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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 我が家のドアが狂ったように乱打されたのはわたしが寝付いてから一時間後の深夜十一時のことでした。

 油断していました。深夜に人類規模の愛について語りたがる馬鹿者の存在をすっかり忘れていました。エレンハイム嬢の居候が始まってから、馬鹿者たちがやってくることがなかったので、すっかり彼らはいないものと勝手に思っていました。

 わたしは着替え、マスクをして、このときのために置いてある決闘用の細い剣を抜きました。エレンハイム嬢はというと耳栓でもしているのか、ぐっすり寝ています。馬鹿者と対峙するにあたっては少しでも人手が欲しい――というか、敵体勢力と交わさねばならぬ会話を全部丸投げしたいので、エレンハイム嬢を起こそうと思いましたが、すぴーすぴー幸福そうに寝ている顔を見ると、善良な潜水士の紳士的な面が強調され始め、結局、起こすことはできず、馬鹿者にはひとりで対峙することとなります。

 しかし、これはただの見栄です。もし、この馬鹿者がただの愛の伝道師なら問題はないですが(問題がまったくないわけではないのですが、少なくとも解決法は知っています)、かつてのエレンハイム嬢のごとき、闖入者だったらどうでしょう?

 実際は闖入者どころか強行突入者でした。ドアを開けるなり、三メートル後ろの壁に押しつけられ、喉元にナイフが触れました。相手は黒いマスクで目から下を隠していて、その目は光がなく、陰鬱にわたしを見てきます。ああ、どうして善良な潜水士がこんな目にあわないといけないのだろうと思った後、三つの犯罪結社を梯子したことを思い出しました。このときばかりはエレンハイム嬢がいてくれればと切に思いました。彼女は腕っぷしが強いのです。それに対して、わたしはか弱い潜水士です。

 とりあえず、こちらに武力行使の意志がないことをあらわしましょう。そうしたら、もう少し扱いもマシになるというものです。そこでレイピアを静かに床に落とそうとすると、これまで触れたことのないグリップの後ろの小さな出っ張りに指が触れました。すると、そこが押し込まれてカチッと音がして、グリップの端から小さな火が点りました。

 拳銃型のライターというのはきいたことがありますし、サルベージして売ったこともありますが、レイピア型のライターというのは初めてです。極めて携行し難い代物で、どんなところで使うのでしょう? 

 強行突入者の目に初めての感情らしいものが見えました。驚きです。何を驚いているのだろうと思い、レイピア・ライターの火が彼の顎のすぐ下で点っているのに気づきました。レイピアの刃はずっと下を向いていたので、柄頭がずっと彼の首から顎のあたりを向いていたのです。

 ああ、気づきました。強行突入者はわたしが彼の顔を顎から焼いてやろうとしていると勘違いしたのです。そんな悪気のあることではなく、むしろ武装解除の途中で起きた些細な事故なのです。問題はこの誤解を解くにはかなりの言葉を費やさないといけないことです。勘弁してほしいです。悪徳弁護士と殺人ボクサーと頭のおかしい一族を相手にひどい目にあわされて、やっと一日が安らかに終わると思ったらこれです。

 寝起き早々にこうやって壁に押しつけられて、ナイフを首にあてられる状態をどうしたら解除できるのか、さっぱり分からない。誰かが勘違いをしたとき、その勘違いを事実にしてフォローするという高度な対人コミュニケーションテクニックをきいたことがあります。相手の勘違いをそのまま事実とするべき、つまり、ちょっと顎の先でもあぶってみるべきでしょうか? こういうとき、どうしたらいいのか書いてある本があったら読んでみたいものです。すると、パチパチパチと手を叩く音がしました。ドアの枠によりかかったハンサムな若者が手を叩いています。これまでの出来事に何か拍手されるようなことがあったでしょうか?

「ロレンゾのフェイントを無言で受けるだけでもすごいが、反撃する構えまで取るとはな」

 ああ、わかりました。わたしのライターはそういうふうに受け止められたわけです。つまり、そっちはナイフでこっちを殺そうとしているが、こっちもやろうと思えば、そっちの顔を火の海にできる、これでおあいこですよ、と。

 そんなことはないのです。これはただの勘違いです。これはアンドレアス伯父がどこかから買ってきたおみやげで、刃の先だって丸めて誰も怪我しないようになっているのです。

 ロレンゾという名の、黒装束をまとった東洋のニンジャみたいな青年がナイフをしまって、わたしから離れました。顔はマスクで隠れているので、死んだ魚のような目だけが顔の印象を司っています。表情が読みにくいです。というより、まったく読めません。わたしは他人の表情から機嫌を読むのはうまいほうです。そうやって表情を読み、こちらに話しかけてきそうになったら退散するのです。だいたい七割は当たります。もちろん、表情を見るどころか姿も見えぬうちにぶつかってきて、自分の配偶者がいかに情け容赦ない存在かをべらべらしゃべり散らかす人間もいますが。

 しかし、本当に考えていることが分かりづらいですね。まったく、どうしてそんな真っ黒なマスクをしているのでしょうか。こんな人間が身近にいた気がしますね。

 ハンサムな相棒らしいほうはギャングらしい中折れ帽やダブルブレストのチョッキといった伊達男ぶりですが、こちらは表情がそれなりに豊かです。こんな夜中になぜやってきたのか、このロレンゾとはどういう関係なのか、職業は何なのか、ちらちらジャケットのなかにあるのが見えるショルダーホルスターのリヴォルヴァーは何なのか。いろいろききたいことはありますが、まず最初にききたいのは彼の足元の大きなトランクです。ふたつあります。まるで、これからこの部屋に住むつもりみたいに見えます。

「ジーノ・フェリー。職業はギャングスターだ。そいつは弟のロレンゾ。職業は暗殺者」

 そう言って、ジーノ・フェリーは追撃騎士の紋章を打ちだした金属の書簡筒を取り出します。見覚えのある筒です。きっとアンドレアス伯父が署名した手紙が出てくるはずです。

 ジーノとロレンゾのフェリー兄弟が職業を明かしたのはアンドレアス伯父がこの手紙を持参したギャングスターと暗殺者にはこの部屋に住む権利があることを速やかに明らかにし、無駄な質問でわたしの会話苦行を増やさないようにしてくれた配慮なのかもしれませんが、それならいっそ、こんな手紙をそもそも持ち込まないところから配慮してほしいところです。エレンハイム嬢の件といい、レイピア型ライターといい、わたしのなかでアンドレアス伯父への尊敬ががりがりと彫刻刀で削るみたいに半減していることに何を思えばいいのでしょうか?

 ヘンリー・ギフトレスは義務を前に尻ごみする人間ではありませんが、目を見て話すことを前には尻尾を巻く人間です。フェリー兄弟は空いている部屋に入っていきます。すると、姿が見えなくなります。すると、先ほど見たのは何かの幻覚だったのではないかと思えてきます。すると、眠気がやってきました。そうです。これは夢です。寝てしまえば全ては消えてなくなります。もしかすると、この悪夢はエレンハイム嬢が闖入ペンギンとして踏み込んできた夜から続いているのかもしれません。そうです。ヘンリー・ギフトレス。寝てしまうのです。起きたら、またひとりで静かで安楽な生活が――。

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