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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと遍歴の騎士
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 おめでたくないわたしはぐっすり眠った翌朝、誰でもいいからジーノ以外の誰かを筆頭会話代行人に任じて、ジッキンゲン卿を追放すべく決意を固めます。

 そこで居間兼食堂で見たのは大きなカサゴを手づかみでバリバリムシャムシャ食べながら、大きな素焼きの瓶から直接葡萄酒を飲むジッキンゲン卿の姿でした。彼は未調理のカサゴの頭と尻尾をもって、お祭りのトウモロコシを食べる要領でかみついています。このオニカサゴは背びれのトゲに毒があり、うっかり刺さると、そこがテニスボール大に腫れて、一週間はひどい目を見るはずなのですが、ジッキンゲン卿はそんなトゲを遠慮なく咀嚼し、さらに白い身から突き出た背骨のトゲまでガツガツ食べてしまいます。

「やはり、朝は生のカサゴに限る。ニシンではいかん。カサゴこそが生きる力を与えてくれる。そうは思わんかな、サー・ギフトレス?」

 わたしは横に首をふりました。

 カサゴを遠慮なく嚙み砕く音にエレンハイム嬢が起きてきて、ロレンゾも起きてきました。ふたりとも新たな闖入者に驚いた様子ですが、肩をすくめて、自分たち用に買っておいたシリアルの箱を取り出します(大変不本意ながら、現在我が家では自分の食べ物に名前を書く制度が導入されています。自分の食べ物とは何でしょうか? ここはわたしの家であって、その冷蔵庫にあるものは全部わたしが買ったものであるはずです)。

 朝食のあいだ、ジッキンゲン卿はこれまでの遍歴の旅を歌にしたものをとうとうと語りました。彼はその昔、騎士文化華やかなりし中世から生きてきた本物の騎士であり、どうもオオクチバス病の副作用で不死身、もしくはかなりの長命を手に入れたようです。

 人類の夢、不老不死をわたしは目のあたりにしているわけです。しかし、その代償として、体じゅう鱗まみれになり、生のカサゴ以外をおいしいと思えない味覚になると言われたら、人はそれでも不老不死になりたがるものでしょうか?

 とりあえず、今日の行動は決定しました。図書館です。敵を知るにはまず己からと言いますが、そんなことは嘘っぱちです。敵が目の前にいるのなら、何が何でも敵を知るべきです。というのも、一般的な騎士物語に出てくる騎士とジッキンゲン卿のあいだには大きな隔たりがあります。物語の騎士たちは生魚をバリバリ食べませんし、手づかみでものを食べたりしません。朝から葡萄酒を飲んだりしないし、短剣で歯に挟まったクズをとったりしません。また、わたしが彼に(不本意ながら)住居を提供したことでどのようなアドヴァンテージがあるのかも詳細が不明です。ジッキンゲン卿は彼の言葉を信じるのならば、本物の騎士です。本物の騎士と物語の騎士のあいだにどんな違いがあるのか。これはどうしても知っておくべきことです。

 大聖堂地区にある図書館は市内では割と新しい建物です。水没が起こる直前に新築したもので、公共建築物は裁判所以上に立派な建物を建ててはいけないという狭量で不可解な規則が出る前の作品です。知識の女神を奉ずる美しい白亜の神殿としてつくられたのですが、水没してからこの方、ひどい有様です。泥みたいな藻が石柱の波型模様にこびりつき、謎のヒビが地面部分から伸び始め、砕いても砕いても諦めない汚い色のサンゴが窓を塞ごうとする。水没後の世界で人びとはもうメンテナンスをあきらめていて、閲覧室で蟹が見つかっても、肩をすくめて、そういうものさ、とうそぶき、資料の閲覧を続けます。

 水没が始まって以来、読書から得られる知恵に対する軽視があったのは事実です。水没以来、人びとが覚えるべきことは毎日のおかずを釣り上げることですし、人びとの楽しみもだいぶ罪深い方向へと針路を変えました。ただ、そもそも図書館というのは立錐の余地もないほど込み合う娯楽施設ではありません。静かに読書を楽しみたいなら、このくらいがいいのです。

 わたしは神殿の受付で中世の騎士について、ロマン無しに真に迫った暮らしぶりが記載されている本はないかとたずねました。すると、受付の役人はRの88番の棚にあると教えてくれます。それもひそひそ声で。

 しゃべってはいけないというルールはわたしにとっては至高です。図書館にいる人間は誰もわたしに話しかけてきませんし、わたしが話すことを望みません。沈黙の価値を知る、無口たちの最後の砦なのです。

 さて、Rの88番の棚は地下にありました。多くの建物同様、図書館も地下室の浸水に悩まされていて、水たまりがあります。問題の本棚にある『騎士フェリペ・デ・カザマルナのあられもない日々』という暴露の誘惑を装丁に込めた、古い本を本棚から引き抜き、閲覧室の札をひっくり返して、ひとり小部屋で『騎士フェリペ・デ・カザマルナのあられもない日々』のページを繰ります。

 この本によると、まず騎士というのは食事のマナーなどひとつも知らないということです。粗食を静かに、きれいに食べるのは女性向け小説に描かれた騎士であり、本当の騎士は焼いた肉を手づかみにし、瓶に直接口をつけて酒を飲み、酔っぱらって喧嘩する、というかなりショッキングな内容が書かれていました。本物の騎士たちには戦って何かを勝ち取る権利が与えられていて、これを私戦と呼ぶ。私戦の相手は同じ騎士であることもあれば、都市であることもあるし、さらに言うと、本来忠誠を誓うはずの国王に対して、私戦を仕掛けることがある。理由は騎士の名誉や愛する姫のためでなく、土地である。とにかく騎士は土地を欲しがる生き物なのです。

 これは恐ろしい話です。もし、ジッキンゲン卿がわたしに私戦を仕掛けてきたら、どうなるのか? 私戦は騎士物語にあるような槍試合ではなく、普通に本物の戦争を仕掛けてくるようです。

 私戦についてはもういいです。読めば読むほど気が滅入ります。敵と知るにはまず己から。その通りで、まず自分の精神状態を重視すべきです。いまのわたしはこれ以上、私戦によってもたらされた焼き討ちや強奪、人質の焼殺について読める状態ではないのです。

 次は長所について、読んでみましょう。騎士物語では騎士は一宿一飯の恩義を一生忘れないものです。これについて『騎士フェリペ・デ・カザマルナのあられもない日々』は騎士の恩義はもらった土地に基づいて、規模と期間が厳密に決められているということです。たとえば、フェリペ・デ・カザマルナは国王より耕地と採草地が合計二千ヘクタールある荘園をもらいましたが、フェリペ・デ・カザマルナの国王に対する恩義は騎乗した彼自身、槍兵三名、弓兵三名、弩兵一名とともに四十日間戦争に参加するというものだそうです。つまり、四十日経過したら、戦争がどうであろうと帰ってもいいというのです。もし、王の側でもうちょっと長く戦ってほしいと思ったら、土地なり金銭なりを与えないといけません。それはもう騎士ではなく傭兵です。わたしがジッキンゲン卿に占拠されたのは小さな部屋ひとつですから、たぶん三分間くらいは戦争に参加してくれるのではないでしょうか?

 結論から言えば、「正直であれ。誠実であれ」に過大な期待をすべきではないというところです。少女潜水士、ギャングと暗殺者の双子、そして、オオクチバス病罹患の騎士。わたしの受難は続きます。

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