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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと革命の自動拳銃
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 言っておきますが、わたしには恋人がいた時期があります。十七歳から十八歳まで。あの当時、潜水士はわたしだけ、水中で話すことがなかったので、わたしとの会話は全て筆談でした。結局、それが原因で別れたのですが。

 警部の話をきいたら、彼は一切の女性経験がないそうです。刑法の勉強に忙しかったとのことです。

 ベネディクト警部は市内の娼館から賄賂を集めていますし、その他もろもろの女性と接触する機会はあったと思います。娼婦、女性警官、女性高利貸し、女殺し屋、女賭博師、ナイトクラブの歌手。警部の顔と背丈と収入なら女性は向こうからアプローチをかけてくるでしょう。

 しかし、彼の心をつかんだのはオオクチバス病突然変異の麻薬耽溺娘でした。

 考えてみると、キモノがはだけることに苦言を呈し、服を用意するのは、そのままストレートに好意と取るべきであり、好きな人があんまり肌をさらけ出すのはよろしくないと思ったのでしょう。なかなか保守的です。

 彼が潜水する理由はミカ嬢と一緒にいる時間を増やしたいという一途な思いですが、そもそもミカ嬢がお付き合いを了承するかどうかが分かりません。それについて、どう思っているのか、筆談でたずねると、相手がどう思っているかが問題ではない、と、おれさまなことを言ってきました。ピュアな告白をされて忘れていましたが、この人は市内の賄賂を牛耳る悪徳警部なのです。

 ミカ嬢の心をとらえることはそう難しいことではありません。押収品倉庫の危ないお薬を部下の始末書数枚と引き換えにかすめとって、プレゼントすればいいのです。

「それをする気はない」

 ボトル・シティ・ポリス・デパートメントをビジネスライクな組織に切り替えた悪徳刑事の倫理基準がさっぱり分かりません。相手の気持ちは関係ない、おれについてこい、でも、薬には頼らないぞ。わたしの見た感じ、ミカ嬢は楽しくなる薬以外には関心を示しません。それについてはベネディクト警部もいずれ自身の倫理と折り合いをつけることでしょう。

 さて、ここでひとつの謎が生まれます。なぜ、わたしなのか?

 工業地区の荒くれ潜水士たちは技術が低く、彼らに潜りを習うのは危険です。

 ということで、選択肢はわたし、エレンハイム嬢、ロレンゾの三人です。

 そこで、なぜわたしを選んでしまったのか。ロレンゾは、まあ、ジーノに嗅ぎつけられるかもしれませんから、頼めないでしょうが、エレンハイム嬢なら大丈夫では? それに彼女とミカ嬢は親友の間柄です。潜水技術と交際相手について、考えるなら、ここはエレンハイム嬢一択な気がします。

「こう言っては何だが、彼女は口が軽いと見える」

 案外、的外れでもなさそうです。

「口の堅さで言うなら、きみのほうがいい」

 もちろん、わたしはこのことを誰かに話したりしません。それどころか、その他もろもろ、全てのことについて、わたしは誰かに話すことなく生きていく予定です。

「それに潜水士としての技術もきみが最高だ。きみはかつてはこの街で唯一の潜水士だった」

 で、わたしは引き受けてしまいました。我ながら、お世辞に弱すぎます。いったいどうやって、警部にダイビングを教えればいいのやら。それに秘密保持の問題があります。

 ジーノに知れたら、彼のことですから、きっとこういうでしょう――「そいつぁいいや。やっこさんが潜ったその上でダイナマイトを爆発させてやる。それで魚を取るための爆破漁のつもりだった。人が潜っているとは思わんかったの一手で押し通す。せいぜい食らっても過失致死で三年。いい弁護士つければ、執行猶予。判事を買収すれば無罪放免よ」

 練習はわたしの家から歩いて五分のところにある池で行うことにしました。水没前、ここには悪徳不動産業者が立てた五階建てのアパートがあったのですが、その地下にはかなり大きな空洞がありました。そういう土地を安く買いたたいて、建物を売るのがまさに悪徳の名を冠する由来なのですが、水没で地下の湿り具合に一大激変が起こると、この建物はそのまますっぽり沈みました。三十メートル以上の深さのある池の底には悪徳デベロッパーの夢のあとが沈んでいます。

「まず、水中では絶対に息を止めないでください」

「それは何かのひっかけ問題か?」

「いえ。水圧の問題です。深いところで肺を空気でいっぱいにしたまま、息を止めて浮上すると、水圧が弱まった分だけ空気が脹らみ、肺が風船みたいに割れます」

「なるほど。分かった」

 ベネディクト警部は防水手帳にメモします。

 スーッ、ゴボゴボ。

 制服警官風の紺色のウェットスーツにダブルのエアタンク。通信装置。器具は文句なしで信頼できます。

「しかし、きみは水中のなかでは普通に話すことができるのだな。なんだか、不思議だ」

「わたしも同感です。でも、陸地では会話はわたしにとって負担以外でも何でもないのです。部下の皆さんにもそう教えておいてください」

「了解した」

「水深の深いところではタンクのエアは水圧で小さくなります。その分だけ、吸うことができる空気が少なくなるので、深い場所での行動は迅速に。万が一、水中で呼吸マスクが外れたときは左腕を時計回りにまわしてください。それで予備のレギュレーターに腕がかかり、そのままくわえることができます」

「ふむ」

「残圧計を見てください」

「ああ」

「どうですか?」

「残り四十気圧」

「わたしは五十五気圧です。潜水をやめて浮上する目安は五十気圧ですが、バディを組んでいる場合は少ない気圧のほうを優先して考えます。浮上しましょう」

「なぜ、わたしは空気の消費量が多いのだろう?」

「慣れの問題もあります。こまめに残圧を確認して、残りのエアがどのくらいかお互い把握したほうがよいでしょう」

「了解した」

「次は池ではなく、流れのあるところでの潜水を勉強しましょう」

「ひとつ、頼みがある」

「なんですか?」

「パワー・オブ・ストッピング教会で護身用の水中銃でいいものを見繕ってもらいたい」

「自分で行ったほうがはやいと思いますが」

「この後、重要な取り調べがある」

「でも――」

「警察の割引券がある。先達の目で選んでもらいたい」

 先達。いい言葉です。

「分かりました。どんなものが希望ですか?」

「わたしが使っている刑事部用の正式リヴォルヴァーと同じくらいの大きさが欲しい」

「メモで必要な能力と予算を書いてください。イルミニウスに渡しますから」

 わたしたちは自分の吐き出す泡よりも遅い速度で水面へと上がります。雨の波紋が一面に広がった静かな水面を断ち割ったときの何とも言えない感じを味わい、警部は車で警察署へ戻り、わたしは自宅へ帰りました。

 警部は教習料と言って、一回につき、三十ドルという破格の値段を払ってくれます。会話の問題と危険度の問題が解決できたら、ダイビングの指南役インストラクターになるのも悪くないかもしれません。

 アパートに帰る途中で雨が止んだので、灰色の私服に着替え、傘と財布だけ持って出かけます。パワー・オブ・ストッピング教会は旧市街の南東、商業地区の入り江のそばにあり、板づくりの粗末な小屋にライフルが交差して飾られています。イルミニウスはちょうど出かけるところでした。真っ白な司祭服の上にリヴォルヴァーと弾丸を差したガンベルトが左右の肩から交差していて、いつもの赤いペナントを垂らしたショットガンが一丁、銃撃に卓越した技量を持つ少年司祭はブレッキンリッジへと歩いていきます。というより、そこらへんの人たちが全員、ブレッキンリッジへ向かっていて、行列ができています。ブレッキンリッジを渡った先は大聖堂地区ですから、蟹に食べられた天使絡みの何かが起きているのでしょうか? どのみち、並ぶのはやめておきましょう。わたしは何かの行列に並ぶのが苦手です。行列の人というのは自分のひとり前とひとり後ろに対して、意味のない会話を吹っかけてくるからです。それは本当に意味がありません。その意味のない会話のなかでも最も意味がないのは、これです――『なあ、兄弟。こいつは何の行列なんだ?』

 水中銃を購入するのはまたにしましょう。別にベネディクト警部にはひとりで潜る予定はないですし、陸ではちゃんと火薬銃を持っています。武装面での緊急性はありません。少なくともわたしの安静を犠牲にしなければいけない理由はないのです。

 そう思って、まわれ右して、てくてく帰ろうとしたとき、わたしはペスト男を見つけました。あだ名にひどい言葉を選択していると我ながら思いますが、それ以外に名前をつけようがないのです。実名が分かれば、そちらを使いますが、知らない以上、ペスト男を使い続けるしかありません。ペスト男はちびでやせっぽち、脂っぽい髪に安っぽい帽子をのせて、ろくに手入れをしていないタワシみたいな口ヒゲを生やし、顔をいつも使い古しのチリ紙みたいにしかめている五十代くらいの男性です。彼が何をするかというと、人に正しくあれ、と言い続けるのです。

 たとえば、あなたが自転車を走らせていて、歩行者も自動車も皆無の交差点に来たとします。そこに一時停止の標識がありますが、あなたは別に止まらなくても安全は確保されたと思い、そのまま走るわけですが、それこそが最大の危険、ペスト男を呼び込むのです。ペスト男は隠れていたゴミ缶の後ろから飛び出して、あなたを責めます。

「おいおい! お前! この標識が見えねえのかよ! 一時停止って書いてあるだろ! あ? おーい、みんな、こいつは交通違反者だ! 誰か警察を呼んでくれ!」

 こんな感じです。彼は法律を守るよき市民。でも、ペスト男です。

「おいおいおい! このパンはなんだよ! 規定の小麦粉使ってるのかよ!」

「ここは禁煙だぞ、この野郎!」

 彼は正しいことをしています。実に正しいことをしています。真の正義漢かもしれません。

 もっとも注意した相手から罰金と称して小銭をまきあげ、警察官や二メートルの大男が手を上げずに横断歩道を渡っているのを見たときは見て見ぬふりをします。ゆえにペスト男はペスト男なのです。

 このときしていたのはホームレスを叱ることでした。

「お前、なんで行列に並ばねえんだ? あ?」

「なんで並ばねえといけねえんだよ」

「大聖堂で何かあったんだぞ」

「だから?」

「並ぶべきだろうが!」

「知らねえよ、そんなこと」

「何があったと思ってる?」

「知らねえよ」

「教父さまが死んじまったんだぞ!」

 これには驚きました。世界で一番元気な体重四十キロの老人が亡くなった。説教が激しすぎて、切れてはいけない血管が切れたのでしょうか? 困ったことに興味が湧いてきました。次の教父は誰なのか? そもそもボトル・シティに新しい教父が来てくれるのか?

 興味はありますが、しかし、列の前後から話しかけるリスクを負うほどのことではありません。とっとと帰りましょうか、と思っていたそのとき、ホームレスが激しく舌打ちをして、靴下を脱ぎ、使いつくしたラジオ電池をふたつ、なかに入れました。ひとつにつき五百グラム。あわせて一キロの即席こん棒が出来上がりました。

 ペスト男はくるっとまわれ右をします。本当にこの男はペストです。弱気を助け、強気をくじくジッキンゲン卿に焼きを入れてもらいたいくらいです。

 困ったことにペスト男の視線が帰ろうとするわたしをとらえました。わたしはいままでペスト男の餌食になったことがありません。わたしは割と清く正しく生きているのです。しかし、このときばかりは違いました。ペスト男は大聖堂地区への行列に並ばないわたしに狙いをつけ、正論の魚雷を発射しようとしています。では、どうするのか?

 スッ。

 わたしはブレッキンリッジに連なる行列に並びました。

 十分後、ペスト男の声はブレッキンリッジのなかほどまで進んでもきこえてきました。

「おうおう! お前、なんで行列に並ばねえんだよ!」

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