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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと闖入ペンギン
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もともとボトル・シティは港湾都市であり、漁港でしたが、水没によって、もとから港だった場所は完全に沈みました。

 そのかわりにそばの、三日月型の丘が新しい港湾地区となり、魚なりお宝なり水死体なりはそこで水揚げされます。ただ、泥棒やブローカー、ギャングに密輸業者と厄介な人びとがうろついて、一日に二回は発砲沙汰があるような場所です。

 そうした大きな港のそばに歓楽街があり、そこは街で唯一ネオンがかかっている地区です。違法酒場スピークイージーや賭博場、アヘンを吸い込む粗末な地下室。善良な潜水士には関係のない場所ですが、ジャズをききたくなると他に行く場所がなく、どうしようもないのが困りものです。

 わたしが用があるのは、急ごしらえの桟橋がまばらにかかる、新港湾地区の北西の外れ、三日月の先端に船をつけます。外れ、とはいいますが、新港湾地区はボトル・シティで一番重要かつ賑やかな地区ですから、レストランや安ホテル、電気式街灯がまだ生きている明るい通りがあります。道路は水びたしですが、自動車もはまだ何とか走っています。もちろん魚屋も営業中です。

 わたしはこの三日月地区のアライアンス通りにあるアンクル・トッドの買い取り屋の桟橋に船をつけました。水から拾ったものなら何でも買い取る潜水士の強い味方です。

 水没が始まってから、様々なものの品質が落ちました。水没以前の時代の製品はかなり重宝されるのです。なにせ何年と水に沈んでいても品質が維持されているくらいです。昔の人はすごいのです。

 アンクル・トッドの店に入ると、そこは水没以前の文化にあふれています。

 大きな巻貝をラッパにした蓄音機。

 真鍮四枚羽の扇風機。

 七面鳥印のアヘンチンキ。

 ゴールデン・スター研磨洗剤一ダース。

 子熊のアルコール・ランプ。

 きれいに藻を落とした陶器の天使像。

 青銅の剣に似た棹秤さおばかりと分銅一式。

 赤いニスで仕上げた謎の木箱。

 鶏型の貯金箱。

 赤い銅のガス式温水タンク(同じものがわたしの家にもあります)。

 鵞ペン製作用のペンナイフ。

 念入りにブラシをかけた山高帽とフロックコート。

 サイザル麻の索具がひと巻き。

 青い石でつくられた万年筆。

 トランプの絵柄のスロットマシン。

 仕切りが十六あるライティング・ビューロー。

 梁からぶら下げたハーブの束。

 グラスに似た形の雪花石膏のランプ。

 特許出願申請中のグリュンワルド蓄電瓶。

 花と波型の象嵌を入れた水パイプ。

 魚釣りのリール。

 コイルを巻いた鉱石ラジオ。

 瑠璃を散りばめたボードゲーム盤(ルールは不明です)。

 黒メガネ。

 希少な苗を保管したガラスの保温箱。

 シンガー社の足踏みミシン。

 狩猟用ライフル(銃床に十三個の刻み目があります)。

 異国のコイン。

 三二口径の回転式拳銃リヴォルヴァー

 デコボコしたウィスキーボトル。

 黄楊の櫛。

 寸胴で焦げた鍋。

 豚の形をしたパテ用の入れ物。

 チョコレート・シロップの缶詰。

 そしてアンクル・トッドが最高級の額縁に入れて飾っている非売品――煙草のおまけでもらえる野球選手カード『ライアン・〈ザ・アイアン〉・ケリー』。

 わたしはいつも足ヒレを取り外さず、ペタペタ音をさせて入ります。ボトル・シティで足ヒレをつけたまま入店するのはわたしだけです。だから、アンクル・トッドは何も言わず、わたしを出迎えてくれます。

 何も言わず、手を伸ばすので、何も言わず、こちらもサルベージ品を渡し、しばらくアンクル・トッドが虫眼鏡でわたしの収穫物を観察し、二十六ドル五十セントを支払ってもらうわけです。

 アンクル・トッドはわたしが生活する上で関わらざるを得ない数少ない人物です。大きな肩をして、その肩以上に角ばった顎を持つ、この退役軍人は街が完全に水没するその日まで買っては売ってを繰り返して生きることを自分に納得させた、きわめて心のコントロールが上手な人です。

 口数は少ないですが、それなりに話せる相手とはなかなか愉快に話しています(わたしが観察したところ、アンクル・トッドと愉快に話せる人物は三人――弁護士のメツガー博士、道路掃除夫のオールドマン氏、そして近くの倉庫に住み着いたアンクル・オウル氏ですが、アンクル・オウル氏は黒いオーバーに古い従軍メダルをいくつも胸につけています)。

 アンクル・トッドはいつもわたしが着替える部屋を貸してくれるので、ここで足ヒレとゴムの潜水服とはお別れです。

 わたしの私服はフェンシングのユニフォームみたいな服ですが、寸法がぴったりで動きやすいですし、丈夫ですし、何より同じものが一度に七着も手に入ったので服を選ぶために頭を使わなくて済みます。今日は何を着ていこうか悩むことは人と話すのと同じくらいしんどいのです。

 ただ、マスクについては専門店が大学地区にあるので、そこで作ってもらっています。

 それは医療用マスクよりもしっかりぴったりとして、顔を隠すことで絶対にしゃべりたくないという意志表明ができるよう、縫い目ひとつひとつを仕立て屋が噛んで固めてくれたものです。ちょっとやそっとのことではずれたりせず、よほど強く下に引っぱらないと顔はあらわになりません。

 まさにマエストロの技で素晴らしいいマスクですが、このマスク職人はちょっと調子に乗るのが珠の疵で、マスク仕立て屋は大きな×をつけたらどうかと勧めてきました。

 ――もちろん、わたしは首をふりました。世間の笑いものになりたいわけではないのです。

 お金と丸めた潜水服を抱えて、桟橋へ出て、セルロイドの人形や死んだ魚の浮いた水へとボートを走らせると、浮いたり沈んだりしている壜を見つけました。

 わたしはため息をつきつつ、その壜を取り上げます。ボトル・シティの名前の由来はこれです。

 水没前から、この街には潮流の関係からコルクで封をしたメッセージ・ボトルがよく流れ着きました。遠い国からの文通相手を探すものもあれば、どこかの海洋研究所が海流を調べるために流したものもあり、流れ着いた場所と年月日を書いて、どこそこ研究所まで送ってくれたら金一封のお礼をしますというものまでいろいろあります。

 ただ、だいたいは悲壮な代物です。

 試しに拾って読んでみましょう。えーと、なになに――。

『もう限界だ。サメどもはこの大洋の小さな岩によじ登ったおれを食べる気でいる。もう、何週間もこうして磯にへばりついている。飲み水は雨が降ったときに口を開け、食べ物は人を疑うことを知らないカモメを叩き殺して、生のまま食べている。だが、もう我慢の限界だ。こんなの生きているとは言えない。この手紙を読んでくれている人へ。こちらは第三十九号水路のウェイルマン島からおそらく西へ五百キロの位置の岩場だ。ウェイルマン島にまだ人が住んでいれば、そして無線所がまだ生きていれば、そこにこの位置を打ち込んで、救助を送るよう要請してほしい。何とか一か月我慢する。それ以上は無理だ。おれは海へと飛び込んで、サメの餌になる。どうか頼む。1915年8月11日、オーネット・ダグラスバウアー』

 現在、1927年5月7日。オーネット・ダグラスバウアー氏はもうサメの胃袋のなかです。

 メッセージ・ボトルというのはこんなふうに気の滅入るものがほとんどです。

 他にはお金を貸してほしいとか、この瓶にウィスキーを入れて送り返してほしいとか。『すまないが、テーブルの端にある塩の瓶をとってくれないか?』という冗談なのか本気なのか分からないメッセージもあります。

 確かなことは市がこれらメッセージ・ボトルを公文書として収集管理し始めてから、もう三人の専属係官がピストル自殺しているということです。

 このようにボトル・シティは水没前から極めて縁起の悪い名前を冠していました。それを証拠に住民の集団発狂を指摘する向きもあるくらいです。しかし、水没前の発狂は水没後の本物の発狂に比べれば、精神安定の見本のようなものです。

 水没前の発狂でひとりでもイカ人間になってしまった人がいるでしょうか? あるいは両手がウツボになった人は? 発狂から怪物までは短い糸で結ばれていて、決して切れることはありません。

 しかし、発狂していないのに発狂したときのことをあれこれ考えてもいけません。

 とりあえず新港湾地区から東へと船を進めます。目指すは旧市街です。

 町は半ば沈んでいて、水には虹色の油膜が広がっています。

 石油まみれのペリカンが斜めに傾いた街灯のてっぺんに止まり、悲し気に口を開けているのですが、口のなかには金の指輪をした人の手が入っていました。

 誰かが銃で撃たれて手首がもげたのでしょう。

 このあたりのアパートは藻と苔に窓を塞がれているようですが、その緑の汚い幕の向こうに二連式のショットガンを手にした気難しい住人が隠れていることはみんなが知っています。

 水面近くの出入り口には『不法侵入者は殺す!』と書き殴られていますが、わたしは別に入りたいとも思いません。

 むしろ絶対に入りたくありません。ショットガンを手にした気難しい人間に自分を撃たないよう説得できる話術がないのはわたし自身が一番よく知っていますし、たとえわたしが話術の達人だとしても、絶対に会話なんかしたくありません。

 会話とは負担なのです。まずいことにショットガンを構えた人間というのは丸腰の人間に対して、とりあえず撃ち殺す前に一から十までしゃべらせようとします。まるで、やってもいないことまで懺悔させる聖職者のようです。

 だから、ヘンリー、不法侵入はだめだ。この世界を生きることはつらいことですが、わたしはまだ死ぬつもりはないのです。

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