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突然、赤いお肉の粒々が増え始めた理由は月の満ち欠けや宇宙の波動、あるいは数世紀単位で積み上げられたボトル・シティの悪徳が関連したものではなく、簡単に言えば、天敵が消えたことが原因でした。
要塞地区を泳ぐ〈連合州〉が滅亡したことで、ピートとジムが面白半分に弾をばら撒くことがなくなり、粒々お肉たちが繁栄を謳歌することになったわけです。ギャヴィストン一族が公共の福祉の一機能を担っていたのは驚きです。もともと彼らはサメを撃つぞと言いながら、五歳の女の子を撃ったことがあるほどのアルコール中毒であり、よってサメと粒々お肉の見分けがつくとは思えません。もし、彼らが粒々お肉を殺して役に立っていることを宣伝すれば、彼らのたどった運命は別のものになったかもしれませんが、いや、やはり彼らは滅んだことでしょう。正直な話、彼らと粒々お肉のどちらのほうが質が悪いかは決めづらいものがあります。
ところで、無神経な人というのはまわりからすると迷惑ですが、自分がそうなると、とても気楽なものだろうなと思います。現在、銀行から派遣された賞金設定係が、エレンハイム嬢にしつこくつきまとって、粒々お肉騎士団の団長を見たのではないかと詰めています。もちろん、わたしは話しません。ジッキンゲン卿も話しません。
「あいつ、すげえ強そう! おれ、戦いたいな!」
カムイにはこういうとき嘘をつくという考えがないようです。『うそ? うそはいけないことだ!』というのが関の山です。底抜けの善と無神経は紙一重というわけです。ですが、銀行員がカムイにたずねたところで、『すっげえでっけえタコ!』と言われるのが関の山です。カムイとの会話はだいたいが関の山なのです。
「兄弟、か」
ロレンゾが、ふと、つぶやきました。彼はつい今さっき、ジーノがゴミ箱にパイプ爆弾を仕掛けるのをやめさせたところです。考えてみると、フィリックスとジーノには共通点があります。どちらも賞金をかけられてもおかしくないところです。
ジッキンゲン卿は空気を読み、彼の盾持ちを連れて、外に出かけました。銀行員も何も言おうとしないエレンハイム嬢を相手にひと晩ねばるつもりだったようですが、ロレンゾにナイフを突きつけられて、慌ただしく退散しました。
ロレンゾは居間のテーブルで、何本かのダガーを抜き、せっせと研ぎ始めました。わたしもいつもダイバーナイフを一本、脛にベルトで止めているので、それを研ごうかと思ったら、エレンハイム嬢が、
「ヘンリー。ちょっとつきあってくれないか?」
と、ロレンゾのいる手前、凛々しい口調でたずねてきました。あまり気乗りがしません。彼女の手にはわたしの呼吸マスクがあるので、潜って話がしたいということです。絶対に兄に対する複雑な思い、倒すべきか許すべきかのあいだの葛藤みたいなものを話すに決まっています。しかし、わたしはその手の話は苦手です(そもそも得意な話がないのですが)。第一、わたしはひとりっ子です。兄がいるロレンゾのほうが適任でしょう。
しかし、その目を見ると、決意の潤みでウルウルしています。仕方がありません。わたしはウェットスーツに着替え、タンクを背負いました。
今日のロンバルド街は機嫌が斜めなのか、足首あたりまで水が来ています。しとしとと霧のような雨が降ったりあがったりを繰り返していて、今日の水位を懲罰的なものにするか、勘弁してあげるか考えているようです。
エレンハイム嬢は道を南東へ取ります。やはり、城塞地区方面へと行くようです。会話をするだけなら、そこらへんの池で済みます。しかし、それではダメな理由が彼女にあります。兄妹喧嘩よりも難しいのは兄妹和解でしょう。これは何世代にもわたって大使などを務めてきた、貴族的外交官が必要です。
ユニオン通りから路地へ道を変えます。少し高さがあるので、水に浸っていませんが、あまりいい評判はきかない道です。板造りの店や見張り台が道の左右に並び、娼婦の元締めが運転する苔とキノコにまみれた自動車が向こうから走ってきます。オーバーオールに体を突っ込んだ男たちが二連式ショットガンを手に檻のなかのウツボ男を取り囲み、隠した財宝の在り処をきき出そうとしています。
「おい、カネはどこに隠した? 言え!」
「ウガガガガガァ!」
ウツボ男はウツボの頭と化した両腕を振りまわしています。こうなる前はカーペットでつくったようなごわごわした服を着た、流行らない事務所の最下級社員風の顎髭の人物だったようです。正直なところ、彼が人間だったころ、財宝と呼ばれるほどの資産を形成したとは思えませんし、ウツボ男の返答をきいているかぎり、彼は尋問に協力的とは言えませんし、そもそも会話ができるだけの人間性も失ってしまっているようです。ウツボ男の顔は心なしか前に出っ張り始め、牙が剥き出しになっていて、歯茎から血が慢性的に流れています。ある程度、人間を食べると、化け物たちはより化け物チックになる。ボトル・シティの常識です。人食いと化したモンスター人間を檻に閉じ込めて、こぶし大の石を一個五セントで投げさせる商売がそれなりに繁盛する都市に怪物への情けや更生の可能性を考える暇はないのです。
おや、また自動車が走ってきます。苔もなく、藻やキノコもついていない、ドアが四つのセダンです。ただ、ナンバープレートがついていないようです。その自動車はわたしたちのすぐそばで停車し、運転席からジーノの顔がひょっこり出てきました。
「よお、お二人さん! なんだ、デートか?」
「そんなとこかな」
「乗れよ、見せたいもんがあるんだ」
「でも、ボクとヘンリーは話さなきゃいけないことがあるんだけど」
「いいから、乗りなって! 損はさせないから!」
エレンハイム嬢がこちらを、ちらっ、ちらっ、と見てきます。どうやら、わたしに決めさせるようです。エレンハイム嬢と潜ってしんどい話をするか、それとも、ジーノの言う見せたいもんとやらを見に行くか。これはレッサー・エヴィルの問題です。つまり、どちらのほうが損害が少ないか。熟考を要する問題ですが、どうせ考えてもこたえは出ません。そこでジーノに賭けてみることにしました。こちらは会話を強制されないわけですから。
わたしは軽く顎で車を差すと、エレンハイム嬢は肩をすくめて、自分でさっさと後部座席のドアを開けて入ってしまいました。
彼の車はわたしたちの来た道を戻り、北へ向かいます。ところで、座席の下の足を伸ばすところに紙幣が詰まったバッグが開きっぱなしになっているのはどういうことでしょうか? 筆頭会話代行人にきくよう促しますと、
「ああ、銀行に行っておろしてきた」
「この機関銃は?」
「貸金庫の鍵だ」
ジーノに賭けたことを激しく後悔しました。こんなことならエレンハイム嬢と一緒に城塞地区に潜って、わたしという人間がいかに真剣な打ち明け話に使えないかを知ってもらったほうがずっといいです。ユニオン通りに戻るころには、サイレンを鳴らしながら黒い自動車が一台追ってきました。
「あの警察自動車は?」
「サツってのは無実の人間をいじめるのが好きなんだよ。それが好きでサツやってるんだから、まいっちまうよな」
そして、わたしにニヤリと笑って、
「貸金庫の鍵を取ってくれ」
と、言いました。
機関銃を受け取ると、ジーノはアクセルペダルを踏んだまま、後ろを向き、と、いうより、這い上り、わたしとエレンハイム嬢のあいだにある窓から警察自動車にダダダダダダッ!と一連射浴びせました。あわれ、自動車はキャブレターから真っ白な煙を噴きながら路肩に乗り上げて、ガス灯のブロンズ柱にぶつかりました。
「ぎゃははははは! かあちゃん夢見て、シコってろ、へにゃちん野郎ども!」
見せたいもん、とは、まさか二番目に襲う銀行のことではないでしょうか。もはや後悔などというものではありません。ルシオ警部の悪夢です。エレンハイム嬢はというと、ジーノがほったらかしにしたハンドルを握るために座席の上から手を伸ばし、エアタンクが引っかかって動けなくなっていました。彼女のベルトをつかんで引き戻し、ジーノの指が機関銃から離れて、ハンドルを握りなおすと、思いきり左に切られました。しばらく走り、戦没者記念碑があるケンジントン・クロッシングを南へ。この先は歓楽街です。
歓楽街のなかでも特に賑やかなセジウィック通りへと車は入ります。ここではいつも酔っ払った水兵と売春婦、ネオンサインがあります。それにトチ狂った楽観主義と言いましょうか。彼らは極めつけの人道主義者です。人間という存在はこの滅亡スレスレの水没世界において、生きるに値し、死んだ後の神秘的な世界に期待をかけるのは馬鹿げている。まさに人間中心主義の体現者です。
油物の屋台と狂ったバンジョーの響きに満たされたこの人混みの通りにおいて、ジーノはクラクション連打と前輪のカバーで人をひっかける轢き逃げスレスレのテクニックで道を開きます。
「そろそろ、見せたいもん、ってものを教えてもらえるかな?」
「安心しろって。もう見えてる。ほら」
ジーノが指差した先には四階建ての建物があります。商売用の煉瓦建築で白いペンキで『ハードウェア・ジョバーズ』と書かれています。つまり、職人向けの工具を売る会社のようです。
「あそこの三階と四階がおれの店なんだぜ」
ジーノはギャングから足を洗ったのでしょうか? ともあれ、車はその建物の前で止まります。ジーノは止めた自動車に〈ご自由にお持ち帰りください〉の札を刺しました。犯罪に使った車だから処分するのでしょう。ジーノは札束のカバンと機関銃と持って、ついてくるように言いました。
善良な潜水士は札束カバンと機関銃を持った人間の後をついていったりしないものです。しかし、筆頭会話代行人のエレンハイム嬢は兄との葛藤を忘れるためか、一時的な気晴らしに付き合うつもりです。わたしはここで待ちたかったですが、ここでひとりで置いていかれるのはもっと嫌です。〈ご自由にお持ち帰りください〉の車のそばにいたら、「おい、兄ちゃん。本当に持って帰っていいのか?」としつこくきかれるに決まっています。ああ、最初はエレンハイム嬢の打ち明け話をきくだけだったのに、なぜ事態は悪いほうへと転がっていくのでしょう?
『ハードウェア・ジョバーズ』のある建物は郵便ポストがある入り口玄関を持っていましたが、ジーノはそこではなく、建物側面の非常用階段を上がるように言いました。そして、その階段を屋上まで上がります。ボトル・シティにある平均的な屋上で、防水シートと錆びた金具と壊れた家具が放置された場所ですが、建物内につながる扉が溶接されて開かなくなっています。これは地上十五メートルの袋小路ですが、ジーノは防水シートをどかして、その下にあった鋼鉄の跳ね上げ扉を何度も踵で蹴飛ばします。すると、その扉が開きました。ジーノはそれを下りながら、続くように言いました。
わたしとエレンハイム嬢はウェットスーツ姿のエアタンクをダブルで背負っていて、扉の下の急な階段は降りるのにハラハラしました。とくにエレンハイム嬢は倒れて転がりそうですので、わたしが後ろから支えなければなりませんでした。
さて、降りた先は四階ということになります。そこは壁紙が剥がれた小さな部屋で頭の毛をきれいに剃って、何を思ったのか眉毛まで剃った大男がいました。大男の膝の上には鉛を流し込んだ鉄パイプがあり、三色刷り漫画を読んでいた禿げの大男は咄嗟に身構えましたが、ジーノを見るなり、卑屈な笑いを浮かべて、
「お疲れ様です。ボス」
と、言いました。
確かにジーノとロレンゾのフェリー兄弟はボトル・シティきってのギャング団を三つ潰し、その縄張りを継承したわけですから、子分の十人や二十人いてもおかしくないのですが、こうして実際にジーノのギャング団の一員を見ると、ああ、この人はギャングなんだなあと思います。ギャングなら豪邸に引っ越すべきというわたしの勧めを無視していたので、気づかなかったのですが。
ハゲの用心棒は急な梯子の裏にある鋼鉄の扉を叩きました。すぐ、スリットがずれて、血走った目が覗き穴にふたつ点灯します。
「ボスが来た」
こうして鋼鉄の扉が開きました。広い部屋にポーカーに興じているテーブルとルーレットがありました。ジーノの秘密のカジノです。呼吸マスクをつけようかと思うくらいの煙草の煙が立ち込めていて、あちこちでチップを投げる音がカチカチカチカチと断続的にきこえます。ジーノは手近な用心棒に機関銃を預けると、そのまま別の鉄扉を開けさせました。そこはビリヤード台が十台ある場所で、よりハイクラスなギャンブラーのための部屋でした。いわゆるハスラーと呼ばれる人たちです。彼らほどチョッキにこだわる人はいません。上着は脱ぐので、立派に見せるのにチョッキにお金をかけるわけです。
ジーノはさらに進みます。また鉄の扉が開き、今度は廊下の半ばに出ました。左の部屋ではロシアンルーレットが行われ、最高のお酒と最高の料理でのおもてなしがされていました。ジーノ曰く、部屋の端に地下水脈まで通じるダストシュートがあり、死体はそこに捨てることになっているらしいです。廊下のもう一方はというと、これこそがジーノの最も自慢とする部屋だということですので、きっと化け物同士を殺し合いさせるのだろうと思っていましたが、予想を裏切って、地味な部屋でした。十のデスクがあって、十の電話が引いてあって、十の事務員が計算機を打ちながら電話で何かを話しています。筆頭会話代行人がこの部屋はなんだい?とたずねると、ブックメーカーだと言いました。
つまり、この世界には競馬場の代わりに、イルカを走らせる競海豚場があり、ジーノはその競海豚場からの結果をいち早く電報で知り、ボトル・シティ市内の賭け屋からの賭けをこの十人のブックメーカーで受け付けているというのです。
ふむ。これは素直にすごいと思いました。ジーノのことは人のみぞおちに銃を突きつけながら酔っ払いのしゃっくりをするだけの人間だと思っていましたが、ある種の組織力と豊かな発想があったわけです。しかし、馬の代わりにイルカを走らせるとは。まったくとわたしは首をふります。
「まったくすげえもんだろう? こいつがどえらいカネを生み出すんだ」
じゃあ、どえらいカネに見合った豪邸に引っ越してみては?
わかっています。言うだけ無駄です。
この部屋の重要さはまるまる一部屋使った金庫があることで分かりました。ジーノは彼が言うところの銀行から引き出したお金を全部、その部屋にバッグごと放り込みます。
「それとこっちの部屋に来てくれ」
金庫の隣の部屋を指差します。
その部屋の扉を開けると、そこには深い水槽がありました。三階から一階までぶち抜いた深さで水に満ちています。その底には水中用の電気ランプが点ってました。
「ヘンリー・グレイマン専用のお話部屋だ。ハッハ! な、見て、損はなかっただろ?」




