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問題の大学水域まで来ました。斜めになった電柱が並んでいて、三十メートルくらい離れた、水に浮いた崩れた建物に住んでいる浮浪者たちの手拍子がきこえます。そこでは火も焚いていて、それが黒い水面に映って揺れています。これがこのあたりの貴重な光です。
わたしとロレンゾは船の縁に腰を下ろすと、呼吸マスクを手で押さえながら、背中から水に落ちます。
真っ暗な世界でひっくり返るとどちらが上だか分かりにくいものですが、ジーノが電気ランプをつけ、船べりに吊るしてくれているようで、それを見て、すぐに体の上下を戻すことができました。
「行こう」
「ああ」
夜の海というのは電気ランプが映し出す円錐形の世界以外は完璧に見えないおっかない世界です。このあたりでは最近、化け物の出現情報はありませんが、しかし、カール・ウェストブルック自身が化け物のようなものです。あまり潜りたいと思える場所ではありません。しかし、ミカ嬢が囚われています。事件の結末をつけるだけなら、明日でもいいのですが、ひとりの女の子が頭のおかしい映写技師に捕らえられている以上、急がなければいけません。女の子のためにリスクをおかすのです。どうですか? かっこいいでしょう?
ああ、でも、マスクのなかの呼吸の音が耳にいつもより響きますし、自分の心臓の打つ感覚がいつもよりも激しい気がします。いろいろと厄介なことが立て続けに起こり、機敏になり過ぎているようです。カプタロウを連れたロレンゾは見た感じ平常心のようです。職業的暗殺者を頼りな相棒と思う日が来るとは思いもしませんでした。
わたしもこの街で潜り続けていますから、夜でも例の実験室がどこにあるのかは分かります。あれはロードスターが正面に突っ込んでいた住宅です。壊れた正面から家のなかに入り、一面に広がった柔らかい泥を跳ね上げないよう注意深く進むと、斜めに傾いた廊下がでできます。その奥にはかすかに光。
「あの奥だ」と、わたし。
「何かあったら、すぐに退いてくれ。おれが対応しよう」
エレベーターの箱が壊れていて、そのシャフトの上に大きな空気の部屋があります。そこに顔を出し、マスクを外すと、すぐシャフトの整備用ハシゴが見えます。空気タンクを背負って梯子を昇るのはしんどいですが、少女の命がかかっているのです。それにロレンゾにとってはカプタロウの親です。なんとか梯子を上り切り、何かの事務所の廊下に出ます。エレベーターの出入口にアルコールランプがひとつ置いてあります。事務所のドアはどれも鎧戸がついていますが、ひとつ、開きっぱなしのドアがあります。それが悪夢の実験室です。素早く動けるよう、タンクを外し、足音を忍ばせます。実験室には誰もいません。以前見た、不気味な合成生物は壁にかかっていて、本棚や薬棚も以前のままです。ただ、この前と違うのは奥のドアが開いていることです。そこから笑い声がきこえてきます。ある種の薬に耽溺する趣味があるミカ嬢の笑い声です。
ロレンゾはその声の響き方で隣の部屋の大きさをだいたい予測できるようです。ちょっとした教会くらいの広さがあると言いました(後で役所で調べたのですが、そこはある新興宗教の礼拝所だったそうです)。不安げに泳ぎまわるカプタロウの兄弟姉妹。長椅子がいくつも並べてあり、数百本の蝋燭に取り囲まれた祭壇にケラケラ笑っているミカ嬢が横になっていて、その向こうにあの映写技師、今回の事件の犯人であるカール・ウェストブルックがいます。顔の半分にヤケドを負っています。フローレンスの従弟を殺したときに獣脂を浴びてできたものでしょう。ロレンゾは相手が気づくより先にナイフを二本、カール・ウェストブルックへ投げました。ナイフは紐で引っぱったみたいにまっすぐカールの胸に刺さりました。祭壇の向こうに倒れ、一瞬、しん、とした後、ミカ嬢がケラケラ笑います。わたしとロレンゾはミカ嬢を持ち上げて、そのまま隣の部屋へ運ぼうとしましたが、そのとき、カールの死体がちらりと見えました。
あ。
首に『進化覚醒』のラベルが貼られた真鍮の注射器が刺さっています。
その中身の合成方法は知りませんが、それが人間を化け物に変えるためのとっておきのエキスだったらしいことは分かります。カール・ウェストブルックはわたしたちの前でバキバキと既存の骨を折り、バリバリと既存の皮膚を裂きました。そして、起き上がり、先ほど折った骨を倍の大きさに接ぎ、先ほど裂いた皮を倍の大きさに結びつけたころには身長二メートルの手足の長い、おぞましい化け物となったのです。化け物は腕を振るい、わたしはしばらくぬくぬくした不思議な空を飛びました。大気はピンク色で質感のある雲の上でアニメ映画に出てきそうなネズミとウサギが飛び跳ねたり、頬杖をついて、下界を眺めています。この空は非常に心地よく、ずっとここにいたいなと思いながらくるくるまわるのですが、ここにいられない理由がある気がしました。ただ、覚えていないのです。それでそばで飛んでいたカラスにたずねました。
「わたしは戻らないといけないのですか?」
「戻らないと、店子が死んじまうぜ」
「店子? 店子がいるということはわたしは大家なんですか?」
「あんたはブルジョワなのさ」
「店子からはお家賃はいくらもらっているんでしょうか?」
「一セントももらってないぜ」
「それは大家なんですか?」
「大家なんだ」
「うーん、一セントも払わない大家。その店子は命の危機にあると?」
「ああ。そうだね」
「カラスさん。わたしのかわりに助けてもらうことはできますか? わたしはいま、とても気持ちがよくて、寝てしまいそうです」
「月並みなこと言うがな、寝たら死ぬぜ」
「店子が?」
「いや、あんたさ」
わたしはピンク色の空から転がり落ち、最初に見たのはカプタロウの顔です。ロレンゾはというと短剣二本を手に、筋組織剥き出しの化け物と戦っています。わたしがピンク色の空に浮かぶ前と比べると化け物にはたてがみのようなものが生えて、背丈も五十センチほど高くなったようです。
カプタロウが何かをつつきます。燃える爆弾ラベルの茶色い薬瓶です。カプタロウの兄弟姉妹たちは実験室からあの不気味なクリーチャーをくわえて引きずってきました。サメの歯を埋め込まれたアザラシの口に爆弾ラベルの壜を突っ込んで、火をつけたアルコールランプをアザラシの舌に乗せます。合成生物を立ち上がらせて、アホウドリの翼を縫いつけた胴体をわたしの右肩で支え、そのままカール・ウェストブルックへ突っ込みました。前は見えません。化け物がこちらに攻撃してきます。アホウドリの翼がもげました。また攻撃。今度はタラのお腹が破れ、そこからブリキと鉛でつくった内臓がこぼれ落ちます。
ぱりん! ぼわっ!
アルコールランプが歯に当たって割れ、最初に突っ込んだ爆弾薬瓶に引火すると、合成生物の剥製は世界で最も気持ち悪い火炎放射器になりました。炎を噴き出す反動で倒れそうになりましたが、鯉とロレンゾがわたしを支えます。カール・ウェストブルックは顔にもろに火を浴びて悲鳴を上げました。しかし、彼には作成者としての責任があります。わたしは日々、芸術家はその作品に最後まで責任を持つべきだと思うのです。そこでわたしたちはカールにこの化け物を押しつけました。すでに化け物の剥製は体の前面全てから炎を噴出させていて、その溶けた皮がカールの剥き出しの筋肉組織とべったりくっついて、彼の体内を直接、薬品くさい炎で満たしました。かつてカール・ウェストブルックだったものは体の裂け目からまばゆい光を漏らしながらのたうちまわっています。
ミカ嬢を回収し、大急ぎで逃げました。すでにカール・ウェストブルックは生きる溶鉱炉で破裂寸前です。潜水具を装着し、カプタロウたちと一緒にエレベーターシャフトに飛び込んだ瞬間に水面が黄色く燃え上がりました。爆発したカールの炎が空間の全ての空気を食いつくしたのです。なんとか外に出て、ジーノのボートに乗り込みましたが、あの薬品由来の炎で水が黄色く濁り、細かい泡が水面を覆い尽くし、家がいくつか沈んでいきます。
これが事件の結末です。
暗殺、美人局、拷問と死体、頭の狂った警官、ギャングの抗争と変態研究マニアが善良な潜水士をさんざんいじめた一連の騒動はシャンパンみたいに輝く泡とともに消えていきました。
事件の醜悪性を考えると、もったいないくらい美しい締めくくりでしょう。
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神 end




