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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 あるわけがありませんでした。

 わたしはかなりはやく起きるために目覚まし時計をセットしていましたが、目を覚ましたのはやかましいベルの音ではなく、鼻腔をくすぐるいいにおいでした。

 何かが焼けているようですが、それにしてはいいにおいです。部屋の外に出て、キッチンを覗くと、フェリー兄弟のしゃべるほうがフライパンの半分で、マッシュルームと白いソーセージを焼いています。そして、残る半分では卵を焼いていて、両者がくっつかないよう器用にフライ返しを操っています。

「おはよう」

「……」

「ああ、しゃべれないんだったな」

 ジーノはソーセージを長いフォークで刺して、皿に乗せるとわたしのほうにずいっと寄せました。

「食べてみろ。うまいぞ」

 わたしを餌付けするつもりでしょうか。善良な潜水士を馬鹿にしてもらっては困ります。粗食に慣れ、身体をつくるのも潜水士の仕事のひとつです。ソーセージは非常においしくて、香辛料がきいていて、何より本物の豚でできていて、きっと高価な、一部の人しか利用できないような店で購入したに違いないのですが、わたしはそんなことで釣られる人間ではありません。ええ、そうです。

 ペタペタと足音がして、ふりむくと、エレンハイム嬢が自分の部屋からあらわれました。そして、キッチンで卵とソーセージを焼いているジーノとそばのわたしを見て、どうやら使用すべき一人称の選択に戸惑い、ちょっと小さく口を開けたまま、二秒ほど考えてから、

「おはよう。いいにおいだ。ボクもご相伴できるかい?」

 凛々しい剣士型のボクを採用したようです。

 闖入者から後期型闖入者がどう見えるのか興味があります。やはり、自分の縄張りを侵犯されたと思うのでしょうか。そもそもその縄張りとやらはもともとわたしのものであるという事実を忘れているのですが。

 この日はエレンハイム嬢のいう話したいことなるものを見に行くことになりました。新市街のほうに彼女の友人が隠れている。しかも、水中に。

 人と目を合わすことが怖く、隠者の生活に憧れるわたしが言うのは何なのですが、水中に空気部屋を使って、そこに住む人にはあまりいい思い出がありません。

「一度、大学地区のそばの水没地で嫌な部屋を見つけたことがあるのです。そこではマグロの胸びれでつくった手、アザラシの頭にサメの歯を埋め込み、巨大タラの脹れた腹にアホウドリの翼を縫合した薄気味悪い合成生物が作業用のテーブルの上に吊るしてありました。『内臓覚醒』と書かれたシールの貼ってある真鍮の注射器、血由来のものらしい赤錆がノコギリ刃に詰まった糸鋸、小さな緑色のシリンダーをつけた顕微鏡、海生哺乳類の体の部位を沈めてある薬液水槽、様々な大きさの赤い薬瓶、一本十五ドルはする螺旋ガラス管、様々な外科的処置の方法を殴り書きしたメモが散らばっていて、化学に関する論文集や水棲動物図鑑が本棚にぎっしり詰まっていました。ただ、その部屋にはあるべきものがありません。ここまでやってくるのに使う潜水具です。それに小さな暖炉があるのですが、薪が燃えています。そして、白いペンキが剥げかけたドアがひとつあります。間違いありません。このおぞましいクリーチャーを縫い合わせた狂人は隣の部屋にいるのです。わたしはその部屋を逃げました。願わくば、あの恐ろしい化け物が本当に意志をもって動き出したりしないように」

「ギフトレスさんは本当に潜っているあいだはおしゃべりになるのですね」

 これについてはわたしも不思議に思っていることです。水のなかのひとり言はあくまでひとり言であり、誰かがいるところでは話せないと思っていました。

 いま、わたしとエレンハイム嬢は新市街にある小さな劇場を目指して、水を蹴っていました。年間予約のボックス席はありますが、桟敷席はない古い劇場で水没前は市の重要文化財になっていました。そのあたりはドッグ・アスプという犬みたいな歯を持つコイ科の肉食魚がウロウロ泳いでいるところです。このドッグ・アスプはゲーム・フィッシングとして非常に人気があります。こうして潜っていると、釣り針を刺された小さなウグイを何匹も見つけます。異なる点はその釣り針が口に刺してあるか、背中に刺してあるかです。小魚を餌にするとき、針を背中に刺すか、口に刺すかの口論で釣り人たちが殺し合い一歩手前までいくことは珍しくありません。口に刺す派の言い分では口に刺しておけば針が外れることはないし、小魚がうまく泳げないので、それが弱っているように見えて、ドッグ・アスプの目につきやすいと言うのに対し、背中に刺す派はその弱った動きがまさに不自然に見えて、ドッグ・アスプに釣り針を見破られるが、背中に刺せば、泳ぎは自然なものになり、それに餌も長持ちすると主張します。釣り人たちは肝心のドッグ・アスプが餌に食いつく瞬間を見ることができないので、この論争は決着がつきませんが、わたしが見る限り、ドッグ・アスプは口に刺さっていようが、背中に刺さっていようが、目についたら弾丸みたいにすっ飛んでいって餌に食いつきます。ドッグ・アスプの辞書に慎重という言葉はありません。もともと魚雷みたいな形をした魚ですから、泳ぐ速度もはやい。そして、速く泳ぐ魚はだいたい四六時中お腹を空かせていますから、見つけた餌には速攻で食らいつきに行きます。そう、それがたとえ、ルアーだとしても。

 これは絶対に言えませんが、わたしが見る限り、ドッグ・アスプが一番食らいつく餌はルアーです。具体的に言うと、大きめのスプーンの柄をペンチで切って代わりに釣り針をつけたものです。見た目は魚ではありませんが、これがリールで引いていくとキラキラ輝くイワシに見えて、ドッグ・アスプの心をすっかり魅了してしまうのです。

 言うまでもないですが、餌で釣る人たちはルアー釣りをする人たちを人間と思っていません。それ以下の存在だと大きな声で断罪するとき、口に刺す派と背中に刺す派は一時的な停戦を結んで、ルアー派を攻撃します。ルアー派はそれに反論せず、大きなドッグ・アスプを一匹釣り上げることで餌釣り派の攻撃を一蹴します。

 エレンハイム嬢曰く、このドッグ・アスプはかわいそうな食性を持っていて、好物がカタクチイワシなのにドッグ・アスプ自身は川の魚ということです。汽水域まで出ることはできるようですが、カタクチイワシは基本的に海にしかいません。台風か何かの影響で大量の海水と一緒にボトル・シティに押し込まれない限り、ドッグ・アスプがカタクチイワシを味わえる日はないのです。

「だから、アンチョビが一番釣れます」

「ドッグ・アスプを釣るためにアンチョビの缶詰を開けるのは割に合いません。この魚は身がパサパサして小骨が多く、ダシもよろしくない。ブラックバスよりもおいしくない魚です」

「ギフトレスさんはゲーム・フィッシングはしないんですか?」

「スピアー・フィッシングだけですし、それも生きるためです。遊びでフィッシングする人びととは違うのです。まあ、わたしにはプライドがあるのです」

 ドッグ・アスプのなかには釣り上げられては水に戻されることが繰り返されることで人間への憎悪を増幅させたやつもいて、ときどき潜水士を疑惑の目で見てきます。つまり、こいつ、本当に魚なのか?というわけです。ウツボ男やタコ男と比べれば、危険度は少ないですが、こんなふうに三十匹くらいウジャウジャと泳いでいるときにわたしたちが人間であるとバレたら、大変愉快な目に遭わされることでしょう。ドッグ・アスプの天敵オオメジロザメの背ビレをつければ、安全なのですが、それをやると、狭い建物内で背ビレが引っかかってにっちもさっちもいかず、エアーが切れて、無事死亡。潜水士とは提示された選択肢からリスクを抽出し検討するものです。サメの背ビレはやめておきましょう。

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