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その日の午後、またしてもメッセンジャー・ボーイがやってきて、ミカ嬢を引き取るか家まで引きずっていけとメッセージを渡されました。
おかしいですね。ベネディクト警部はどうしたのでしょうか? ふたりで帰ることができるのに。ただ、彼はまだ池でしか潜っていません。ミカ嬢を水中の家に送るのにも、念のため、わたしという指南役を同行させたほうがいいと考えたのでしょう。
わたしはドアの隣にかけてある小さな黒板にそれとなく『ベネディクト警部に言われたのか?』と書きました。彼がミカ嬢に片思いしていることは誰にも内緒ですから、さりげなくです。
「警部じゃないぜ」おもちゃの猿みたいな制服を着たメッセンジャーは言いました。「警部はコロシで忙しいんだよ。ドえらいコロシが起きたんだ。あ、やべ。これ、内緒だった。じゃあな」
ドえらい殺人事件ですか。ミカ嬢と本日二度目のダイブをするためにウェットスーツとエアタンクを背負って、警察署行きの市電に乗ります。エアタンクというものは水にいるときはどうってことないのですが、陸に上がるととんでもなく重いのです。だから、市電で座れないと辛いのですが、席を譲ってくれと口に出すくらいなら、腰への負担を我慢します。市電というのは何というか、市民生活の粗野なところを目立たせる不思議な効果があります。いまだって、わたしの目の前では中産階級の奥さまらしき女性が隣に座っている友人に、どうやって自分の夫がちびの船乗りを蹴飛ばしたか熱弁していますし、三つ離れた席に座る口入れ屋らしい男が膝の上でカーペット布地のバッグを抱えて自分以外の人間全てが敵だという顔をしています。それではバッグのなかに大金が入っていることがバレバレです。ボトル・シティで現金を輸送するなら、護衛には専門家――つまり、ギャングを雇うべきなのです。
そういえば、昔、わたしがまだ幼きころ、アンドレアス伯父からこんなことがあったときいたことがあります。靴工場の経理部長が労働者に支払う給料全額をカバンに入れて運んでいる最中、強盗に遭い、警備員とともに射殺されたのですが、警察はふたりの魚屋を逮捕しました。ふたりは無実だったのですが、政府はこのふたりの魚屋に罪を着せて、死刑を宣告にしました。ただ、裁判の進行と捜査手法に問題があったこともまた事実で、世界じゅうの人びとが魚屋を死刑にするなとデモやらストライキやらを起こしたそうです。有名人もそれに参加していて、映画俳優とか作家とか学者とか、とにかく、その時代、魚屋の無罪を訴えないものは知識人とは言えないという風潮があったので、別にどっちでもいいやと思っている人たちも魚屋の応援をしました。
「それで、アンドレアスおじさん。魚屋さんたちは助かったの?」
「いや、電気椅子で花火みたいにパチパチ燃えたよ。多少の時間を与えただけで死刑は変わらなかった」
「みんなはどうしたの?」
「みんなって?」
「魚屋さんを助けようとした人たちみんなだよ」
「最初はすごく怒ったけど、すぐに忘れたさ。映画俳優には次の映画があるし、作家は本を書かないといけないし、学者は勉強しなきゃいけない」
「そんなの魚屋さんがかわいそうだよ。どうして、そんなことをしたの? みんな、魚が嫌いなの?」
「いや、みんな魚は好きさ。大好きさ。でも、ふたりの魚屋は×××だった。だから、死刑にされたんだ。さあ、もう、おやすみ」
わたしも子どものころは人並みに話せたんですよ。
さて、アンドレアス伯父が冤罪事件のお話を子守歌がわりに使ったことはこの際、置いておきましょう。わたしはこの話を何度かきいたことがあるのですが、ふたりの魚屋が結局、何だったのか、何者だったために電気椅子ではじけ飛ぶことになったのか、覚えていません。ときどき、思い出せそうな気がするのですが、あとちょっとで頭のなかに靄がかかります。たぶん、×××は当時のわたしはまったく知らない言葉だったので、記憶に残りづらかったのでしょう。
ふたりの魚屋のような犠牲者は現在、絶賛生産中で、おそらく世界じゅうで冤罪事件が起きているでしょう。ただ、現在の水没世界において魚屋は人類の胃袋を握る極めて重要な職業であり、貴族階級です。何かの事件で警察が罪を着せる相手を探すとき、魚屋は真っ先にリストから外されることでしょう。そのかわり麻薬中毒者とかオオクチバス病患者に罪を着せます。
さて、濡れ衣に袖を通してくれる肩に困ることのない警察署で市電を降ります。前回はアオリイカが階段にのるくらい、水浸しでしたが、今回は水たまりがひとつあるだけです。厄介ですが、日替わりの強烈な水位の差に慣れないとここでは暮らせません。警察署のなかでは、例のどえらいコロシで大騒ぎで、殺人課の仕切りの向こうでは警察署長が刑事たちに、これから爆発的に増えるであろう自白愛好者に二度とウソの自白でおまわりさんの手を煩わさないよう徹底した対策(つまり殴打ですが)をとるよう、厳命しているところでした。女子用留置所へ行く途中、制服警官たちの噂話がきこえてきました。
「警部はカンカンだよ」
「スタンリーのやつ、あんな初歩的なミスしたんだもんな」
「どこの世界に自殺するのにこめかみじゃなくて、自分の額の中央を撃つやつがいるんだ?」
「凝った自殺してまで罪を着せたいやつがいたのかもしれん」
「まわりに銃が転がってなかったんだぞ。どう見ても、殺しだろうが」
「でもよ、誰が何のために? 御大はほっといても明日死にそうなのに」
「女房が教会にどっぷりはまっててな。教父さまが死んだ!ってここ数日、ピーピー泣いてるのに、それが他殺だったと知れた日にゃあ、どうなることか」
なんと。教父さまは自殺ではなく他殺だったのですか。それにしても額の中央に穴が開いているのに自殺と間違うとはなかなかのお馬鹿さんです。それはベネディクト警部も怒ることでしょう。ビジネスに影響が出ます。一セントにもならないのに世間の注目度が高いために解決を余儀なくされる。それもしっかりとした成果を出さないといけないのですから。
大きな体の婦人警官が留置所の鍵を開けてくれました。ミカ嬢はすっかり酩酊状態です。ただ、着ているものが警部があげたもので、キモノは上から羽織るようにしています。
「えへへー。誰かがくれたんだー。いいよねー、贈り物って。わたしもお返しに贈りたいなあ」
その言葉だけでも大喜びでしょうが、いまは教父殺害事件で忙しいので、あとで教えてあげましょう。
わたしはもろもろの書類手続きをして、ミカ嬢を引き取り、れろれろになっている彼女を後ろから押すようにして階段を上りました。
「へんりー、まんりー、おんりー、ゆー。ゆ?」
殺人課の前を通り過ぎるとき、今度はベネディクト警部が黒板の前に立ち、刑事たちに何かを訓令しています。
黒板に磁石で止められている写真が二枚。一枚は大きな自動拳銃で、もう一枚はタチアナ女史の顔を正面と右側面から撮影した逮捕写真。
腰を抜かすかと思いました。我が家にボトル・シティ最大の宗教の指導者を殺害した犯人がいる。目に浮かぶようです。白いシーツに目の部分の穴を開けたものをかぶった集団がたいまつと銃を手に集まって我が家を囲み、吊るせ吊るせの大合唱。
ミカ嬢には悪いですが、一度、家に戻ります。もちろんひとりにはできないので、一緒に連れていきます。
家に帰ったら、まず、タチアナ女史に出頭を勧めます。これ以上、罪を重ねるべきではありません。それは、確かに大聖堂という名の、あんな大きな豪勢な建物に暮らし、蝋燭代やお布施を集めている資本家階級ですから、革命家から見ると、教父さまはテロの対象でしょうが、それでもこれはまずすぎます。リンチの危機ですが、いまならまだ間に合うでしょう。
ロンバルド街のアパートに戻ると、タチアナ女史がハンチングをかぶった小柄なヒゲ男と一緒に印刷機械らしきものを自分の部屋に引きずっている真っ最中でした。
「同志ヘンリーか。見てくれ。印刷機だ。これでビラがいくらでも刷れる。ああ、紹介しよう。こちらは同志ヨゼフ。印刷機のエキスパートだ」
「よろしくな、同志ヘンリー」
まさか、この大きな機械を我が家に? いえ、それどころではありません。
「はろはろー。わたしはミカ。ミカは名前で、名字は、あれえ、なんだっけ?」
「同志ヘンリーの知り合いか? わたしはタチアナだ。よろしく頼む。ともに革命のために戦おう」
「おねーさんのこと、写真で見たことがあるよー。あれはどこでだっけ?」
「写真? どこでわたしの写真を?」
怪訝な顔でタチアナ女史がたずねます。
「うーん。どこだっけなあ。へんりー、あんりー。あんりー、あんりー、あんれえ、どこだっけ?」
ミカ嬢をわたしの筆頭会話代行人にできる確率は、半々でしたが、ダメだったようです。わたしはドアの横の黒板に書きました。
――『警察があなたを殺人の容疑で逮捕しようとしています』
「わたしを逮捕? 誰を殺した罪で?」
――『この街の大聖堂の教父です』
「そのような男は殺していないぞ」
――『警察はあなたの写真とその銃の写真を持っていました』
「そうか」
タチアナ女史は、殺していない、と言っています。本当でしょうか。
「もちろん、わたしたちからすれば、宗教は労働者を惑わす麻薬だ。その指導者はみな追放されるべきだ。だが、ここの教父とやらを殺したのは別の誰かだ。だが、同志ヘンリー・ギフトレス。警察はわたしが犯人で間違いないと言っているのだな?」
わたしはうなずきました。
「わかった。同志ヨゼフ。印刷機はここから他の場所に移して、隠しておいてくれ。わたしは出頭する」
「同志タチアナ。でも、あんたはやっていないんだろう?」
「そうだ。だから、出頭する。同志ヘンリー、一応同行を頼む」
「待ってー。わたしもいくよー」
両手に花。片や麻薬中毒のオオクチバス病突然変異で片や宗教指導者殺害の最重要容疑者。警察署前でまたまた市電を降りたころには曇り空に差し込まれていた鈍い光は薄くなって、だいぶ暗くなり始めていました。
もし、自首や出頭に世界選手権があるなら、タチアナ女史は永年チャンピオンの殿堂入り間違いなしでしょう。堂々と警察著に入り、受付で凶器と見なされている銃を提出し、手錠をかけられ、留置所へと連れていかれるときは昂然と言い放ちました。
「同志諸君! 我々はきっと勝利する! たとえ、わたしのこの身が牢屋で朽ちようと銃殺隊の煙と消えようと、我々は最後には勝利する。これは誰にも止められない。輝かしき未来は諸君のものだ。革命万歳!」
それから、わたしとミカ嬢は外に出ました。ミカ嬢は相変わらずふわふわしていたので、重いのを我慢してエアタンクを持ってきたのは正解でした。水中のコテージまで運び、あとは鯉たちに任せましょう。
――と、思った、そのときでした。
「……かわいそうだよ」
?
「タチアナちゃん、何も悪くないのにかわいそうだよぉ」
うえーん、とミカ嬢は泣き出しました。頭のおかしなカール・ウェストブルックに実験材料にされかけたそのときさえ、笑っていた彼女が幼稚園児みたいに顔をぐしぐしこすりながら泣いているのです。
「ねえ、へんりー、おんりー。タチアナちゃん、かわいそうだよ」
ミカ嬢はタチアナ女史を信じているようです。
演説が刺さって彼女の嘘を真に受けた可能性もありますが、ある意味純粋なミカ嬢にはその手の真贋を見分けるコツを生まれながらに体得しているのかもしれません。ただ、わたしはタチアナ女史の言葉が真実か否か、まだ、確信が持てません。どちらかというと、彼女が犯人ではないかというほうに触れた確信のなさで……あッ。
――思い出しました。
ふたりの魚屋。彼らが死刑にされた理由。×××の中身。
魚屋たちは革命家だったのです。




