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わたしが解放されたころには午後四時半をまわっていました。所持品を返してもらうところでカプタロウも返してもらい、外に出ると、エレンハイム嬢とロレンゾが待っていました。ふたりが言うには、蟹男の討伐には成功したものの、水から上がったところでわたしが警察車両で連れ去らわれるところを見たとのこと。それでどうしたものかと考えるより先にプロの暗殺者として自分の侵入技術がどれだけのものか急に知りたくなったロレンゾは警察署に侵入して、指紋照合結果とそれに付随する女性に関するファイルを何とうまく盗んできたのです。兄のジーノは警察をコケにすることが何より好きであり、ジーノを喜ばせたいときはよくこんなふうに警察を出し抜いたので、今回もそれをやってみせたわけです。
警察署前という、警察から盗んだファイルを読む上で最も好ましくない場所から河岸を変えます。ロレンゾは請け負った仕事があるとのことで、途中、別行動となり、それにカプタロウもついていきます。わたしとエレンハイム嬢は旧市街のレストラン〈ルヴィエール〉に落ち着くことにしました。なんとなくエレガントな名前ですが、要はスープ屋で、その日の市場の売れ残りを全部鍋に入れて煮込む徹底したコストカットによる低料金が売りな店です。この日も酒代のために食費を圧縮したい労働者たちが集まっていました。わたしたちはスープを遠慮して、代用コーヒーを一杯頼み、今日、死体となった哀れな女性に関するファイルを紙ばさみから取り出しました。
女性の名前はフローレンス・アンシュター。
1894年4月3日生まれで、三十三歳でした。
生まれも育ちもボトル・シティで住所は旧市街のシェリダン通り二十八番地、三階のC。ここからあまり離れていません。
十本の指から採取した指紋の上に逮捕時の写真が貼りつけてありました。大きな目にふっくらした顔、小さなふっくらした唇で、繁盛している宿屋の女将を連想させます。
彼女の前科ですが、どちらも恐喝です。男性を誘惑し、性行為に及んだ後で、夫が登場し、お金を脅し取る。
「美人局ですね」
エレンハイム嬢はいいました。現在のエレンハイム嬢の一人称は『ボク』ではなく『わたし』のようです。ここ最近、エレンハイム嬢が『わたし』を使う基準が緩和されている気がします。
それは置いておいて、罪深きアンシュター嬢ですが、一回目の逮捕は1924年、こちらは罰金刑。二回目は1926年、こちらは禁錮三十日。その後、逮捕されたことはないようですが、水没により、ある種の軽犯罪に対する取り締まりが緩くなったせいでしょう。
ここで大切なのは美人局である彼女の夫です。
夫の名前はフランク・アンシュター。1890年生まれ。恐喝共犯として逮捕されているほか、賭博で三度も逮捕されたことがあるようです。おそらく賄賂を払っていない胴元のもとでサイコロをふったのでしょう。住所はアンシュター嬢と同じです。写真も添えられていて、〈要注意:ナイフ〉と書き込まれています。
「とりあえずここですね」
ロレンゾがこの書類を盗んだことで警察は死体の身元が分からず、アンシュター氏はまだ手つかずで残っているはずです。アンシュター氏は自分の妻が死んだことも知らないでしょう。彼が犯人だったら別ですが。
シェリダン通りには角灯が下がり、こんな時間でも人で混み合っています。酒場や料理屋が多く、そして、その奥でたいていカードかサイコロがふられています。また、昼ごろから新市街あたりに船を出した漁師たちの魚を売りさばく魚屋がこのあたりに何軒もあるので、深夜営業のレストランの調達係が多いのです。わたしも外食するときはここの店を使います。気難しいチェス愛好家なんかが集まるレストランがオススメです。給仕も含めて誰も話しかけてきません。注文もききに来ないので、どんな料理がやってくるのかはそのときにならないと分かりません。
アンシュター夫妻が住む二十八番地は三階建ての建物で、最初から漆喰を塗るつもりがなかったのか、醜い煉瓦と石材が剥き出しになっています。一階がレストラン、二階がビリヤード場、三階が住居として貸し出しているのでしょう。石炭殻がばら撒かれた歩道をざくざく歩き、階段室の入り口をくぐると、上の階から硬いものがコンコン当たる音がきこえてきます。ビリヤードのボールがぶつかり合う音かと思いましたが、もっと速いペースでコンコンと鳴っていて、三階まで行くと、それが太った老人がドアをしつこくノックする音だと知れました。しかも、そのドアにはCの真鍮プレート。
「やあ。どうかしたの?」
エレンハイム嬢が太った老人に話しかけます。老人は振り向きましたが、その声はもっと下のほうからきこえてきたことに思い当たり、背の小さなエレンハイム嬢へと視線を下げます。
いぶかし気な顔をしていて、どうしてエレンハイム嬢に自分の用事を話さないといけないのか、不満気にも見えます。しかし、まあ、相手のこたえを待たずともだいだいは分かります。指まで肉がついた太っちょの老人が美人局の家のドアをしつこくノックすることがあるとすれば、借金取りでしょう。あるいは大家。
「あんたら、なにもんだ?」
怪しいものではありませんが、エレンハイム嬢は足ヒレまでつけたままの潜水用装備です。疑うなというのが無理でしょう。しかし、さっきから老人のいぶかし気な視線がこちらに集中するのはなぜでしょう? まるで、エレンハイム嬢よりもわたしのほうが怪しいと言いたげな視線です。
「その家の、女性のほうを殺したと警察に疑われているんだ」
「は?」
「さっき言った通りさ。でも、やってないんだ。警察ってそうだよね。やってもいないことで人を犯罪者呼ばわりして。そういう経験ない?」
「女房を張り飛ばしたら、一週間ぶち込まれた。あいつの兄貴が速記係だったせいだ。あいつも、あいつの兄貴も、地獄で焼かれてりゃあいいんだ。……じゃあ、そうだな、アンシュターさんはもう二か月も家賃を払ってない。それをあんたが払ってくれれば、あんたはアンシュターさんから取り立てるって大義名分ができる。どうだね?」
蟹男の賞金のおかげでエレンハイム嬢の防水財布ではドルが呻りを上げていました。
大家が鍵を開けて、なかに入ると、家のなかはメチャクチャでした。
アンシュター夫妻に整理整頓や衛生観念が抜け落ちているか、あるいは誰かに家探しされたか。おそらく家探しでしょう。よく見ると、引き出しが全部引き出されていて、冷蔵庫は扉が開けっ放しで溶けた氷の水が頭を切ったスズキの上に滴っています。この家探しとフローレンス・アンシュターの指が八本折られていたということは真犯人には何か探し物があったということです。キッチンの缶詰瓶詰まで全部開けられて、高級なピーチが床にぶちまけられています。これは重要な手がかりです。このボトル・シティでピーチ以上に大事なもの、というと割と絞られていきます。人の命とか、心から信頼できる友人とか。それに札束、宝石、恐喝のネタ。なにせ美人局ですから、この家探しはフローレンス・アンシュターとの情事にまつわる記録のようなものを探しているということではないでしょうか?
「頼むから壁に穴なんか開いてないでくれよな」大家が嘆きます。
寝室ではベッドがひっくり返り、ここでもピーチの缶詰が開けられていました。どうも床につくった秘密の隠し場所にあったもののようです。ワケあってお金以外の形で流動資産を貯めておきたい場合、ピーチの缶詰は絶好の資産です。この缶詰が六個くらい無事であれば、大家に支払う家賃は賄えたことでしょう。
写真立てがいくつかマントルピースの横に固まって転がっています。おそらく腕か何かでマントルピースの上にあるものを薙ぎ払ったのでしょう。ひとつひとつ拾ってマントルピースにのせていきます。フランクとフローレンスのアンシュター夫妻がどこかの写真館で撮影したらしい写真、ふたりが自動車によりかかった写真、それに彼らの両親らしいフロックコートとドレスの男女の写真、フローレンス・アンシュターと顔つきが彼女に似た大男の写真(弟でしょうか。この男については警察ファイルに何かあるかもしれません)。
物騒なものもありました。ナイフのコレクションです。フランク・アンシュターについて〈要注意:ナイフ〉と書いてあったことを思い出します。サルベージするものに上質な刃物がいくつかあるので多少は詳しいつもりですが、ここにあるナイフはみな人を刺すためのナイフのようです。ただ、ロレンゾが体じゅうにつけているナイフとの違いは、あっちは何度も使われたことがあるのに対し、こっちはおそらく一度も使われたことがないことです。無駄な装飾が多いのです。こちらのナイフには。美人局でカモがお金を出し渋ったときに、このナイフのどれかを取り出し、その味が好きなのだとでも言うように刃をなめるのでしょう。ナイフ使いで自分がきれていることを示すためにナイフをなめる人をときどき見ますが、舌をうっかり切ってしまわないかと心配になります。
しばらく見て、分かったのは、犯人はここでお望みのものを発見しなかったということです。フローレンス・アンシュターがブツの隠し場所を白状したら、こんなふうに荒らさずに隠し場所をピンポイントに狙って、とっていくだけです。見つからなかったから、フローレンス・アンシュターを拷問し、撃ち殺したのでしょう。
とりあえず現在、わたしを警察のマークから外してくれる真犯人についての予想ですが、ふたりいます。ひとりは美人局の被害者が、自分とフローレンス・アンシュターの性行為の証拠を探して、家探しし、フローレンス・アンシュターを拷問し、殺した。その場合、フランク・アンシュターも殺害されている可能性が高いです。
次の犯人候補はフランク・アンシュターです。わたしは犯罪学の権威ではありませんが、この手の恐喝というのは仲間割れが多いのです。美人局などは体を張った女性側が分け前を多く要求して、男側がついカッとなって肉切り包丁で刺したというのをよくききます。フローレンス・アンシュターが美人局で得たお金をどこかに隠し、それをフランク・アンシュターが隠し場所を白状させようと拷問し殺した、というわけですが、この推理には穴があります。ピーチの缶詰です。お金が目当てならあれだけのピーチの缶詰の中身をぶちまける意味が分かりません。あれを全て売り払えば二百ドルはします。
でも、大丈夫です。フランク・アンシュター犯人説をまだ維持する推理があります。それは嫉妬の炎です。これまで美人局をしてきたフランク・アンシュターでしたが、フローレンス・アンシュターを自分ひとりのものにしたくて、美人局をやめると承諾するまで指を折って責め、結局、殺してしまったというわけです。では、なぜフランク・アンシュターは自分の家を家探ししたか? それも簡単です。フランク・アンシュターは真心を探しているのです。どこかにフローレンスが真心を落として、それを探して、家じゅうを引っ掻きまわしたわけです。これならピーチの缶詰を全て開けてなかをぶちまけたことにも納得がいきます。
「絶対、それはないです」
と、エレンハイム嬢がいいます。現在、夜の七時。視界は最悪で水中用のランタンがなかったら、何も見えないことでしょう。エレンハイム嬢はとりあえず今日の調査で分かったことと推理をまとめたいということで、わたしを潜りに誘いました。いえ、ほとんど強要で水に引きずり込まれました。
「こうしないと、ギフトレスさんはお話をしてくれません。それでさっきのダメダメ推理ですが――」
「わたしはこの推理が一番だと思いますが」
「本気でそう言ってるなら、ギフトレスさん、本当に終身刑になっちゃいますよ? わたしは美人局の被害者のほうがありそうだと思っています。明日はフランク・アンシュターについて、調べないといけないですね。仕事場。行きつけの店。それにふたりの美人局の被害者」
「あんまり年頃のお嬢さんが美人局、美人局というのは――」
「蟹男の右腕をウィンチで根元からぶっちぎりました」
「つまり?」
「いまさら、美人局なんて言葉ぐらいでどうこうなるようなかわいらしい感性がわたしにはありません。それとひとつ不思議に思ったのですけど」
「なんですか?」
「あのモーテルの部屋に入ったとき、死体に気づかなかったんですか?」
「ギャングのカーチェイスを見た直後でしたからね。わたしはとにかく外的刺激から逃げたくてしょうがなかったのです。そんなときのわたしの注意力のなさを馬鹿にしてもらっては困ります」
「それは自慢にならないような気がします」




