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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 昨晩もボビー・ハケットをききに歓楽街に行き、そして、今朝はトーストにピーチのジャムをたっぷり塗ります。このピーチはいくつかの化学物質によってつくられた奇跡のピーチで味がほとんどピーチと一緒なのに本物のピーチではないため、値段は十分の一以下という庶民に優しいピーチです。

「パクられて取調室に放り込まれたら、とにかくサツにはなめられないようにな」かじったベーコンチーズトーストをふりまわしながら、ジーノが言います。「隙ができたら、思いっきり股座を蹴飛ばしてやれ。おれはこれをやって三日間生死をさまよったことがある」

「……ジーノの言うことは参考にするな」

 今日、向かう場所は以下の通りです。

 フランク・アンシュターの仕事場。

 同紳士の行きつけの店。

 同紳士の美人局の被害者その一:絨毯商マストロパオロス氏。

 同紳士の美人局の被害者その二:歌手スマッツ・カーター氏。

 そして、これらの捜査にはわたしの筆頭会話代行人としてエレンハイム嬢が同行します。

 アンシュター氏の仕事場はハズレでした。あまり繁盛していない交易会社で、その儲かっていない分低賃金を補充するために社員は様々な副業を持っていました。ざっと話しただけでも契約殺人がふたり、密売が七人、違法賭博が五人、高利貸しが五人、窃盗が十一人、そして美人局が十八人。美人局などありふれていて、誰も特に気にしていませんでした。

 どうもよくありません。普通、犯人はいつもの職場にいつもは見せない慌てぶりを見せ、それが人の記憶に残り、そして、名探偵の解決の一助となるのに、このダイス・アンド・オー交易会社はちっとも役に立ちません。役に立たないだけならばそれでもいいのですが、旧市街のブレッキンリッジのそばにあって、ちょっとした犯罪結社くらいの人数があるというのが問題なのです。彼らは己の副業をを隠そうともせず、積極的に営業を仕掛けてきました。現在、睨みあっている三つのギャングからこの会社はどう目に映っているか。

 ギャヴィストン一家のピートとジムたちが黒色火薬のリヴォルヴァーと二連式のショットガンを手に事務所になだれ込んできたときは我が身を呪いました。殺人容疑者にされていて、ギャングの抗争に巻き込まれる以上の不幸というのはそうそう思いつくものではありません。ダイス・アンド・オーの社員がひとり残らず薙ぎ倒される前に窓から逃げました。そこには以前の高潮で陸に置き去りにされたタグボートがありましたから、その甲板を滑り台の要領で滑りましたが、明らかにわたしたちを狙った銃弾が甲高い音を立てて、耳のそばを飛び過ぎていきました。

 次は美人局被害者一号です。マストロパオロス氏は新港湾地区に絨毯倉庫を持っています。倉庫は大きな建物の二階にあり、〈マスターポール・カーペット会社〉と看板が下がっています。エレンハイム嬢はこういうとき、マストロパオロス氏は既に死体になっていて、その瞬間に警察に踏み込まれて、第二の死体について、あれこれきかれてひどい目に遭わされるという、一冊五セントの推理小説から仕入れたらしい予測を立てますが、冗談ではありません。セサール・ルシオ警部はミドル級で、かなりいいところまでいったとききます。警官とボクサーの違いはメリケンサックの使用が許されているか否かであり、その意味で言うと、現役ボクサーよりも警官のほうがずっと危険なのです。

 どうかマストロパオロス氏が死んでいませんようにと思いながら、赤い錆止めペンキで塗られた両開きの扉を開けました。左右の壁に巻いた絨毯を立てて並べたガランとした大部屋の真ん中にマストロパオロス氏の死体がありました。ああ、まったく、どうして。わたしはすぐに逃げようとしましたが、エレンハイム嬢はそんなことをすれば、犯行現場から逃げ出した不審者として目撃者の記憶に残ることになるといい、それもそうかと思って、とにかく、マストロパオロス氏の死体をざっと調べてみました。少し太り気味のお腹をしたマストロパオロス氏は上着は着ておらず、シャツとサスペンダー姿で自分の売り物である絨毯の上に仰向けに倒れています。顔に白いハンカチがかけてあるのは銃弾をぶち込んだ形跡を隠すためでしょうか。

 だから、マストロパオロス氏が黄泉の国から復活して起き上がり、あくびをしたときには驚きました。全ての生者を憎むゾンビに自分が無害であると知らせるために何個の単語を使うべきか、必死に考えていたら、

「ん、お客さんかい?」

 と、言ってきました。随分商売熱心なゾンビです。見た感じ、彼の顔は腐って紫に変じていません。ゾンビもゾンビになりたてなら、生きていたときの習慣が残っているのでしょうか?

「ボクが思うにマストロパオロス氏はゾンビじゃないと思うよ」

 ああ、そういうことですか。

「ゾンビ? ちゃんとカーペットを敷いて、顔にハンカチかけて寝てたじゃないか。ゾンビがカーペットの上に手をそろえて、横になるかい?」

 マストロパオロス氏は自身がゾンビではないことをきちんと筋道立てて説明しました。それに昨夜は徹夜同然にカーペットの受け取りをしていたとか。このころにはもう彼がゾンビであるという誤った認識はきれいに流されました。

「マスクをした陰気な顔の若者と潜水用の装備のままの女の子が絨毯を欲しがるとは思えないから、ほんとのとこの用件をきこうかな」

「話がはやくて助かるよ。フローレンス・アンシュターのことをききたいんだ」

「だれ?」

「1924年にあなたを美人局に引っかけて逮捕された女性だけど、覚えてない?」

「ああ、彼女ね。僕にはキャサリンって名乗ってたから、すぐに分からなかった。うん、彼女ね。正直、僕は彼女を訴えるつもりはなかったんだ。この街で長いこと絨毯を売っている。だから、いろいろなイベントが人生に用意されている。あの一夜は結構よかったし、元来、僕はセックスした女性全てがそれなりにいい人生を送れるように願ってもいる。たとえ、相手が美人局だとしてもね。美人局ってのは、同じ部屋でベッドに入った途端、亭主があらわれるもんだけど、キャサリンは――じゃなくて、フローレンス・アンシュター嬢はきちんと一発やらせてくれた。亭主が踏み込んだのはその後だ。煙草を一本味わう時間もくれた。彼女はフェアだった。いいことして、ひっかかった勉強料を払って終わり。そのはずだったんだけど、ずっと後になって、彼女が告訴されたことを知った。裁判所代わりの事務所に行って、別に恨んだことはないと告げたんだけど、僕の証言はあまり参考にならなかったようだ。それで彼女のことをどうしてききに来たんだい? それは教えてもらえるんだよね?」

「彼女が殺されて、こっちのヘンリー・ギフトレスが犯人扱い」

「殺された? どうして?」

「それは分からないけど、何かを隠し持っていて、それを犯人が捜している可能性が高いんだ」

「探し物のために女性を殺す? そりゃ、ボトル・シティじゃそんなことは珍しくないかもしれないけど、でも、そんな。そうだ、亭主は?」

「行方不明。ボクはもう死んでいると検討してる。あるいは亭主が犯人か」

 すると、絨毯商マストロパオロス氏は大粒の涙をポロポロと流し始めました。

「ああ、キャサリン――じゃなくて、フローレンス。やっぱり美人局なんかしていたら、こんなことになるんじゃないかと思ってたけど、そんな、ひどい」

「なにか彼女が殺される原因になりそうなことがなかったですか? あなたの事件のときに」

「さっきも言った通りだよ。彼女はフェアだった。ひどい。彼女はどうして殺されたんだい?」

「顔を二発撃たれて。その前に指を八本折られてる」

「ひどい」

 そのとき、柱のひとつのベルがジリリリンとうるさい音を立てました。一階に出荷用の自動車が来たようです。

「ああ、出荷か。その、どうだろう。僕はこれから仕事があるんだ。もっと詳しく話をしたいなら、この後でいいかな? 時間が経てば、なにか思い出せるかもしれないし、僕としても女性の顔に銃弾を二発撃ち込むようなやつは許せない。これはもちろんきみが犯人じゃないという前提の話だけど」

 わたしはうなずきました。

「じゃあ、夕方ごろに来てくれるかな。あまり参考になる話はできないかもしれないけど」

「とんでもない。ありがたいよ。じゃあ、また」

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