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驚いたことに教父さまの死因は自殺でした。ほっといても死んでしまいそうな高齢者ですが、自然死するまで待てなかったということです。彼の熱っぽい説教は支離滅裂になりがちでしたが、その気持ちの高鳴りが神秘主義的興奮につながっていたので、結構な数の信者がいました(水没後の世界にはハイになったら神さまが自分に宿ったのだと思う人が結構いるのです)。死にかけの体に鞭打って、炎のように激しい説教をする姿はボトル・シティの名物でした。それが失われたことには別に信者ではないわたしも歴史の一幕が閉じたような切ない気持ちになります。
教父さまは一番上等の司祭服を着せられて、蝋の花に囲まれ、、死に化粧も施され、頭に開いた穴もコットンと白粉で丁寧に隠されているとのことです。死者に対する最大の敬意が至れり尽くせりになっているわけですが、頬と唇が赤すぎて喜劇俳優みたいに見える気がします。信者の皆さんがいいのなら、それでいいでしょう。聖堂の雑用係が蟹に食べられた天使の像が崩れそうになるたびに蟹を追加でかけています。
大聖堂は人の海です。運のいい人は入り口から逃げられますが、そこまで運のない人は長椅子で葬儀が終わるのを待たねばなりません。そして、一番運のない、つまり、わたしと、その他圧倒的な多数は他人に潰されそうになりながら、立って葬儀が終わるのを待ちます。さて、わたしは大聖堂の右側の側廊にいて、聖人像の下でもうひとりの運のない人物とぺちゃんこになりかけています。そのもうひとりとはイルミニウスです。ショットガンとガンベルトの少年司祭。ストッピング・パワーの癒し子。硝煙たゆたう楽園の支持者。目をほとんど閉じているのに心の底まで見透かせるガンファイター。もう一方には太った女性がいます。裕福な商人の奥方と言った感じで、普通サイズの二倍の布を使っていそうな花柄のドレスを着ていて、彼女はここからは見えない誰かを相手に、ぺちゃくちゃしゃべり通しています。
「本当にあの教父さま以上に蟹に食べられた天使にお仕えするのにふさわしい人なんてあらわれないんじゃないかしら!」
「ううん! あらわれるわけがないじゃない!」
「どんな新任が来るのか知らないけど、わたしたちは認めませんからね!」
彼女はわたしに背を向けているので、わたしに話しているわけではありません。ちょっとイルミニウスのほうに寄って、彼女の前のほうを見ると、彼女のお腹が原因で腰のあたりを長椅子の背もたれにぎゅうぎゅう押しつけられている事務員風の男性で、この世の不幸を一身に背負った殉教者みたいな顔をしています。
「そうよ、わたしは認めませんからね!」
これは恐怖による支配ですね。彼は太ったご婦人に押しつぶされそうになりながら、おしゃべりの相手にならなければいけない。位置が反対だったら、わたしが犠牲になっていたことを思うと、肝が芯から冷えます。こんな狂気の坩堝は急いで脱出するべきです。新しい教父さまとやらがやってきたら、間違いなく暴動になります。死んだ教父さま仕込みの熱狂と暴走は人ひとりを八つ裂きにしかねないほど、盛り上がっています。
「おれたちは新しい教父は見つめないぞ!」
「教父さまはただひとりだ!」
「そうよ、そうよ!」
現在、わたしはベネディクト警部の極秘ダイビング・インストラクターであり、警察関係において、なかなか有利な立場にあります。そんなわたしでも集団リンチ殺人の現場には居合わせたくありません。
「蟹に食わせろ!」
「そうだ、生きたまま蟹に食わせろ!」
宗教戦争最盛期には自分とは違う宗教を信じている人間をお尻の穴から串刺しにして、煙でいぶし殺すのが流行していたとききます。ある聖人は異教徒たちに囲まれて殺されたのですが、そのときの凶器は牡蠣の殻でした。それで体を少しずつ削っていったそうです。そして、今回は蟹です。
だから、神は信じられないのです。大人しく人間の心の支えになっていればいいのに、それ以上のことを望み、「おれを愛しているなら○○をしろ、××をしろ」と殺人その他の凶悪犯罪の共犯関係に引きずり込むのです。信じて奉じたお返しに狂気を授けるのは取引として損だと思いますが、狂信者たちにはそれが分からないのです。
「殺しちまえ!」
「危険思想をばらまく前に殺しちまえ!」
「そうだ、殺しちまえ――」
数百の無秩序に飛び交っていた言葉の息継ぎがぴったりやってきたみたいに静かになりました。新しい教父が来たのです。教父が歩く主廊の人びとは海を割った古代の伝説みたいに左右に分かれていきます。つまり、その分、わたしたちのいる場所がきつくなるということです。
「むぎゅっ」
わたしはというと、つぶされて、これ以上、潰れられないので、上にずれてしまいました。太った奥さんに押されたわたしの体は足をぶらぶらさせています。ただ、このおかげで新しい教父の姿が見えました。それはとても美しい青年で、黒いフロックコートの首から左右の前へ帯を垂らし、ネクタイの代わりに端が尖った十字章をつけています。青年は前任者の棺のそばまで寄ると、その右頬と左頬に別れの口づけをし、祭壇の後ろ、蟹に食べられた天使の像の前でひざまずいて祈ると、ステンドグラスから光が斜めに差し込み、彼を包みました。
そして、そのとき、蟹に食べられた天使像は本物の天使になったのです。
それからは大変でした。気絶するもの、涙と鼻水で顔をぐちょぐちょにするものが多数出て、パニックになりました。彼らは奇跡を見たと口々に言い、前の教父以上の神秘主義的興奮が信徒たちをより強い〈神との一体化〉に導きました。イルミニウスは数人の男女に銃を貸しました。
気づくと、大聖堂の空間はわたしとイルミニウス、それに新たな教父さまだけになりました。他の信徒は恐れ多いからと彼に近づかなかったのですが、わたしがここにいるのはペスト男をかわすためですし、イルミニウスは既に別の宗派の司祭です。そこまで、熱心な信徒ではありません。
だからでしょうか。わたしには彼の起こした奇跡が分からないのです。蟹に食べられた天使の像は相変わらず、蟹のせいで外殻がうごめいていました。ちょっとしっかりまとまったかなという程度です。
「こんにちは」
普通の信徒だったら、この優しく低めの声に奇跡か福音か、あるいはそのどちらもかを感じ取り、恥じた冒涜者がイルミニウスに銃を借りに来たことでしょう。
「こんにちは」イルミニウスは挨拶しました。「僕はイルミニウス。ここから西に、ブレッキンリッジを通った先の教会で司祭をしています。大聖堂地区の南へ行けば、入り江を挟んで、見えるはずです」
「そうですか。いつか行ってみてもいいですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます。ああ、自己紹介が遅れました。わたしはカイン。新しい教父です」
そして、わたしのほうを見て、にこりと笑います。名を名乗れということです。わたしはイルミニウスをちらりと見ました。
「彼はヘンリー・ギフトレス」筆頭会話代行人イルミニウスが説明します。「潜水士です」
「そうですか、そうですか」
まるで潜水士であることが大変結構なことであるように頷き、繰り返します。
「この街には」と、カイン。「たくさんの信徒がいらっしゃるようですね。先代の教父さまのようにきちんと勤め上げられるか心配です。至らないところがありますが、よろしくお願いいたします」
イルミニウスと一緒に大聖堂を出ると、一番手近なところに転がっていた死体から貸した銃を取り返しました。大聖堂とガラクタ市のあいだにある小さな広場には男性六人、女性四人の合わせて十人の死体が転がっています。彼ら彼女らは新しい教父が来たら、殺してしまえと、とくに強くわめいていた人たちで、自分の発言を恥じて、冒涜に対する罪滅ぼしに銃身をくわえて頭を吹っ飛ばしました。
その銃声はカインの耳にも届いているはずです。
「どうやら、邪悪なものが呼び込まれたようです」
貸したリヴォルヴァーに弾を込めなおしながら、イルミニウスがつぶやきました。
わたしが大聖堂を振り返ると、その高い扉の前でカイン教父が手を振っていました。十体の死体の向こうで微笑みながら。




