〉号です。ただのトラックを走らせるためのエンジンなのに、そこに鉄板を何枚も取りつけたから、動きは非常に遅くて、機動戦をしかけられた日には到底勝ち目がありません。火力の面では猟銃を手にした労働者が荷台に乗っているだけです。それでも見かけると、みんなは盛り上がるわけですが。
バリケードはわたしたちにまわり道を強制します。文句を言えば、反革命とか資本家のスパイとか言われて撃たれるので、素直に従います。そのうち親切なバリケードにあたるのを待つしかありません。いろいろなバリケードがあります。石工がつくったきれいな煉瓦の壁、そこいらにあるものを片っ端から積み上げたゴミの山、路面電車を横倒しにした豪快なバリケードもいれば、大人の腰の高さくらいまでしかない慎ましいバリケードも。バリケード分類学は誰か別の人に任せるとして、わたしは慎ましいバリケードで通してもらうことになりました。銃眼のひとつからだみ声でそこで止まれと命じられます。十五丁のライフルで狙われている状態で逆らうのはあまり楽しいことではありません。こういうときはおとなしく従うに限ります。バリケードの上からひょっこり労働者が顔を出しました。
「なんだよ、無口コンビじゃねえか」
ふーん。そんなふうに呼ばれていたのですね。まあ、事実ですが。
「お前らは革命党か資本家か?」
確かに百ドル儲けました。もし労働者が富くじで百ドル当てたら、その瞬間から彼は資本家でしょうか? わたしはそうは思いません。
「……」
「……」
「おい、サム。こいつら、しゃべらねえぞ」
「質問の仕方を変えろや、トミー!」
「じゃあ、お前ら、資本家か?」
わたしたちは首を横に振りました。
「じゃあ、革命党か?」
うなずきます。
「よーし、通りな。それとどこかでライフルを手に入れることだ。いまの時世、ライフルがなきゃひとかどの男とは言えねえからな。よし、次!」




