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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 コールマンズ・クラブ、オールド・ジョイ、チッキーズ、それにただホテル(HOTEL)とだけ。歓楽街ではネオンサインを使って、空の虹を黒光りする水面に這いずりまわす無謀な試みがなされていました。ライトと音楽と歓声がごったがえす水路では船乗りたちが罵声を上げて殴り合い、泥酔した女たちが船底に寝そべったまま足をまっすぐ上に伸ばしてストッキングを脱ごうとし、オイル・サーディン工場の裏手にある売春宿では三百回地獄に落ちてもまだ償いきれない罪が犯されている真っ最中でした。明らかに十五歳を越えていない少年漁師がこの通りを童貞のまま通り抜けられるかどうかで賭けが開帳されていましたが、『通り抜けられない』に賭ける人間が多すぎて、賭けが成立しそうにありません(もちろん、どんな不利な賭けにも乗りたがる大穴狙いはいるのですが)。

 歓楽街の南地区にあるピケット通りは水没していて、自動車の車体とドラム缶でつくったモーターボートがごまんといて、身動きが取れずにいます。不吉でご機嫌な赤に塗った樽のブイのまわりに食堂、酒場、ナイトクラブ、狂ったように鳴らされるクラリネット、化学洗濯屋とパトロール警官、筏に乗った男が集まっていて、この混乱的状況は歯止めが利かなくなっています。窓から放り出された男が作る水柱や空へ向かって撃たれる銃も然り。

 罪深きギャングスターのジーノにはこうしたものはお馴染みのようです。エレンハイム嬢もお馴染みだと思わせようとしているようですが、薄暗いなかでも分かるほど顔が赤くなっているのが分かります。わたしはというと、ルディ・フランコにさんざん連れまわされた悪夢の夜を思い出し、もう二度と来るまいと思っていたのが、一か月と経たないうちに戻ってきたことに納得がいかず、ちょっとぷりぷりしていました。が、それ以上に娼婦たちがわたしを捕まえようとするのから逃れるのに忙しかったのです。ちょっと持ち上げた手をふって、お金がないことを表現しますが、出世払いも可能だと言ってきます。潜水士が出世すれば、潜水士長ということになるのでしょうか? 長ともなれば、部下ができ、部下ができたら、コミュニケーションを取らねばなりません。出世払いはなしです。ありえません。

 丸く盛り上がった橋を渡って、交差する水路の角にある雑貨屋へ。明りが白く点った店内。パイン材の棚にビスケットの紙箱とワイン壜が並び、売り場の隅に古雑誌の束が積み上がっているのですが、なぜかその上に、シャリッと音がしそうな新鮮なレタスがひとつ、置いてありました。希望のレタスです。わたしはあまり楽観的に物事を考えるようにできていません。だから、全世界はボトル・シティ同様、水でヒタヒタであり、空は常に雲で閉ざされている、そう考えています。しかし、いまわたしが見ているのはまことのレタスであり、こんなレタスは太陽の光でなければ育たないのです。まだ、世界のどこかで植物を青々と立派に育てさせられるほどの日光が差す土地があるのだという希望を抱いても、余人はヘンリー・ギフトレスを無邪気と馬鹿にはしないでしょう。もちろん、どこかの物好きで、かつお金が余ってしょうがない園芸家が気球の上に畑をつくったかもしれません。どちらにしろ、これは安く手に入るものではありません。

 この謎めいた怪しげな雑貨店のカウンターには何か怪しげな薬を服用したばかりらしい愛想のよすぎる女性が立っていました。

「ハーイ」

「ハイ」とジーノが返事をします。「ご機嫌だね」

「こんな素敵な夜だもんね。そりゃご機嫌にもなりたくなるでしょ?」

「おれたちもご機嫌になりたいんだけど――」

 すると、女性はカウンターの下から怪しげな薬の小瓶を取り出してきました。今日は世界女性薬物過剰摂取デーか何かでしょうか。

「いや、そうじゃないんだ」ジーノは警官隊に囲まれた銀行強盗みたいに手を挙げて、首をふります。「おくすりじゃなくて、ご機嫌なミュージックが欲しいんだ」

「これだって、スピリッツに二滴も入れてやれば、ご機嫌なサウンドがそりゃあもう、頭がおかしいんじゃないかってくらいに響いてきて、それが二日酔いの脳みそをメチャクチャに痛めつけて――」

「ジャズを聴きに来たんだ」

「ああ、そうなの?」

 女性は薬瓶をカウンターの下にしまおうとしましたが、ちょっと止まって考えて、蓋を開け、スポイトで中身を五滴ほど口のなかに垂らすと、女性の笑いが止まらなくなりました。

「天使が飛んでる。まだ蟹に食べられてない。スゴーイことよね。これって?」

 と、わたしにたずねてきます。もちろん、これは修辞疑問文であり、こたえる義務はありません。それに次の質問は漆喰が剥き出しの壁に対して向けられるのですが、彼女のその後の受け答えを見る限り、彼女は漆喰壁とのあいだに会話を成立させたようです。

 わたしは『お友達がたどる末路はこうだよ』の視線をさりげなくエレンハイム嬢に向けるとエレンハイム嬢はそれをかわして、カウンターの上の瓶からキャンディーをひとつ取り出して、壁と話している女性のそばに五セントを置きました。それで奥のドアの向こうへ行く権利が得られます。

 ドアの向こうは階段があって、階段をのぼった先には岩のような拳とピーナッツの頭脳を持った用心棒がいて、その向こうのドアはナイトクラブになっていました。様々な煙草が作り出す煙のせいでなかはちょっとしたボヤ騒ぎみたいになっています(エレンハイム嬢は呼吸マスクを装着しました)。やたらとアップテンポな曲が演奏され、男も女も発電機につながれたみたいに踊っています。窓は全てボール紙が目張りされています。警官に見つかったら賄賂を要求されるような非合法なクラブなのでしょう(とはいえ、合法なナイトクラブなんてきいたこともありません)。別にわたしはボトル・シティ市民が自身のお金をどんな形で消費しようが何も言うつもりはありません。ただ、わたし自身はこんな騒々しい場所にいるためにお金を使いたくありませんし、たとえ全てが奢りだとしても、ここにいたくありません。ナイトクラブの困ったところは踊るつもりのない人間が居所を見つけることがひどく難しいことです。わたしは既にジーノとエレンハイム嬢とはぐれてしまっています。踊らないのなら、壁際によればいいのでしょうが、すでに先客がいて、そして、踊らない人たちはなぜ踊りないかといえば、話したいことがあるからです。事実、わたしの横では酔っぱらった若者ふたりがバルーンヘッドという呼び名の人物がいかにうまいこと女性をものにしたかをずっと話し続けています。

「つまりよ、そいつはバルーンに首ったけなわけよ」

「ちくしょう。バルーンのやつ、うまくやりやがったな」

「その女はバルーンと会うとき、必ず店からちょろまかした葉巻を最低二本は持ってくるんだが、その葉巻ってのが一本ずつ青い防水紙で巻くような高級品だから、一本を吸って、もう一本をどこかの酒場で売れば、デート費用がまるっと浮くわけよ」

「ちくしょう。バルーンのやつ、うまくやりやがったな」

「お前も知っての通り、バルーンは倉庫を見つけたら押し入るの一手な強盗野郎だから、いずれ女に手引きさせて、その青い紙に巻いた葉巻を全部分捕っちまおうと考えてる。女はバルーンのポコチンを突っ込んでもらうためならなんだってしちまう。いや、もちろん、バルーンってやつはやる以外にも女を喜ばせる方法ってのを知ってる。女と会うときに花なんか渡しやがるんだぜ。あのバルーンヘッドがよ」

「ちくしょう。バルーンのやつ、うまくやりやがったな」

「バルーンはおれにもひと口乗らないかって言ってきてるんだよ。葉巻を一か所で処分したら足がつくかもしれないだろ? 高級銘柄が十ケース盗まれて、次の日、ビルの店で同じ銘柄が十ケース買い取られたら、あっという間にパクられちまう。だから、分散したり時期を遅らせたりするんだ。つまり、売り払う時期をな」

「ちくしょう。バルーンのやつ、うまくやりやがったな」

「本当だぜ。あの野郎。なんであんな御面相で女にもてるのか分からんが、とにかく、やっこさん、女をその気にさせるコツってのをしっかり心得てやがる。女は馬鹿なもんでよ、やつの強盗の片棒担ぎをさせられて、パクられるだろうが、口を割らねえんだ。なんのためだと思う? 全ては愛のためだってよ。笑わせんじゃねえよ、タコがって話だよな」

「ちくしょう。バルーンのやつ、うまくやりやがったな」

「ほーんとだぜ。じゃ、おれはちょっくら踊りに行ってくら」

「ちくしょう。バルーンのやつ、うまくやりやがったな」

 よく訓練された無口です。あらかじめ使える万能返答を用意して、そればかり唱え続けることで精神への負担を軽減しています。感服します。もっともわたしはそんな技が使えないくらい、人と話すのが怖いのですが。

 しばらく無口な壁のシミをしていたら、ダンスホールでイルミニウスを見つけました。司祭服のままです。パワー・オブ・ストッピング教会のお勤めもたまには休息が必要なのでしょうが、くるくるまわる彼のダンスの相手は人間ではなく、五十発入り円盤型弾倉をつけた機関銃です。どうして用心棒があんな大きな銃を取り上げなかったのか不思議ですが、自分の銃に触れようとした際にイルミニウスが取るであろう行動を予測すれば、いかに壁のように頑丈で大柄な用心棒でも手は出せないということでしょうか。確かにイルミニウスは宗教指導者ですが、それ以前に自身が優秀なガンマンであり、早撃ちの名手です。

 わたしは壁沿いにじりじりと移動し、ついに安息の地を見つけました。小さなテーブルがあったので、そこの席に着きました。そこには帽子もコートも着たままの男がひとりで座っています。浅黒い顔にセルロイドの丸縁眼鏡と、どこかの勤め人が場違いなクラブに足を踏み入れて、場所に困ったような気がしたのです。つまり、わたしとは利害の一致があります。彼はここで大人しくフライドチキンを食べていたい。わたしは誰にも話しかけられずに時間を潰したい。というわけです。それにこのテーブルにはふたつしか席がないので、誰かが新しくやってくる気遣いはありません。わたしの相方はとても大人しい人物で、チキンの骨をそこらに投げたりせず、きちんと紙ナプキンで包んで、籠のなかに戻します。

 とても礼儀正しく好感の持てる無口ですが、ジーノ・フェリーが背もたれのない椅子を手にどこからともなくあらわれて、わたしたちの聖域を侵し、さらに好感の持てる無口殿のことをクライフと呼び、ジェファーソン弁護士とビリオネア・ジョーとギャヴィストン一家が三つ倒れになれば、ずっと商売がしやすくなるという話をし出したあたりで、わたしはこの好感の持てる紳士が、このナイトクラブの持ち主であり、ギャングスターであることに気づきました。

「おれが考えて、ロレンゾが殺す。この勝利の方程式は完成まであと一歩なんだが、あいつら、どうもこの街で一番の殺し屋にそれぞれの抹殺を注文したって話だ」

 意外なことにジーノはわたしがその殺し屋として間違えられていることを知りませんでした。

 すると、クライフ氏がわたしを顎で指します。

「ホントか? そりゃすごいことになったな」

 ああ、なんてことをしてくれるのでしょうか。

「それなら、まあ、話ははやいのかな。分かってると思うけど、あいつらはあんたに敵を片づけさせたら、あんたまで消しちまうつもりだ」

「それも悪くない」

 わたしは精いっぱい、わたしの率直な感想を述べました。消えてしまう。いいではないですか。透明になれば、誰もわたしに話しかけたりしないし、殺し屋だなんて勘違いされません。ただひとつ疑問があるとすれば、透明になる場合、服も一緒に透明になってくれるのでしょうか?

 ひゅー、とジーノが口笛を吹きます。

「ロレンゾそっくりだなあ。その命を大切にしないとこなんかは」

 ああ、彼はあまり自分を大切にするタイプではないのですね。なんとなくそんな気はしました。兄のためなら人殺しもするのでしょうから、兄のために死ぬのはそう難しくないのでしょう。実際、そういうような説明をジーノはしています。

「ただ、あいつも、なんていうか、あの魚のことがあるから簡単には死ねなくなったわけだ。兄としてはまあ、そっちのほうがいい。里親がおれをぶつとき、いつも自分からぶたれにいったし、里親がおれを本当に殴り殺すんじゃないかって思ったとき、肉切り包丁でオヤジの喉を搔き切ってくれたのもあいつだ。あいつがおれのためにただ殺すんなら、おれはあいつのために生きれる場所を作りたい。それにはあの三人が邪魔だ」

 あ、分かりました。ジェファーソン弁護士、ビリオネア・ジョー、ギャヴィストン一家は殺人の外注をするのは今度が初めてではありません。ジーノの目に宿った暗い光を見れば分かります。ロレンゾはあの三人のために誰かを殺したことがあり、そして、あの三人に殺されかけたのです。

 と、なると、フェリー兄弟がここに来た理由が分かりました。ジーノはロレンゾを使い捨てにしようとしたお返しをしに来たのです。暗黒街の裏切りと報復の政治学です。

 いますぐ、ここから立ち去ることです。ヘンリー・ギフトレス。奢ると言っていましたが、やはりタダより高くつくものはありません。とりあえず、フェリー兄弟とこのクライフ氏があの三人を殺害するまで、どこかに身を隠しましょう。ミカ嬢のことは、あの三人がいなくなれば、何とかなるでしょう。わたしに何かできることはあるでしょうか、なんて考えたりはしないことです。できることなどないのです。だいたい、ここに連れてきたのだって、今思うと、このクライフ氏にわたしを会わせるための策略なような気がしました。

 わたしは立ち上がり、礼儀としてちょっと会釈すると、ダンスホールの真ん中を突っ切って(それが出口への最短距離でした)、家に帰ることにしました。めちゃくちゃなダンスをする男女を避けるのは至難の業です。マグロの群れに突っ込んだときに似ています。ぶつかったら即死です。

 しばらく避けにくいなあと苦心していましたが、そのうち、ダンスをする人たちが棒立ちになりました。動かないのは変だと思いましたが、それならこっちも逃げやすいので、このまま退散することにしました。エレンハイム嬢は――まあ、大丈夫でしょう。こういう場所に少女を置き去りにすることは誉められたものではありませんが、非常事態です。とにかく、家に帰ったら、着替えとパジャマと歯ブラシをトランクに入れて、どこか遠い場所へ逃げます。

 外に出るドアまであと少しというときでした。

 輝く音色が耳に飛び込んだのです。

 そんな音色でコルネットを吹ける人物はひとりだけです。

 わたしはステージのほうを向き、棒立ちする男女に加わりました。

 ステージでは彼――ボビー・ハケットがクラリネットとトロンボーンのアンサンブルを引きつれて『ビッグ・バター・アンド・エッグ・マン』を高らかに、輝かしく、優しく、無敵に演奏していました。

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