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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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「兄弟が迷惑をかけた。本当にすまない」

 ロレンゾはその償いとして〈フローレンスの従弟〉に一緒に会いに行ってくれることになりました。すっかりその存在を忘れていた男から届いた手紙、というか書きつけが落ちているのをロレンゾが見つけたからです。奇妙な話ですが、わたしのまわりでわたしを殺し屋だと思っている人たちはみな、今回のフローレンス・アンシュター殺しはわたしの仕業ではないと自信をもって断言します。わたしがやったのなら、フローレンス・アンシュターは海の底にいるはずだと。セサール・ルシオ警部も、そう思っているのでしょう。実を言えば、わたしは犯人捜しの下請けです。

 しかし、ロレンゾからの申し出は実にありがたいことでした。ロレンゾは依存型なんちゃって無口でした。ジーノが話せるときはジーノに任せ、それができずかつ極めて重要な場面ではきちんと筋道の立った会話ができるのです。それも銃を持った酔っ払い相手というかなり難易度の高い会話です。

 これは素晴らしいことです。というのも〈醸造所〉は屋根の落ちた建物で、そのなかに貧困と暴力、密造酒を使った現実逃避を詰め込めるだけ詰め込んだ、スラムのなかのスラムだからです。そんな場所でどう会話しようか途方に暮れていたので、ロレンゾがわたしの筆頭会話代行人を務めるという申し出はとてもありがたいです。

〈醸造所〉は大聖堂の裏手の道を北東に進んだ先にあり、そのあたりの住人は野良犬に残飯を与えて太らせることを『投資』と呼んでいます。

 家を出て、大聖堂地区へつながる通りを歩いていると、ときどきロレンゾを見失うことがありました。二歩と離れていない位置を歩いているはずなのに夜の暗さにあっという間に溶け込んでしまうのです。わたしが困って、うむむと呻ると、マスクを引き下げた白い顔が暗闇のなかに浮かび出て、二秒遅れて、黒装束に包まれた体があらわれます。あれだけ装備したナイフ類は光を一切跳ね返しません。恐ろしいことです。ロレンゾに狙われた標的は蟹に食べられた天使に祈るぐらいしかできません。ただ、自動車にひやりとすることがあるようです。ふたり乗りのクーペがときどき狂ったように角を曲がってくることがあるのですが、相手にはロレンゾが見えず、何度かバンパーに体を引っかけられそうになっています。

「車は苦手だ」

 ロレンゾはそうつぶやきました。やはり無口の度合いではわたしのほうが一枚も二枚も上手なようです。もちろん、それで得をすることはありません。

 東に見えていた大聖堂の黒い影が南西に見えるようになりました。そろそろ犬が『投資対象』になる地区です。犬の投資家は死と隣り合わせの危険な職業で、相場の動きを読むための知識と決断力を必要とします。犬は人間に忠誠を誓いやすい生き物ですが、それはフライドチキンを与えたらの話です。魚の頭ではその忠誠は買えません。痩せて今にも死にそうな野良犬に餌を与えるのですが、犬のほうもある程度までいったら食べられることは分かっていて、だから、肥えてきて膂力が戻ると、つぶされる前に投資家に襲いかかり、逆に食べてしまうわけです。投資の止めどきを見極める目が重要なわけです。

〈醸造所〉が近いのはにおいで分かります。いま、小雨が降っていますが、つかれた油物のにおいは消えません。犬の肉を三十回揚げた油でも新品扱いです。他にも少なくとも五年は体を洗っていないにおいや何に使うのか分からずに貯められたゴミバケツの六年ものなどがいい塩梅に〈醸造〉されて、よそものをにおいで殺しにかかります。割と高価なマスクをしているわたしでも吐きたくなるにおいですが、幸い、ガスマスクがふたつあります。これは大戦のときにマスタートガスを無効化するためのもので、これを頭からすっぽりかぶれば、視界は著しく悪くなりますし、自分の呼吸音がシュコーシュコーと潜水時並みに大きくなりますが、まあ、においで死ぬことはありません。

 脂ぎった灯に浮かぶ〈醸造所〉が見えてきました。そのシルエットは乱杭歯みたいです。水没前はこの醜い哀れな廃墟だって、立派にビールを醸造していたのです。ボロボロの扉の前には入る人間から五セントを徴収する大男がいます。バケツいっぱいの魚油がメラメラ燃えていて、夜闇に溶け込んで動く暗殺者も、ここで五セントを支払わないわけにはいきません。

〈醸造所〉に入ってすぐ、屋台が並んでいて、頭と尻尾を切り落としたドブネズミが油で揚げられています。その隣では鉄パイプでつくった単発ピストルと錆びたカミソリを発射するゴムバネ兵器が玄関マットの上に並べてあり、〈三ドル〉と書かれた札が立ててあります。海藻ティーの包みが積みあがっていて、〈醸造所〉の貴族階級である押し込み強盗たちが密造酒入りのお茶を楽しんでいます。エンジンとドアを取り外された自動車から汚れた裸足が伸びていて、いびきがきこえます。ただのいびきではありません。わたしが機械の故障を音でチェックするセンサーだったら、物凄く反応すること間違いなしの破壊的ないびきです。

 フローレンスの従弟がどこにいるのか。〈醸造所〉でわざわざ会うということは人目を避けたいのでしょう。ゲップとおならの音を丹念に取り除けば、崩れた煉瓦壁の向こうからは水の音がきこえてきます。〈醸造所〉は狭い半島の突端のような場所にあるのです。

 裏手に出ました。古着の山がある水たまりから小さな赤い花をつけた茎が密集して繁茂していて、それが壁にも絡まって、頭蓋骨の上に置かれた獣脂蝋燭を光と影の凝った模様で取り囲んでいます。

「ヘンリー・グレイマンか?」

 暗闇から声がします。フローレンスの従弟らしき男性があらわれました。思ったよりも背が高く、百八十センチを軽く超えています。両腕で胸の前に抱えられた防水加工の旅行鞄の上に細長い顔があり、その無精髭は獣脂蝋燭の投げる光で小さな毛穴影をつくります。彫の深い顔の人は髭剃りをさぼるべきではありません。

「そいつは誰だ? おい、お前ら、マスクを外せ」

 嫌だなあ、と思いながら外しました。奇跡です。においがしません。どうも潮の流れと同調する風が〈醸造所〉の発酵臭を廃墟に押し戻しているようです。

「で、そいつは誰だ?」

「ヘンリー・ギフトレスの同居人だ」ロレンゾがこたえました。

「ヘンリー・ギフトレス?」

「ヘンリー・グレイマンの本名だ」

 うんうんとわたしはうなずきました。会話は筆頭会話代行人に任せます。

「お前を信用できるって保証があるのか?」

「ない。だが、お前は信じるほかない」

「くそったれめ」

「おれたちがここにきたのはそんな言葉をきくためじゃない」

 そうです、そうです。もっと言ってあげてください。

「わかった。……くそ、おれの知ってることを教える。でも、条件がある」

「どんな?」

「おれを助けてくれ」

「誰かに狙われてる心当たりが?」

「くそっ。フローレンスだ。あいつ、ヤバい恐喝に絡んでた」

「美人局のことか?」

「違う。フローレンスはフランクを商売から締め出そうとしてた。もっと割のいい、デカいヤマをしようとしてた。フローレンスはおれにも一枚噛ませるって言ってたのに、あの、クソアマ、脅したらヤバいやつを脅したんだ」

「どうして分かる?」

「フローレンスが自分で言ったんだ。ヤバいやつに関わったかもって」

「どんなヤバいやつだ? 警察か? それともギャングか?」

「知らない。だが、たぶんギャングだ。ブツを奪っちまったって言ってた。いや、違う。ギャングじゃない。ギャングならカネを積めばいい。でも、そいつは、頭がおかしいっていうんだ。フランクも巻き込んだ。でも、フランクは嫌がっていた。フローレンス以上に嫌がってた。あいつは頭がおかしいって」

「フランク・アンシュターのことか? やつは何を知っている?」

「三人目がいる。フローレンスとフランク、そして三人目。フランクとフローレンスは何をトチ狂ったのかそいつを美人局に巻き込んだ。その三人目がフローレンスを殺したんだ。その変態野郎はずっと見てたんだ。フローレンスがカモとやるのを、きっとフランクとフローレンスがやるのも見てた。だから、フローレンスは、気色悪くなって、きっと保証みたいなものがほしくて、その三人目の変態から何かを盗んだ。そうしたら、フランクもフローレンスもビビっちまって」

「三人目の名前は?」

「知らねえよ。ふたりともおれには名前は教えなかった」

「その三人目が分からないなら、おれはお前を守れない」

「いや、そいつを一度だけ見たことがある。以前、会ったことがある気がする。たぶん、あいつは――」

 フローレンスの従弟が何を言おうとしていたのかは分からずじまいです。しゃれこうべの獣脂蝋燭がある壁のあたりから銃弾が飛んできて、それが顔にめり込んだからです。フローレンスの従弟は鞄を抱きかかえたまま吹っ飛び、水に落ちました。ロレンゾはさすが本物の職業暗殺者なだけあって、次の弾をよけながら、身をひねって、ナイフを一本、賊目がけて投げました。しゃれこうべが砕け散って、悲鳴が上がります。溶けた獣脂が目に飛び込んだか何かしたようです。

 これで顔か目をやけどした人間を探せば、犯人が捕まりますが、警察に足を引っ張られました。催涙ガス弾が次々と〈醸造所〉に飛び込み、破裂したのです。

「サツの手入れだぁ!」

 誰かが叫びます。咳と涙と悪臭と、無差別な暴力の坩堝です。角材がふりまわされ、崩れ落ちた煉瓦壁の下で骨がポキポキ折れています。警察用のリヴォルヴァーとショットガンがたて続けに発射され、ガスマスクをつけた警官隊が〈醸造所〉に突撃します。鉄パイプでつくったショットガンが撃たれ、肌のほとんどが鱗と化した〈醸造所〉の荒くれたちが弾の餌食をなっています。警官隊の先頭にいるのはセサール・ルシオ警部です。マスクをつけず、銃身の長いリヴォルヴァーを二丁握った、逃亡禁止法案復活の支持者。逃亡禁止法とは水没直後の極めてひどい混乱下にあったボトル・シティで治安を取り戻すために一週間の期間限定で施行された法律です――『警察官は逃げようとした逮捕者を射殺してもよい』。これにより逮捕した犯罪者を背中から撃ち殺す処刑行為が可能となったのですが、ルシオ警部はそれが、このびしょぬれの世界をマシなものにするただひとつの方法と思っていたようです。

 そんな警部に捕まりたいと思うものは誰もいません。幸い、わたしたちにはガスマスクがあります。催涙弾のガスというのは濃密な白で構成されていて、そのなかに入ってしまえば、外からは見えません。また、部屋じゅうに充満させるというコンセプトのもとつくられたガスは空気より重いので、空中に消え去ることもないわけです。このガスを隠れ蓑になんとか大聖堂の近くまで逃げられましたが、それでも黒いパトカーが尻尾に火をつけられた犬みたいに走りまわっているので、完璧に危険を脱したとは言い切れないのが困りものです。警察がいなければ、フローレンスの従弟を殺した犯人を見つけられたはずなのに、それもふいになりました。

 大聖堂の前で水たまりに写った雨雲を眺め落としながら、新たに提示された謎を数えてみました。三人目の人物。フローレンス・アンシュターが考えていた新しいヤマ。そして、その恐怖に三人目から奪ったブツなるものがどんなものなのか。ただ、差し当っての謎はフローレンスの従弟が抱えていた、あの鞄には何が入っていたのかということです。あれは水没前、船旅向けにつくられた防水鞄です。通常は水に浮くようになっていますが、フローレンスの従弟はしっかり抱きしめていました。たぶん、まだ水のなかでしょう。

 それはつまり? 潜水士の出番です。

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