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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 家についたのは午後八時でした。帰り途中のテントでヒラメのグリルと、葛粉ビスケットを入れたチャウダー、それにお腹を温めるために安ワインを少し口にし、エレンハイム嬢には悪いですが、もうわたしは疲れて話すつもりはなかったので、例の『異性交遊教典』の余白を使って筆談し、今日の調査についてのお互いの推理の共有を行いました。筆談というのはなかなかもどかしく、何度か夜の海に潜りに行こうとさえ思いましたが、とりあえず、フランク・アンシュターと名前が分からない義理の従弟がキーパーソンであるということは同意できました。もっともふたりとも死んでいる可能性が濃厚ですが。

 それに犯人がフローレンス・アンシュターの指を八本も折り、夫妻の家を徹底的に家探しし、ピーチ缶の価値を無視させるほどの探し物が何なのかはさっぱり分からないというのも同じです。やはり、美人局の現場を写真で撮られたのかという気がします。となると、スマッツ・カーター氏は容疑者から除外されます。彼にはもう写真は必要ありません。そんな段階はとっくに過ぎています。

 おそらく、まだ、公になっていないことがあるのでしょう。たとえば良家の紳士があられもない姿を撮られていて、恐喝を長々と受けている……これは悪くない説です。

 普通の警官なら良家の紳士が犯人であれば、捜査も尻込みするでしょう。しかし、セサール・ルシオ警部がこの世で一番嫌いなことは良家の紳士が犯人である事件に尻込みすることなのです。

 警部の理想としては塩とかびのにおいがする牢屋に一生閉じ込めておきたいのでしょうが、実際、良家の紳士が逮捕されれば、お金持ちのママが腕利きの弁護士を雇って、正当防衛の心神耗弱とかで釈放されます。そこでルシオ警部としては、希望のランクを下げます。良家の紳士殿が逮捕の際に抵抗し、警部は必要な制圧として、必殺の左フックをきめる。警部のギリギリの妥協です。

 さて、今夜はボビー・ハケットが演奏しないことは調査済みなので、もう外出する必要もないでしょう。ちょっと小説を書き、六連発水中銃を手入れして、パジャマに着替え、布団のなかで今日会った人びとと死んだ人びと、目撃した大虐殺のことを考えているうちに眠りました。

 強いノックで目が覚めて、着替えてマスクをして、どうか新しい闖入者ではありませんようにと願いながら、ドアを開けたら、手紙が一通、置いてありました。こんな夜中に郵便屋が働くなんてありえないので、何の手紙かいぶかしみました。差出人の名前がありません。パズルの押し売りでしょうか。見たらこたえが気になるパズルを勝手に届けて、こたえが知りたかったらお金を払えというやつです。対処は簡単です。パズルを見ると気になるからパズルを見る前に破り捨てればいいのです。しかし、今日は何か予感がしました。そこで見てみると、

『フローレンス殺しで話したい 今夜、商業地区の〈醸造所〉で待つ フローレンスの従弟より』

 と、ありました。

 罠かもしれませんし、突破口かもしれません。どちらにしろ、エレンハイム嬢を起こさなければいけませんが、ぷすーぷすーと眠っていて、起こすのが少々気が引けます。しかし、ときには文明を捨て去って、人ひとりの快眠を台無しにするような野蛮性に目覚めることも必要です。

 しかし、〈フローレンスの従弟〉はここまで来て、〈醸造所〉まで逃げるのか。この〈醸造所〉というのは昼間でも行きたいと思える場所ではありません。真夜中ならなおのことです。手間のかかることをしてくれます。

 空が暗ければ、午前五時も今夜のうちに入るかもしれないと考えていると、またノックの乱打です。ドアを開けると、みぞおちに銃を突きつけられました。見るとジーノの両目がソフト帽の庇の下にあり、黒目も白目もどろんと潤み、まぶたはいまにも閉じてしまいそうになっています。そのくせ毛細血管は元気に網の目を走らせていている、とどのつまり、過度の飲酒による前後不覚状態に陥っているのです。もし、わたしがこのまま彼に射殺されたら、墓碑にはこう刻んでもらいましょう。


 ヘンリー・ギフトレス

 1906~1927

 鉛のカクテルが胃袋を直撃


 ジーノもこの水準で毎日飲んでいたら、そう長くは生きられないでしょう。


 ジーノ・フェリー

 19??~1927

 お酒はほどほどに


 もし生き延びることができたら、ジーノから生年月日をきくことにしましょう。しかし、ジーノはなぜ善良な潜水士ヘンリー・ギフトレスにこんなひどい仕打ちをするのでしょうか? それが分からないとこの場を生き延びられないし、ジーノの誕生日を知ることもできないでしょう。別に知りたくもないのですが。

「てめー、おれをコケにしてこのまま生きて帰れると思ってんのかぁ」

 そう言って、みぞおちを銃口でぐいと突き上げます。

「この街でおれよりすげえ早撃ちはなぁ、いねえんだぞ、こら」

 すでに撃鉄は上がっていて、ジーノの頭はかくんかくんといまにも首ごと落ちてしまいそうな怪しげな動きをしています。そして、その運動の最中にも指は引き金にかかっています。わたしにはいろいろ苦手なものがありますが、『撃鉄が上がった状態で酔っ払いの指が引き金にかかっているリヴォルヴァー』ほど苦手なものはありません。あともうちょっと引き金に強く触れただけで撃鉄が落ちて、弾はわたしのみぞおちから入って背骨を断ち割り、外に飛び出すことでしょう。

「おい、てめーに言ってんだぞ、こらぁ!」

 どうやらジーノはわたしに敵意を抱いているようです。わたしは記憶を呼び出し、このギャングをコケにしたことがあっただろうかと必死に考えました。

 すると、救世主が登場しました。ロレンゾです。ジーノの後ろの暗い階段室から用心深く足音を忍ばせてやってきます。

「ジーノ、もう、いいだろ」ロレンゾは低く落ち着いた、ゆっくりとした声でささやきます。「そいつも十分思い知った。この部屋で誰もお前をコケにできるやつなんていない」

「そうかぁ?」

「ああ、そうだ」

「そっか。そっかぁ」

 ロレンゾはそっと、ジーノの手からリヴォルヴァーを取り去り、手の届かないところで撃鉄をゆっくり元に戻し、銃身を折って、なかの弾を全部取り出すと、窓のそばのテーブルに置きました。

「ジーノが迷惑をかけてすまない」

 わたしは首を横にふりました。わたしはもう勘弁ならないから出ていってくれと首をふったつもりでしたが、なぜかロレンゾには「気にすることはない」と伝わったようで、マスクを引き下げ、少し表情をほころばせました。

 ここはきちんと言葉で言おうと思い、声帯にしっかり動けと頭脳から命令を発しようとしたそのときでした。いったいどこから取り出したのか、ジーノはさっきよりも小さな銀色のリヴォルヴァーを抜いて、またわたしのみぞおちに突きつけてきたのです。

「おれは勘弁しても、潜水士さんは勘弁しねえぞ!」

 は?

「てめー、潜水士さんもコケにしただろ、あ? 立派な潜水士のヘンリー・グレイマンさんをよお、あ?」

 人違い? だけでなく、名前まで間違っています。

 ロレンゾがそっとジーノの腕に触れます。位置としては手首から指三本分の位置です。これ以上、近いとズトンといくのでしょう。

「ジーノ、そいつはもう潜水士さんのことを馬鹿にしたりしない」

「あん? 本当か、てめー?」

 ロレンゾがわたしの目を見て、うなずきました。わたしの頭脳は先ほどの立ち退き命令を撤回して、新たな言葉をテレタイプで声帯に伝えます。

「ごめんなさい」

 ジーノはにやりと笑いました。これが許しの笑いなのか、ギャング特有の人を撃つときに見せる笑いなのか分からないのが本当に恐ろしいです。

「潜水士さん! ごめんなさいだってよ! 許してやるかい!?」

 ロレンゾはまたわたしの目を見て、うなずきました。

「ああ。許してやれ」わたしは言いました。

 すると、ジーノは銃口をわたしのみぞおちから外しました。ロレンゾはそっとジーノから銃を取り上げ、弾を抜き、先ほどの銃を置いた場所に置くと、ジーノの帽子をその上からかぶせました。そのころにはジーノは背骨が抜けたみたいに床にねそべっていたので、わたしとロレンゾで肩と足を持ち、文字通りそのまま、ジーノのベッドに放り込みました。

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