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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと遍歴の騎士
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 この二週間、まず潜水士が増えました。

 一体につき、二百五十ドル。一部の強敵は二千ドル。

 その噂をきいて、市の外から賞金稼ぎの潜水士がやってきたわけです。

 荒くれたちで先人への敬意もヘチマもない彼らは人食いサメや狂人の操縦する小型潜水艦を撃破した根っからの戦争屋であり、彼らの出現はボトル・シティの風紀に悪影響を及ぼすことでしょう。

 わたしとエレンハイム嬢は彼らが住み着いた工業地区へ偵察に行くことになりました。もちろん、わたしは行きたくなかったのですが、ジーノが銃のカタログを見ながら手酌でウイスキーを煽っているので仕方がありません。あそこでひとりでいるよりはエレンハイム嬢を筆頭会話代行人にして、荒くれ潜水士たちに先達への敬意を払う準備があるか見極めに行くほうがマシです。

 サメの死骸と壊れた自動車と木造のあばら家。確かにボトル・シティ全体の住居事情はよくありません。ロンバルト街だって、膝くらいまで塩水に浸かることはままあります。しかし、この工業地区の産業道路ほどひどいのはそうそうありません。特にサメの死骸がひどいです。サメというのは体のなかに大量のアンモニアを抱えた生き物ですので、それが陸地で死体をさらすと、凄まじいアンモニア臭がします。正直、わたしは道にいかなる水棲生物の死骸を放置することに反対ですが、特にヤバいメジロザメを放置となると、もはや意図が分かりません。彼らには毎日の暮らしをよくして、今日より気持ちの良い明日を迎えようという意志がないのです。すぐそばに池みたいな沈没地があるのだから、誰かが三十メートルばかし、サメの尻尾をつかんで、運んで、水に放り込んで、あとの始末をドッグ・アスプに任せるという非常に簡単な解決法があるのに誰もそれをやらない。もし、明日、彼らのお母さんが急に来ることになっても、彼らはサメの死骸をそのままにして、お母さんの度肝を抜くことでしょう。

 じゃあ、お前がやれよと言われるかもしれませんが、わたしもエレンハイム嬢もガスマスクをつけているので、アンモニア臭による不快さはありません。荒くれ潜水士たちは立派な成人なのですから、自分の住む場所の始末くらい自分たちで何とかするべきです。わたしは彼らのお母さんではないのです。

 低品質な酒場、低品質なホテル、低品質な潜水具専門店。

 最初のふたつはいいとして、三つめはダメです。命にかかわります。わたしも少し品ぞろえを見たのですが、潜水マスクのレギュレーターが真逆につけられていました。あれではいくら吸い込んでも空気は入りません。これはあれでしょうか。ならず者潜水士を少しでも減らそうとする国際的な陰謀でしょうか? 目的が手段を正当化するという外道みたいな論理があることは知っています。外道を排するには外道をもってしてしかないのでしょうか? だとすれば、世界をより良いものに変えたいと願うことは倫理面での自己犠牲が伴うことでしょう。ところで、この死のマスクですが、わたしが見ている前で、三つも売れました。どうやら命の恩人になるときが来たようです。そのマスク、確かに値段は安いですが、それが実はあなたたちの命の値段と等価なんですよ、と、わたし(の筆頭会話代行人であるエレンハイム嬢)が言いましたが、返ってきたこたえは「ケツ穴に手ぇ突っ込んで、引っ張り出したハラワタで縄跳びをしてやろうか?」という、言語の変遷に興味のある言語学者がきいたら、小躍りして喜びそうなものでした。市はお肉つぶつぶ一体につき二百五十ドル払うと言っているのですから、きちんとした装備を買いそろえてもお釣りがくるくらいなのですが。

 いずれ、あの店は潜水士たちによって焼き討ちにされますが、それも仕方がないことです。目先のお金にとらわれて、職業倫理をおろそかにすれば、遠くない将来、しっぺがえしが来ます。そんな店は後にしましょう。町工場の納屋だった建物に撒き餌の専門店があるというので興味半分実用半分で見にいってみると、巨大なガラス壜がふたつあり、片方には人間の耳が、もう片方には人間の手首が詰まっていました。

「耳は一個二ドル、手首は二十ドルだ」

 これが末端価格であるとすると、卸値はいったいどのくらい安いのでしょうか? おそらくチンピラが殺した相手、もしくは半殺しにした相手から採取したものでしょう。もとがタダだから、捨て値にするのでしょうか?

「そこのガスマスクのお兄さん。そっちのガスマスクのお嬢ちゃんの首飾りにどうだい? ニ十個四十ドルのとこを三十ドルにまけるからさ」

 耳を連ねたネックレス。もう十分です。新参者の潜水士たちのモラルは分かりました。これなら、家で酔っぱらったジーノに撃たれる可能性をとったほうが安全です。まわれ右して、立ち去ろうとしたところで、表のほうが何か騒がしいのに気づきました。かなり騒がしいのにこれまで気づかなかったのは、撒き餌からもたらされたカルチャーショックのせいです。

 戦いは一対十でした。ヘルメット潜水に何らかの誓いを立てているらしい潜水士が十人と入れ墨だらけの若者がひとり。潜水士たちはみな、あの大きな金属製の潜水ヘルメットをかぶり(善良な潜水士としての注釈ですが、わたしは別にヘルメット潜水を馬鹿にしているわけではありません。ホースが切れたらおしまいで、重すぎて水のなかでは底をもぞもぞ歩くことしかできなくて、その潜水服がごわごわしたキャンバスにゴムを申し訳程度にひいたおそまつな代物であるとしても、わたしはヘルメット潜水を馬鹿にしたりはしないのです)、手に銛を持って、入れ墨の若者に襲いかかります。

 しかし、若者のほうは身長が七フィート近くありそうで、そんな彼に捕まれたら、銛は爪楊枝にしか見えません。巨大な拳がぶつかると、あの潜水ヘルメットがボコボコにへこんでいきます。エレンハイム嬢は義を見てせざるは勇無きなりで、若者に加勢しようと思っていたようですが、むしろヘルメット潜水のほうが不利な気もしてきました。とうとう最後のヘルメット潜水士が樽に逆さに放り込まれると、ようやく往来が動き始めました。海千山千のならず者ぞろいの潜水士たちでも歩みを止めてしまうくらい、その戦いは凄まじかったということです。どうにもよくない気がするので、わたしはさっさとその若者の横を通り過ぎることにしました。

 そばで見ると、これはもう柱です。角ばった謎の模様が胸に背中に腕に顔に脛にとあらゆるところに彫られています。象形文字か何からしく、古代文明の素潜り漁師でしょうか。彼はボロボロの半ズボンと青銅の短剣(彼が持っていると短剣に見えますが、普通の人にはロングソードです)以外、身につけていません。水のなかで息をするための発明品がひとつもないのです。なぜ、彼を潜水士、しかも漁師だと思ったかと言うと、彼の全身を埋め尽くす幾何学模様、よーく見ると、海産物なのです。胸に体を曲げた二匹のサメ、背中には真上から見たクジラ、そのほか、矢みたいなイカ、円盤模様になったタコ、バショウカジキ、緻密なT字のトビウオ、アコヤ貝、ロブスター、タイ、ヒメジなどなど、百種類以上の海の生き物が細かく入れ墨として彫られているのが分かります。ひょっとすると、古代文明の魚介類図鑑なのかもしれません。歩く魚介類図鑑。しかも、ステゴロ最強。

 工業地区の居住地はびっくり人間の宝庫となったようです。水に潜るのが得意なこと以外は普通の人類であるヘンリー・ギフトレスは静かに自宅へ帰ります。そのとき、わたしの両脇に巨大なお盆のようなもの――彼の両手が差し込まれ、わたしを軽々と持ち上げました。この数十秒のあいだに彼に敵視されるようなことをした覚えはありません。ここはエレンハイム嬢に助けてもらおうと思いましたが、エレンハイム嬢も同じように持ち上げられていました。先ほど、わたしは彼の両手がわたしの脇の下に差し込まれて持ち上げられたと言いましたが、訂正します。右手の人差し指と親指が差し込まれて持ち上げられました。古代文明の素潜り漁師はわたしとエレンハイム嬢を交互に見ながら、くんくんと鼻を鳴らし、それからぱあッと笑って言いました。

「お前たちからはいい海のにおいがするな!」

 彼はわたしたちを下ろすと、そのまま屋台の並ぶ路地の混雑へと消えていきました。ただ、実際に消えて見えなくなるのにはさらに十三秒かかりましたが。

 においのレベルが我慢できるところまで下がったところでガスマスクを外し、誰かに見られる前にサッと、いつものマスクをします。ああ、やれやれ! 家に帰れば、泥酔したジーノがいるし、エレンハイム嬢はいい海というのはどんなにおいがするのだろうとしつこくきいてきましたが、とにかくひと段落つきました。家に帰ってみると、ジーノは自分のベッドで寝ていて、居間の小さなテーブルには弾を抜かれた銃が二丁置いてありました。たぶん、ロレンゾがしたのでしょう。

 これでようやくわたしもいろいろ考えることができるようになりました。海藻コーヒーのなかで一番本物に近い、チコリ入りのコーヒーを淹れ、窓辺に座って、あの巨人が言った、いい海のにおい、について思いを巡らせました。世界にはどこまでも水が透き通った海があり、テーブルみたいなサンゴが海底を覆っていて、砂はプラチナを粉にしたみたいで、泳いでいる魚はどれも驚くほど色鮮やか。ひとつの視界に展開する色が十二色以下であることはない、美しい海。そんなとこでしょう。ボトル・シティを沈めている海では勝ち目がありません。ゴミは浮いている。化け物がいる。サンゴはどれもぶよぶよで、ひとつの視界に五色以上の彩りなどあるわけがない。海の生き物を分ける基準はただひとつ。食べられるかどうか。

 そんなところでずっと潜ってきたわたしから、いい海のにおいがするわけがないのですが、たぶんアンモニア臭がしないとかそんなところでしょう。エレンハイム嬢が香水をつけている可能性も否定はできませんが、わたしがジッと見ると、エレンハイム嬢は拳闘士みたいに構えました。

 ひぇっ。

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