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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 自分の部屋に戻ると、ベッドに体を投げ出し、夕食をとりたくなるまで、昼寝することにしました。眠ることの何がいいかと言えば、誰ともしゃべらないことです。寝言というのもありますが、わたしが覚えていないおしゃべりは苦行にカウントしません。こうして、わたしは眠りにつくと、夢を見ました。夢のなかはぴかぴかに輝いていました。そこでは誰もがお互いを友人として肩を叩き合い、おいしいものを食べ、お酒を楽しみます。空は晴れていて、とにかく何もかもがおめでたくなっていました。白い柱の上には天使の格好をした少女たちが花をばらまいています。誰かが大笑いしても、それはちっとも場違いなこととは思えません。むしろ笑いこそ、この世界で唯一の感情でした。ですから、わたしも笑っていました。夢のなかのわたしはマスクをしておらず、天使の少女の柱廊を笑いながら歩き、左右の、これまで会ったことのない男たちと話をしていました。ただし、その言葉は何を言っているか分かりませんでしたが。

 道は古い闘牛場に繋がっていて、そこでは観客が楽器で演奏します。牛は聞き手です。金色のドレスを纏った少女たちが楽器を配っていて、わたしが渡されたのは小さな笛でした。磨いた真鍮の筒に吹き口と穴をひとつ開けただけの簡単な構造ですが、いくら吹いても何も音はしません。

「それは牛にだけきこえる笛です」

 少女が言いました。確かにわたしが笛を吹くと、寝そべっている牛が頭を持ち上げて、こちらを見ます。吹くのをやめると、また頭を下ろして、ぐったりと寝そべります。しばらくのあいだ、牛を起こしたり寝かしたりを続けていると、突然、〈音〉がきこえました。その〈音〉だけは音と区別されましたが、というのも、〈音〉はあまりにも輝いていて、それをきいてしまうと、自分の楽器から音を鳴らすことを忘れて、ききいってしまいます。〈音〉はコルネットから鳴っていて、わたしの席とは牛を挟んで真反対の位置にありました。彼に違いありません。こんなふうによく響きながらも、優し気な音色を輝かせることができるのは彼しかいないのです。わたしは牛にしかきこえない笛をポケットに入れると、太った男たちで塞がりがちな通路をあがくように通り抜けます。道のりの半分くらいまで来たときは、もう彼だけが演奏していました。みんなでデタラメに演奏していたときよりも、彼ひとりが演奏しているほうがずっと賑やかで、七色の紙吹雪のつむじ風がそれを後押しします。牛すらもきき惚れるその〈音〉に近づきたくて、わたしはますます焦ります。少なくとも『ビッグ・バター・アンド・エッグ・マン』が終わる前に、その横にいたい。間近でききたい。もし、それが叶ったら、知らない人と十分間ずっとお話してもいい――あ、でも、これが夢だと言うのが分かってきた気がしてきました。条件をもう少し下げましょう。ロレンゾと話します。十分間。彼なら、どうせあんまりしゃべりません。エレンハイム嬢より気が楽です。

 ああ、ソロが終わってしまう。はやく、はやく。もう、すぐそこです。〈音〉はなんてピカピカなのでしょう! くすんだ磨き傷や醜い青錆を知りません。無限に膨らみ続ける彼の頬から吹き込まれた空気がコルネットを通過すると、豊かな〈音〉になることは魔法以外にどんな説明ができるのでしょうか?

 あ! 風船にぶら下がるエレンハイム嬢がこの素晴らしい演奏をファンファーレ用のラッパで邪魔しようとしています。彼に歯向かうとは、さすがというべきでしょう。雑音を除去したいのですが、どうにも手段がありません。

「……使うか?」

 ロレンゾが一本、投げナイフをくれたので、それをエレンハイム嬢に投げつけます。うまい具合に彼女を風船からぶら下げるロープに当たって、エレンハイム嬢は〈追い出し穴〉の立札がある真四角の穴へと落ちていきました。

「ありがとうございます」

 そう言って、きちんと礼を言い、わたしは彼のそばに行こうとしているのですが、人混みが邪魔して、壁のようです。

「あっちに行きたいのか?」

「はい。どうしても行きたいのです」

「手伝ってやろう。だが、条件がある」

「分かりました。あなたとお話しましょう。九分間」

「さっきは十分間だったはずだ。それに、おれの出す条件はそこまで難しくない。潜水を教えてくれ。道具の選定から実際に潜るところまで」

「えーと」

「はやくしないと演奏が終わるぞ」

 仕方なくわたしは了承しました。すると、彼の体が青い影となり、気づくとわたしは彼の隣にちょこんと座っていました。ロレンゾは残像を引きながら、どこかに飛んでいってしまいましたが、どうでもよいことです。いま、わたしの横で彼――ボビー・ハケットが演奏しています。胸がいっぱいになります。なんて、素晴らしい〈音〉! もうすぐ『ビッグ・バター・アンド・エッグ・マン』が終わります。でも、悲しむことはありません。彼は次に『アット・ザ・ジャズバンド・ボール』を演奏してくれるでしょう。そして、最後は『ザッツ・ア・プレンティ』……

 ――目を覚ますと午後五時半でした。窓の外では、水たまりに映ったランタンが逆さまに見えます。早めに仕事を終わらせると、こういうふうに中途半端な時間寝てしまうことがありますが、夜に寝つけなくなるのが困りものです。規則正しい生活を送り、明日の潜水に備えるべきなのですが、しかし、休みたいとき、眠たいときに寝るのはやはりいい気分です。不本意ながら共有スペースになりつつある居間に出ると、今日のご飯はどうしようと考えます。アザラシ・ハンバーガーはお腹にたまっていません。わたしは結構、胃が強いので、こってりしたものを食べても疲れたりしません。それに潜水はいい運動になるので、食欲も湧きやすいのです。

 エレンハイム嬢もペタペタと足ヒレを鳴らしながら、部屋から出てきて、んあー、とあくびをしました。年頃の少女が誰かが見ているところで、大きく口を開けて、あくびをするあたり、彼女には淑女としての恥じらいとかが欠けているようです。

「いま、わたしに淑女としての恥じらいが欠けているって思いましたか?」

 思ってません!

「まあ、別にいいんですけど」

 ジーノ・フェリーが玄関から入ってきました。わたしはギャングについて詳しいわけではありませんが、ギャングは午後五時半に家(と彼が勝手に思っているもの)に戻ってきたりはしません。違法営業の酒場をハシゴして、賭博場でスッカラカンになり、売春婦と一緒に寝て、朝は二日酔いと横に知らない女性が眠っている。これがギャングの生態です。少なくともボトル・シティでは。

「よぉ! 潜水士さん!」

 チラッとエレンハイム嬢を見ます。ほら、呼ばれていますよ。

「あんただよ、ヘンリー! アッハッハ!」

 まあ、そんなことだろうと思っていました。

「ロレンゾが世話になったなあ」

 ギャングを自称する人間にこう言われたら、次に来るのは無慈悲な報復です。

「ニシキゴイだよ」

 ギャングを自称する人間にこう言われたら、ひとまず安心しましょう。

「ロレンゾのやつ、かなり喜んでるよ。あんなふうに無口で目つきがきつくて、ぶっきらぼうだけど、動物好きなんだ。それでお礼と言ってはなんだけど、おれが遊びに連れてってやるよ。もちろん、おれの奢りだ」

「奢り? ふうん?」

「お嬢さんも来るかい?」

「奢りときいたら、断る理由はない」

「じゃあ、みんなで行こう」

 お腹が痛くなってきました。彼は歓楽街に行くつもりのようです。

「……」

「ん? ああ、ロレンゾはいま誰か殺しに行ってる。あいつはもっぱら仕事は夜にやるんだ」

 また知りたくもない知識がひとつ増えてしまいました。

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