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わたしは魂まで捧げて、彼の演奏をききました。
ボビー・ハケットがあのクラブでしばらく演奏をするため、わたしは高飛びができなくなりました。しかし、毎晩、あの音色に出会えると分かれば、わたしの抱えたトラブルなどは些末なことです。ジェファーソン弁護士? 好きにしろ。ビリオネア・ジョー? 地獄に落ちろ。ギャヴィストン一家? 島ごと焼け死ねばいい。今のわたしは彼の音色のように無敵、とまではいかずとも、わたしの居間に三人の闖入者たちが目玉焼きを食べているのを見ても、好ましく思えるほどです。
あまりにも機嫌がいいので、ロレンゾに潜水技術を教えるという約束をしてしまいました。確かに夢のなかでそんな約束をしましたが、まさか夢の共有ができたわけではないでしょう。しかし、あの夢のなかで彼の演奏を間近にきけるのならば、潜水を教えると約束をしました。その結果、昨日、奇跡があったのです。もし、断ったら、ボビー・ハケットがこの街から出ていってしまう気がします。
わたしとエレンハイム嬢でロレンゾを工場地区のジギーの店に連れていき、潜水スーツやらエアタンクやらマスクやらを買い込み、水のなかでは呼吸を絶対に止めないという当たり前だけど大切なことを教え、まあ、後は習うより慣れろで街の北西にある観光地区まで行きます。ロレンゾが潜水をする上で大切なのは水のなかでの戦闘方法であって、これはわたしは門外漢です。観光地区では最近、蟹男の目撃情報があります。エレンハイム嬢が言うには自分の両手を機械工学的なやり方で巨大なハサミに改造した人物がいて、それが漁船ごと漁師を切ったという話です。しかし、漁師たちにとって頭にくるのは同業者をちょん切ったことではなく、彼らの仕掛け網を手当たり次第にズタズタにしていることです。
「そのせいで、イワシが入ってこない」
ポセイドン・サーディン工場の工場長はそう言いました。工場にはイワシの下処理を行うための作業テーブルが百二十ほど、それに缶詰封印機械がふたつ、ほったらかしになっています。本来なら、二十四時間ぶっ続けで、イワシの頭と尾を落とし、内臓を抜いて、煮て、下味をつけて、こってりとしたオイルと一緒に缶詰に閉じ込めるはずが操業が完全に停止して、毎日ただ維持費を生み続けているのです。
だから、蟹男の賞金は漁師たちが払うのではなく、全てポセイドン・サーディン工場が払います。漁師たちは別の海域でイワシを獲って、別の工場に降ろせばよいわけです。それにあまり大きな声では言えませんが、蟹男はもともとポセイドン・サーディンの主任技師でした。彼は二十年休まず働いても結婚できるだけの貯金ができないほど給料が安いことに気づいて絶望し、人間をやめ、蟹男になったのでした。
工場は一日操業しないだけでも数千ドルの損になっているのですから、蟹男との賃金交渉に臨めばいいのでは?と思いますが、工場長曰く漁師殺しや網のことがあるから蟹男を雇いなおせば、漁師たちと問題を抱えることになると言います。しかし、イワシ漁師たちもおそらく今度のことで別の工場にイワシを売っても、足元を見られているはずです。ポセイドン・サーディンの操業再開は彼らにとっても喜ばしいことですし、漁師が何人かちょん切られたことについては、漁師たち自身、ライバルが減ったとしか思っていません。他の街ではどうか知りませんが、ボトル・シティの漁師たちは同胞愛については、ひどくドライです。だから、切られた網さえ補償すれば、何もかも元通りです。
そこで、ふと、エレンハイム嬢は何かに気づいたようで、
「支配人さん。あなたの名前は?」
「ライモンドゥだが」
「現在の主任技師さんの名前は?」
「フィリップスだ」
「その人の母親の旧姓は? 嘘を言ったら、ボクらは手を引く」
「……ライモンドゥだが。それが何かね?」
ああ、なるほど。つまり、工場長は空いたポストに自分の甥を入れたのです。だから、蟹男と交渉ができないわけです。
工場長は賞金を三千ドルとしていましたが、このために二千ドルの口止め料を積み上げるハメになりました。オーナーはこの縁故採用のために工場が動けないことを知らないのでしょう。エレンハイム嬢曰く、企業の構造的問題点がそのまま彼女の所得増加につながるから賞金稼ぎをやめられないのだそうです。それは小悪魔の考えです。
工場を出ると、ぞくりとする潮風が吹きます。昨今、この世界でさわやかな潮風が吹く場所などあるとは思っていませんが、それにしては嫌な撫で方をする風です。観光地区はその昔、海沿いに遊園地やリゾートホテルが並んでいて、市の税収に大きく貢献していたのですが、水没と地盤沈下によって全て水中へと消え、現在は漁師たちのむさくるしいあばら家が並んだ寂しい地区になっています。西の海上を望めば、半分沈んだ遊覧船や観覧車のゴンドラ、ソーダ会社が出資していたソーダ壜型の展望台がかろうじて顔を出しているのが見えるでしょう。このあたりは水没が激しかったのです。
しかし、そうやって水深があるからこそ、イワシのような魚たちが大きな群れを形成できるのですし、海底にひっかける心配をせずに網を張れるのです。
さて、わたしはロレンゾに耳抜きの仕方を教えました。つまり、ロレンゾは潜水術の免許皆伝となったわけです。後はエレンハイム嬢とふたりで潜って、蟹男を成敗すればよいでしょう。わたしは行きたくありません。そんなことをするなら蟹に食われたほうがマシです。
ロレンゾはウェットスーツのあちこちにナイフを縛りつけました。水中銃を使うつもりはないようです。近距離戦闘特化型。いいのではないですか。わたしは彼の親ではないですし、ジーノ・フェリーから後見を頼まれた覚えもありません。彼が蟹男のハサミをかいくぐって、相手のエアホースを切り裂き、溺れ死にさせて、イワシ缶詰業界の救世主になりたいのであれば、それを止める道理はないのです。
ふたりもわたしが討伐行についてこないことは納得しているようです。潜る前にロレンゾはニシキゴイのカプタロウをわたしに預けました。蟹男との戦いでカプタロウが貢献できる確率は低く、それどころかカプタロウを守るために戦いに集中できなくなると考えたのでしょう。
武闘派潜水士ふたりが海に潜ると、間もなく、わたしとカプタロウのあいだでお互いの静寂をぶち壊さないという条約が結ばれ、道に落ちていた半パイント壜を締結の印としてかかとで踏み割りました。わたしはこの沈黙のコイを連れて、細長い廃墟のそばに座り、藻や木片や壊れた家具が浮いているのを眺めます。静かな時間はやはりいいものです。わたしの目の前にある道路は自動車道路で、水没前は海水浴場を目指す客で自動車が渋滞していたときいています。この道路沿いにはそうした自動車旅行の客を目当てに食堂付きの簡易宿屋が並んでいたようです。プレジャー・イン、カウフマンズ、マーシーズ・ホットグリル・イン。ボロボロになった看板とデコボコになった駐車場、嵐が吹き飛ばしたらしい浚渫機械の残骸や倒木がコテージに突き刺さっていて、宿泊に使えそうな部屋は皆無です。ここを再び観光地区として復活させるのには天文学的な数字のドルが必要でしょうし、蟹男も倒さないといけません。観光客がハサミでちょん切られたら、観光サービス業は致命的なダメージを負います。
わたしはぼんやりと雲を眺めました。青灰色の雲が隙間なく海の果てまで続いています。帆走式の漁船が南から北へと走っているのですが、潮の流れは北から南へです。雲は東から西へ流れてきます。こういう日は魚の群れは必ず西から東へ動きます。これはイワシからマグロまで必ずそうなのです。風や雲の動きが魚に影響するとは面白いものです。
こんなふうに静かに物思いにふけりながら、誰にも話しかけられる心配もなく、たたずむのはいいことです。ストレスでどろっとしていた血液がさらさらと流れる音がきこえます。二台の自動車が機関銃を乱射しながら道路を走らなければ、居眠りだってできたでしょう。四人乗りの黒い自動車がふたり乗りのクーペを追いかけ、それぞれが撃ち合い、クーペからガラスが割れる音がすると、そのまま右に曲がって――つまり、わたしのすぐそばを通り過ぎて――マーシーズ・ホットグリル・インの看板にぶつかりました。クラクションが鳴りっぱなしで、助手席の男は車を降りると、リヴォルヴァーを撃ちながら、わたしのそばを走って逃げ、アーリー通りの茂みへとダイブしました。自動車は機関銃を撃ちながら、それを追います。クーペは爆発して、看板に描かれていたグリル・ソーセージがメラメラと燃え出しました。
これだけ見れば、十分です。わたしは立ち上がり、マーシーズ・ホットグリル・インのコテージで比較的、建物としての体裁が整った部屋のドアを開けました。そして、ベッド・スプリングの上に置かれた枕の上に腰を下ろし、両手で耳を塞ぎ、目を閉じて、自分のなかに籠りました。今度、目を開けたときには世界の半分がさらに水没して人類の数も半分になり、無口の住みやすい世界に再編成されていることを願いましょう。
しばらくすると、わたしは何者かに肩を叩かれました。目を開けると、警察官が三人立っていました。誰も胸に数字を刻印したバッジをつけていて、警棒を手のひらに軽く打っています。看板に突っ込んで燃えているクーペについてきかれるのでしょうか。嫌です。しゃべりたくありません。ギャングたちが終身刑を何度も食らうことについて、別にどうでもいいのです。わたしは人と話したくないのです。
そのとき、セサール・ルシオ警部が入ってきました。浅黒い顔に大きな口ひげ、背の高い男で大きなリヴォルヴァーをガンベルトに二丁差していて、あとはソンブレロ・ハットをかぶっていれば、南の国の革命家に見えます。三人の制服警官の次に警部があらわれると、いったい何が起こるのか、若干不安になってきます。
「ヘンリー・ギフトレス。お前を殺人の容疑で逮捕する」
ルシオ警部がそう宣告されたときに気がつきました。モーテルの部屋の真ん中に、顔をハンカチがかけてある女性の死体が転がっていることに。




