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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと遍歴の騎士
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 ギャングや警察にいじめられたり、ジーノに射殺されるコンマ一ミリまで行ったり、猟奇的な実験の果てに生まれた怪物と対決したり、いろいろひどいことはありましたが、高さ十メートルまで放り投げられてキャッチされて、また放り投げられることに比べれば、どうということはありません。

「そうか! 喜んでると思った!」

 野生児はアハハ!と笑います。その笑いが罪なき笑いであるからこそ、余計に腹立たしいので、わたしは帰宅後、エレンハイム嬢を筆頭会話代行人、ロレンゾを筆頭会話代行人補佐に任命して、いかにわたしが十メートル真上へ放り投げられることが嫌いであるかを教えてやりました。

「じゃあ、今度はもっと高く投げるよ!」

 高度の問題ではありません。

「たとえ太陽まで投げても、ヘンリーは嫌なんだ。投げられるのが嫌いなんだ」

「へーっ! そっかあ! 里じゃ子どもはみんな投げられるのが好きだったから、全然分からなかったぁ! 世界は広いなあ!」

「ヘンリーは二十一歳だよ。そりゃ、きみから見たら、みんな子どもに見えるかもだけど。そういえば、名前は?」

「カムイ!」

「きいたことのない名前だ。何か意味があるの?」

「わかんね!」

 投石機トレバシェットって意味じゃないですか?

「きみの住んでたところじゃ、みんなきみみたいに大きいの?」

「ううん! おれだけ!」

 そう言ってから、カムイは自分の腰のあたりに手をかざし、父親ととの背丈だと言いました。突然変異というやつも昔なら珍しいですが、今の世界ではそう珍しくはありません。ウツボ男やカニ男、自分で自分に突然変異をお見舞いしたカール・ウェストブルック、そして、忘れてはいけないオオクチバス病第三フェーズのジッキンゲン卿。

 ジッキンゲン卿は盾持ち任命の儀式をするつもりになっていて、椅子の上に立っています。それで膝を折って立つカムイと同じ高さに目線が揃います。ただ、鎧の重量と椅子の耐久度を考えると(わたしはこの椅子をゴミ捨て場から見つけました)、非常に危険な行為ですが、したたかに頭を打っても、鉄カブトがなんとかしてくれるでしょう。以下はジッキンゲン卿とカムイの会話です。

「いかなるときも正しくあるか?」

「うん!」

「悪しきをくじき、弱きものを常に助ける覚悟があるか?」

「おれ! 弱いものいじめは嫌いだ! いじめは悪いことだ!」

 じゃあ、さっきわたしが十メートル放り投げられたのは何だったのでしょう?

「よろしい。これより、おぬしは我が盾持ちだ。励むがよいぞ」

「うん!」

 こうして盾持ちカムイはジッキンゲン卿と同じ部屋に泊まることになりました。泊まれ、泊まれ、いくらでも泊まればいい!と自暴自棄を起こしてやりたいところですが、遠い異国には言霊という概念があって、言葉には魂があり、うっかり口にすると、その通りになるという非常に恐ろしいことが起きるとのこと。わたしには関係ないとは思いますが、注意してし過ぎることはないでしょう。

 しかし、不思議です。カムイの持ち物はボロボロの半ズボンと青銅の剣だけです。潜水具がありません。水中眼鏡すらないのです。どうやって潜るのかと思ったら、素潜りでした。わたしたちのタンクがエアを使い切る直前くらいまで潜っていました。オオクチバス病罹患者以外で、カムイは最も魚に近い人類です。

 さて、大聖堂地区の外れと商業地区の外れ、ファースト・ナショナル銀行の北東のあたりにお肉騎士たちの目撃情報があります。ただ、目撃したのは釣り人です。彼らが病的な嘘つきであることは前述の通りですが、彼らが嘘にする対象は自分たちが取り逃がした魚です。お肉の騎士団が釣り針に引っかかったわけではないので、これの情報は信じてもいいと思います。目撃談によれば、お肉騎士だかクロスボウ兵だかが五体北に行こうとして、このあたりの水域をうろうろしているそうです。そこで、わたしたちは二手に分かれて、捜索することになりました。チームその一はエレンハイム嬢とジッキンゲン卿、チームその二はわたしとカムイです。カムイは盾持ちですから、ジッキンゲン卿についていくのが筋ですが、ジッキンゲン卿はレディの護衛をすると言ってききませんし、それでカムイがジッキンゲン卿についていったら、わたしは単独でお肉の相手です。それは嫌です。ロレンゾはいません。最近、ジーノが導火線が生えた鉄パイプをパワー・オブ・ストッピング教会で買っている姿が見かけられたからです。おそらく駆逐艦よろしくボートから爆弾を落として、お肉を倒すつもりでしょうが、そんなことしたら、水に潜るこちらの命がいくつあっても足りません。

 商業地区側の外れで潜ります。少し視界のきく水のなかで、トラック運送会社が丸ごと沈んでいて、ふやかしたクッキーのようなサンゴが電柱やタイヤにまとわりついています。会社所有のシェヴロレ・トラック五台は全てガレージのなかにあり、運転手がハンドルを握ったまま骸骨になっています。彼らは溺れ死にしたのではなく、水没時の水流の強さで肋骨全部が心臓に刺さって死んだのです。

 ごばっ、ごばば、ごば。

 カムイが何か話しています。もちろん、泡が出るばかりで何を言っているのか不明です。ただ、トラック会社のなかを見てみたいようです。おそらく彼の故郷にはトラック会社がなかったのでしょう。

 あとで本人からきいたのですが、実際はトラック会社があったらしいです。工場漁船が鱒を缶詰にして海から帰ると、それをあちこちに運ぶためのトラックが待っていて、そのトラック基地があるのが、カムイたちが聖地と崇める場所でした。カムイたちの神話では、この世界を水没させたのはトラックということになります。彼の聖地にあったトラック会社は津波で洗いざらい消し飛んだので、カムイとしては世界を水没させた原因をじっくり眺めたかったのでしょう。それにこのあたりで粒々お肉たちから隠れるのにちょうどいいのはこの建物です。好奇心と実用の両方が潜水士たちをトラック会社へといざないます。

〈シュヴェイデン運送〉は皮肉なことに缶詰の輸送を主にしていました。ただ、彼らが運んでいたのはオレンジの缶詰です。なかには格子で区切られた事務室があり、ペンを握ったまま死んだらしい骸骨が座っています。社長室には社長骸骨とタイピスト骸骨がいて、社長骸骨の手がタイピスト骸骨の胸をまさぐっていて、人生最後の日にしたこととしては、少々品がありません。ある少女は迫りくる水没を前に、手回しポンプのハンドルをぐるぐるまわして立ち向かったという話をきいたことがあります。

 結局、社長室が待ち伏せ場所にちょうど良かったので、場所を借りるお代として、ふたつの骸骨を離して、社長には電話を持たせ、タイピストにはタイプライターを触らせて、ちゃんと仕事をしているようにしてあげました。

 社長室の窓は出窓構造になっていて、車が数台、柔らかい泥に沈んだ住宅地が見えます。ジッキンゲン卿とエレンハイム嬢が待ち伏せしている場所は視界の右端にあり、汽水に強いマルタウグイの群れがかすめるように泳いでいます。あまりおいしくありませんし、その割には小骨にてこずらされる魚で、二メートルを超えることがあるわけでもないので、これを好んで狙う釣り師はいません。そのマルタウグイの群れがある場所ではどうしても、その上を泳ごうとせず、そのかわりに左右に分かれて、通り過ぎたら合流するという群れ方を見せています。

「おや。おかしいですね」

 ごぼ、ごば?

「マルタウグイは二度、左右に分かれて泳いでいます」

 ごばば?

「チームその一はあの端にいて、マルタウグイはそれをかすめるようにしてかわして泳いでいます。だから、ふたつのうち、ひとつがチームその一、もうひとつが粒々お肉ということになるとは思えません。別の賞金稼ぎたちでしょうか?」

 そのこたえはまもなくあらわれます。どちらの場所にも粒々お肉たちが十五体以上、ぎちぎちに詰まっていました。

 しかし、釣り人が嘘をつくのは当たり前ですが、過小な嘘をついたのはこれが人類史上初めてでしょう。五体どころか、三十体以上います。

 チームその一で角笛のような音が水を震わし、わあわあと戦い矛を打ち合う音がします。

 すると、わたしたちのほうに七体ほどの粒々お肉がやってきました。六連発水中銃を社長室から発射すると、銛のひとつが急所に当たったらしく、紫に蠢きながら、倒れます。カムイはというと、社長室から泳ぎ出でて、一番大きな粒々お肉に向かって突進。両腕が巨大なヒレのようになった騎士を相手に一歩も引かず、むしろ、そのヒレをぶっちぎって、首(とわたしが勝手に思っている場所)をぎゅうぎゅうに絞めます。銛を撃ち尽くして、再装填作業にてこずっているあいだ、カムイは歯までつかって、白兵戦を生き抜こうとしていました。正直、あのお肉を口に入れるのはためらわれるわけですが、カムイは嚙みちぎっては吐き、噛みちぎっては吐き、歯こそ最大の攻撃手段なのだと世界を相手に主張するかのごとき、大手柄をあげています。

 一方のチームその一ですが、苦戦しているようです。粒々お肉はあちらのほうが多いですし、ジッキンゲン卿はカサゴをバリバリ生で噛みますが、粒々お肉に噛みつくほど人間やめているわけではないのです。しかし、その苦戦が洒落にならないところまで行っていることがまもなく分かります。お肉たちはなんとエレンハイム嬢を連れ去ろうとしています。しかも、最悪なことにお肉の騎士は彼女の呼吸マスクをはぎ取ってしまったのです。マスクはエアタンクとつながったまま、背中のほうへ伸びています。

 ごばばれ!

 つかまれと言われた気がして、カムイの腕につかまると、まるでシャチみたいに一直線にエレンハイム嬢のほうへと突っ込んでいきました。どうやら、異国の自然児はピンチを救う王子さまなようです。彼の肩に捕まっているわたしは、そのオマケの妖精か何かと思っていただければ、幸いです。

 しかし、大いなる海流の采配はカムイを即位させるかわりに、兄弟愛の物語を紡ぎ出します。フィリックス・エレンハイムの登場です。以前のような完全なタコの姿ではなく、半分が人間の姿で。体の上半分は燕尾服をまとった青年、下半分は八本の足です。その足がエレンハイム嬢をさらおうとするお肉の騎士二体に巻きつき、紫色に弾けるまで締めました。そして、別の足でエレンハイム嬢を優しく包み、人間の手でマスクを顔にかけてあげました。苦しそうに体を丸めて息をするエレンハイム嬢を、兄のフィリックスは悲し気に見守っています。親殺しの自分は許されないのだと思っているのでしょう。ここからでは分かりませんが、きっとマスクのなかから兄を睨んでいるのかもしれません。

 フィリックスは優しくエレンハイム嬢を離すと、悲し気にうつむきながら、八本の足で水を押し出し、城塞地区へと流れる潮に乗り、去っていきました。

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