58
アンクル・トッドに象眼細工のボードをいくつか、結構いい値段で売れ、ホクホク帰宅すると、警察で使われているメッセンジャー・ボーイが、ミカ嬢をうちで引き取るか家まで送るように言われました。また怪しげな液体を飲んで、昼間からべろんべろんになっているようです。もちろん、わたしの家には連れて帰りません。彼女は自分で家を持っていて、そこで暮らしています。立派です。変な薬に耽溺していることは差し引きゼロ、いえ、むしろ、プラスです。最近、居候が増えて、自分の家が考えていたよりずっと大きいことを発見している日々ですが、そんな日々は来なくてもよかったのです。
雨が割と強いのでウェットスーツと、それに潜水具はシュノーケルと水中マスクだけ持って、警察署へ向かいます。水は脛のなかほど。自動車が走ると、結構な波が来るので、壁沿いに体を支えながら、歩きます。水との付き合い方に慣れたもので、この雨はわたしの腰くらいまで水位を上げるでしょう。そこまでいったら、泳いだほうがはやいです。シュノーケリングも慣れたもので十字路の公園やロータリーをすいすい泳げば、中央警察署はすぐです。
入り口の階段でシュノーケルを取り外し、いつものマスクの紐を耳のそばで結んで、きっちり顔を隠していると、ベネディクト警部がコウモリ傘を差して立っています。警察幹部用のモーターボートでも待っているのでしょう。彼が警部になって以来、賄賂の額が増えましたが、犯罪者たちは割と満足しています。満足しない犯罪者を全員牢屋に閉じ込めてから、シャバでアンケートを取れば、無敵です。ただ、賄賂が増えたのはむかつくが、それでも警部になってやりやすくなったという意見も見受けられます。
まあ、ジーノの言葉ですが。
ジーノでも警察には賄賂を渡すのですが、ベネディクト警部の保護はなかなかかゆいところに手が届くものらしく、手入れの情報は正確にもらしてくれるし、パトロール警官たちの小銭稼ぎもきちんと統率しているので、賄賂の額は増えたけど、違法なお金儲けの売上も伸びているそうです。それにベネディクト警部はある種の犯罪はきちんと許しません。少女を強姦した男がお金で解決しようとしましたが、警部は罪をもみ消すかわりに、強姦魔をギャングたちの牢屋に入れました。ギャングたちは刑務所や留置所で変質犯罪者を殺害することを一種の武勲と思っている節があり、ギャングたちは看守にちゃんと電気が通った電球をひとつくれといい、それで片がつきました。
ルシオ警部とベネディクト警部の共通点はどちらも映画で見かけたことがありそうなことでしょうか。ルシオ警部はガンマンが活躍する西部劇に出てきそうですが、ベネディクト警部はなんというか、とてもきれいな顔をしていて、背が高く、どこか異国風の雰囲気があるので、砂漠の族長と家庭教師の女性が出てくる異文化恋愛ロマンに出てきそうです。
とはいえ、ベネディクト警部にはロマンティックなところはありません。ロマンティックな警官というのは性善説を信じ、一度服役した犯罪者はもれなく更生していると信じる警察官です。ボトル・シティ警察の警官たちの言葉はだいたい、決まっています。「あいつ、またやるぜ」「なんだ、そらあ。とっとと吐けよ、この野郎!」「逃げていいぞ」「背中から撃ちやしねえよ」「逃げたぞ! 撃て!」エトセトラエトセトラ。
関わらないのが吉です。そっと端へ寄って、通り過ぎます。
「待て」
警部は誰かを呼び止めました。
階段にはいま、わたしと警部のほかに一杯のアオリイカしかいません。
警部の体制が施行してから、わたしは警察とは何の貸し借りもありません。いや、ルシオ警部がらみの冤罪事件で貸しがあるくらいです。でも、わたしは大人として、それを静かに飲み込み、警察とはもめないよう、努めてきたのです。
そのわたしを「待て」と呼び止める、それも拝金主義の超現実主義者の若き警部が呼び止めるのです。
いや、でも、もしかしたら、あそこでうずうずしているアオリイカに用があるのかもしれません。がんばれ、ヘンリー・ギフトレス。最後まで希望を捨ててはいけません。
アオリイカはうまくもがいて、水のなかに戻っていきました。警部の呼び止めを無視するのはあまりよくないことですが、脊椎動物の余裕で許してあげてください。
「きみだ、ヘンリー・ギフトレス」
ああ、もう、わたしが何をしたと言うのですか? わたしはミカ嬢を家まで送れと言われたから来ただけです。まさか、賄賂を要求するつもりではありませんよね? わたしの生業のどこに賄賂の支払い義務が発生するのでしょう? 善良な潜水士は抗議します。……でも、いまは筆頭会話代行人がいませんから、抗議もしません。命拾いしましたね。
「一緒に来い」
警察署は相変わらず、無料の本物コーヒーの特権が輝いていました。ジーノはいつだったか、もし自分がもっと馬鹿だったら、警察に入っていた、と言っていました。押収したキャメルのジャケットを自分のものにしたり、小さなテント料理屋で無銭飲食をしたり、性犯罪者を階段から突き落としたりしていたというのです。ジーノは自分は繊細過ぎるから無銭飲食なんて恥ずかしいことはできないし、性犯罪者を階段から突き落とすなら、バッジと制服は絶対に身に付けず、己が裁量と責任でやる。そう言うのです。いうことはそれなりに立派です。が、信管が刺さった爆弾や弾丸装填済みの銃を見ると、まわりで兄妹の美しくも哀しい和解があろうが関係なく、ぶっ放したくなる癖がそれを帳消しにします。
ベネディクト警部は地下に降り、大柄の婦人警官が守るデスクで名前を帳簿に書き、銃を預けると、そのまま婦人用監房へいき、突き当りの牢屋で止まりました。
ミカ嬢がベッドに寝そべって、キャハキャハ笑っています。
「ん~、あっ、ヘンリーだぁ。はろはろー」
はろはろー。
キモノを着崩したミカ嬢は、粗野な言い方をすれば、完全にラリっていました。
婦人警官が説明します。
「警部。ダメです。何度着つけさせても、すぐに着崩します」
「わかった。では、これを」
ベネディクト警部は百貨店の包装紙につつまれたものを取り出します。中身はタートルネックのセーターにギンガムチェックのスカート、それに黒いストッキングと婦人用のローファーです。
婦人警官がそれを着せているあいだ、わたしと警部は外で待っていました。
チラッと警部の顔を見上げますが、いつもの冷静沈着な警部です。目的は手段を正当化するという考え方が外道の理論だと言ったことがありますが、警部はその理論で武装しまくった現実主義者です。その現実主義者が収監した麻薬中毒者、それもオオクチバス病特別変異のために服を用意する、それも着崩したキモノから肌が見えないよう注意するような選択……わたしは何を見せられているのでしょうか? たぶん、警察にしか分からないおカネの動きに関係しているのでしょう。ミカ嬢は釈放され、キモノが着崩れても肌が露出することもなくなりました。では、彼女の家まで送りましょうと思っていると、
「警察用のボートを出そう」
ベネディクト警部が言いました。そのボートはパトロール・カーをモーターボートに改造したもので、運転は自分ですると言って、運転席に座りました。わたしとミカ嬢は後部座席――つまり、犯罪者の座る席に乗ります。善良な潜水士がこんなところに乗っているのを道行く皆様に見られることは大変問題ですが、考えてみると、結構な数の住民がわたしのことを標的を水に引きずり込む東洋のカッパみたいな暗殺者だと思われているのだから、今更、あれこれ考えても仕方がありません。
あ、大切なことを思い出しました。
わたしは腰につけたポーチから鉛筆と防水手帳を取り出すと、ベネディクト警部にロンバルト街のわたしの家に寄るよう頼みました。わたしはアパートからエアタンクと足ヒレを持ち出します。
「そんなものが必要なのか?」
わたしはこくりとうなずきました。
ミカ嬢はそのある種の薬品への耽溺から笑いが止まらなくなって、つい先日、住んでいたアパートを追い出されたのです。それで、旧市街の北、大学区域の水中に沈んだ部屋に引っ越しました。ミカ嬢を水に放り込んでおしまいでもいいかもしれませんが、この状態だと流れに任せて、海まで行ってしまいそうなので、潜水して部屋まで送ることにしました。
「あれぇ、ここってどこだっけ? こいこいー、おいちょかぶー」
「キャハハハ!」
「へんりー、ねんりー、えんりーえんりー、へんりーけんりー、いえい!」
そもそも、ミカ嬢をボトル・シティに連れてきたのはエレンハイム嬢なのですから、彼女が面倒を見るのが筋です。筋なのですが、ミカ嬢はいま、兄のフィリックスに会いに行っているので、いないのです。
『わたしはいつもこの海にいる。会いに来てくれるか?』『きっと、――きっと行くよ、兄さま』先日の、この会話と感動の具合から、エレンハイム嬢が彼に会いにいくのは二年に一回くらいだと思っていましたが、ここ二週間、毎日、彼に会いに行っています。しかも、なぜかわたしも強制的についていかされることが多数。
不思議なことにエレンハイム嬢はフィリックスの前でも、男の子のように話します。彼女の会話選定の基準がよく分かりません。そのようなわけでフィリックスの前では独立独歩の凛々しい自立少女の感じですが、帰り途中でわたしとふたりきりになると、いかにフィリックスがかっこよくて、輝いていて、まともに見ることができないのかを年相応の女の子の口調で延々と語り、それは水から上がっても続き、アパートについても続き、こちらに返答を期待していない兄自慢と会っている最中に逃がした甘えるチャンスについての苦悶を海が干上がるその日まで続く勢いで話します。よく、こんな調子で両親の仇を討つべく、兄を倒す!だなんて思えたものです。
大学地区南の、坂が沈み込んでいる船着き場でパトロール・カーは止まりました。桟橋のあちこちで何かを受け取ったり、渡したりしている人たちがその〈何か〉を咄嗟に水に捨てています。その後、ポケットに手を突っ込んで、口笛を吹きながら、どこかに消えていきました。
ここでいいでしょう。わたしは呼吸マスクをつけると、ミカ嬢を引っぱって、水に落とし、それからわたしも飛び込みました。
吐いた泡が真横へ流れていくので、ミカ嬢に自分で泳ぐよう促しますが、彼女は口をパクパクさせて、わたしの吐いた泡を食べようとしています。
「そんなことしても二酸化炭素を取り込むだけですよ」
「ニサンカタンソ? それって楽しい?」
「別に楽しくないですね。あなたも吐けるはずですよ」
「ぶくー。おお、ホントだあ」
「それより自分でも泳いでください。斜め前を目指して泳ぐんですよ。流れが速いからそれでちょうどまっすぐです」
彼女が住んでいるのは、コテージです。水没前のボトル・シティには街のあちこちに昼寝用のコテージがあったといいます。そのうちのひとつで、海草がきちんと植えられているのがあり、そこが彼女の家です。水中の物件はさすがに大家もいないですし、大声で何か叫んでも文句を言うお隣さんはいません。オオクチバス病罹患者はなぜか水中でも声で話すことができます。カムイがごばごばとしか話せないのは健康の印です。
ニシキゴイたちが庭の水草の世話をしています。帰ってくるミカ嬢を見つけて、くわえて家のなかに引っぱっていきました。うら若き女性の家まで入るつもりはないですし、ニシキゴイたちに任せておけば、間違いはありません。
水から頭を出したら、まだベネディクト警部がいました。てっきり帰っているかと思ったのですが、まだ、水上パトカーのなかにいます。わたしに気づくと、外に出て、傘を差しました。何か、わたしに用があるということです。
「潜水を教えてほしい」
?
何の目的があって?
誰が?
「きみがだ」
どうして?
「水中警邏隊の結成を……」
「……」
いま、じーっ、と見ています。水中警邏隊? いまの安月給で水中の化け物と戦いたがる警官がいるでしょうか? そんなことしなくても、陸のワルからおカネを巻き上げられるのに?
「……(じーっ)」
「……コホン。きみを信じて、話すが……ミカ嬢のことが気になる」
そう言うと、警部はわたしから目をそらし、赤くした顔を隠すように横を向きました。




