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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 エレンハイム嬢にはあなたの兄は決してあなたに殺意を抱いていないと伝えないといけませんが、最後まで話を終えられるか分かりません。ただ、ジェファーソン弁護士の出現で話はしなければいけないのです。そして、どうしようと考えた後に弾き出したのが、一緒に潜るというものでした。

 一縷の望みに賭け、ジギーの店でマスクに通信装置を仕込んでもらい、ロンバルド通りから最も近く、深い水場にふたりで潜りました。

「きこえますか?」と、わたしの声が割れる泡のなかからきこえてきます。

「はい」

「よかった。どうやら話はできるようです。どうして、わざわざ潜らないと話せないのかは後で説明します。まず、大切なことから。あなたの兄で怪物化したフィリックスはあなたに殺意を抱いていません」

「なぜ、そう言い切れるのですか?」

 やはり来ました。なぜ?なぜ?どうして?

「あなたをさらったギャングたちの後ろ盾がフィリックスだと思っていましたが、本当は弁護士のロブ・ロイ・ジェファーソンでした。フィリックスは関係ありません。あなたをさらおうとしたことはないんです」

「でも――」

「ご両親のことは不幸なことでした。あなたが復讐をしたいというなら、わたしは止める権利はありません。ただ、分かったことだけはお伝えしないとと思ったのです」

「わかりました。次の質問です」

「なんですか?」

「ギフトレスさんは、水のなかでは多弁なんですか?」

「あまり話すことは得意ではありません。話すのはいつもひとりで潜っているときだけです」

「ひょっとすると、マスクをして、バスタブに頭を突っ込んでも、お話ができるかもしれません」

「あまり、いい方法とは思えませんね。とりあえず、あなたが仇と追う、あなたの兄の現状は先ほど説明した通りです」

「ありがとうございます。それと、その弁護士とのあいだに何か揉め事があるんですか?」

「ありますが、それはこちらで解決します。あなたはあなたのすべきことに集中してもらって大丈夫です」

 以上が、わたしとエレンハイム嬢とのあいだで交わされた水中会話です。もしかしたら、できるかもしれないと思っていましたが、できました。水から出た途端、反動が襲いかかって、精神的にメタメタになるかもしれないと思っていましたが、そうした副作用もありませんでした。ただ、少し心臓が早打ちしてきます。それに思い出すとだんだん恥ずかしくなってきます。たとえマスクのゴーグル越しでも人の目を見て話すのは怖いです。

 しかし、この街随一の権力者であるジェファーソン弁護士の勘違いによる脅迫殺人には困らせられます。どうやったら、これをかわせるのか、見当もつきません。

 おまけに悪いことは立て続けに起こるもので、アライアンス通りのアンクル・トッドの店に行く途中で大きな自動車がわたしの進行方向に割り込むようにブレーキをきかせて停車しました。エンジンが細長く、引き網漁船のようなタフな音がきこえます。運転手らしい黒人の男が窓ガラスを下げて言いました。

「後ろに乗りな」

 すごく乗りたくありません。こんなリムジンは真面目に生きていて買えるものではありません。悪事と呼ばれるものを毎日一ダースこなさないと手に入りません。しかも、つい先ほど、わたしは弁護士に人を殺せと言われたばかりです。わたしは灰色のもので暮らしていますが、コンクリート・シューズの灰色はごめん被りたいです。

 しかし、乗ってしまいました。ショルダーホルスターに入れた銃を見せながら「乗れ」と言われると断れません。

 わたしを乗せた自動車は新港湾地区をそのまま南へ走ります。三日月型の下の先端を目指しているようです。そこにある目立つ建物というと、黒人たちが仕切っている精肉市場があります。クジラやアザラシ、カモメなどの肉を売る場所で魚市場ほどではありませんが、それなりに重要な施設です。

「降りろ」

 そう言われて、市場の建物にあるアーチの門をくぐります。床は血でベトベトで、古い肉くずのにおいが残っていて、オエッとなります。

 肉屋はみな山高帽をかぶって白いエプロン姿で返り血を気にせず、中世の断頭斧みたいなものを振りまわして、ふっくらしたアザラシから白い脂と赤黒い肉の塊を切り出しています。イルカの肉もあばら骨がついたまま、どんどん鉤に吊るしていきます。他にはカモメの缶詰、アホウドリの缶詰。銛を何本も突き立てられて横たわるマッコウクジラを解体係がサーベルみたいな庖丁でバラバラにしている横では、わたしが今朝、アンクル・トッドの店に売った脳油をめぐって、激しい競りが行われています。

 お金儲けが絡むときはいつもそうですが、この競りも彼らにしか分からない言葉と仕草でどんどん進められていきます。世のなかのお金儲けというのは、なんと言葉を費やすものでしょう。わたしなら彼らの百万分の一の言葉さえしゃべることはできません。善良な潜水士は富から遠いところにいて、水のなかでぶくぶく二酸化炭素を吐き出しているあいだに、大儲けのチャンスはわたしを飛び越していくのです。

 しかし、しょげても仕方がありません。わたしはこの街で唯一の、いえ、唯ふたりの潜水士のひとりです。そして、もうひとりはサルベージに興味がないので、サルベージ産業はわたしの独占です。その割にはあまり儲かっていない気がしますが、結局お金ではないのです。職業意識の問題です。

 しかし、ジェファーソン弁護士に殺せと言われたボクサーがあらわれたときは、さすがに泣きたくなりました。素直に弁護士からもらった写真を渡しました。ロコモティブ・ジョーはそれを見て、裏を見て、鼻で笑いました。

「ロコモティブ・ジョーか。ジェファーソンのやつ、情報が古いな。今はビリオネア・ジョーだ」

 たしかに億万長者ビリオネアでした。十本の指にはダイヤモンドの指輪をはめていますが、その石の大きさは子どものおはじき遊びに使うくらいの大きさです。血なまぐさいハラワタに対抗する高級香水の香りがします。それに毛皮のコート。貂か何かでしょうが、銀色を帯びた滑らかで深い毛皮はこんな血肉が飛び散る市場で着ていたら、汚れてしまうのではないかとハラハラするものですが、ビリオネア・ジョーはそれを気にするふうもありません。きっと同じものがウォークインクローゼットに十着くらいあるのでしょう。

「稼いだそばから使っちまうんだ。いかした車、いかした服、いかした女」

 と、笑う口には金歯の列。現役ボクサー時代に歯を全部失ったそうです。

 横たわる肉と振り下ろされる庖丁のつくる路地を歩いていると、双子らしい老人の殺し屋が左右に立つドアの前に連れてこられました。なぜ、殺し屋と呼んだかというと、銛が装填された捕鯨ライフルボム・ランスを手にしているからです。善良な市民はクジラのいないところで捕鯨ライフルボム・ランスを構えたりしません。非常によく似た双子ですが、見分けるのは簡単です。片方は左耳から右耳まで喉を搔き切られた跡が残っています。

 これはいよいよのっぴきならないと思いつつ、ドアの先に通されると、そこは事務室でした。窓があって、そこからバラバラにされるクジラを見下ろせます。ビリオネア・ジョーは帽子を適当に放り、毛皮のまま椅子に座りました。

「ロブ・ロイ・ジェファーソンはおれを殺せばいくらくれるって言っていた?」

 わたしは首をふって否定しました。そんなことを引き受けた覚えはありません。顔の真ん中が陥没した死体になって、クレイズ・クロッシングに浮かぶのはごめんです。

「タダか? おれも見くびられたもんだな」

 それは事実ですが、伝えたかったのはそこではありません。不発のコミュニケーションはいつでも惨めなものです。

 みなが笑います。その事務所には妙に気取ったかぶり方の中折れ帽(黄色、紫、青)が三人いて、黄色の帽子は折り畳みナイフで爪の先をほじっていますし、三人ともウェストバンドに銃を差しています。

 コンクリートの靴を履くまであと一歩です。ボトル・シティの戸籍係が言うには行方不明の人間の死亡が認められるのは五年後ということです。だから、五年後に建てる墓石にはこう彫ってもらいましょう。


 ヘンリー・ギフトレス

 1916~1927+5

 噂が彼を殺した。恥じよ!


「ロブ・ロイ・ジェファーソンはおれの従弟をムショから救えなかったくせに法外な報酬を吹っかけてきやがった。同じ時期、ヴァンデクロフトのボンボンが十三歳のガキをレイプした裁判ばかりにかかりきりだったのにな。従弟がぶちこまれた牢屋は地下にあって、海水が染みてきてた。看守が言うにはポタポタ垂れてくる程度だったというが、次の日になると、ニガーのザワークラフトが出来上がってた。なあ、ミスター・グレイ。あんたは殺しに主義主張を挟むタイプじゃねえようだし、白人だろうが黒人だろうが、財布から出るドルはドルに変わりないこともわかってる。もし、ロブ・ロイ・ジェファーソンをぶよぶよの水死体にしてくれれば、五千ドル払う、と言いたいところだが、今すぐやつと抗争はできん。まだ二隻の捕鯨船が戻ってきていねえし、ショバ代を払わねえ賭場にお仕置きをしないといけねえ。ただ、知っておいてもらいたいのはおれはきちんと払うってことだ」

 奇遇ですね。わたしにもきちんと知ってもらいたいことがあります。わたしの名前はヘンリー・ギフトレスであって、ミスター・グレイではありません。そして、ヘンリー・ギフトレスは潜水士であって、殺し屋ではないのです!

 今日は何かの恨みでも買ったみたいに勘違いにいじめられる日です。この調子だと、そのうち悪徳警部が賄賂を払えと言ってくるかもしれません。しかし、人の命の相場というものはこれまで知らなかったのですが、五千ドルというのは何とも言えません。ウツボ男ピーター・ローデスにかかっていた賞金は十万ドルです。

 ただ、あれについては実際に支払われたのは百ドルでした。この算出方法を当てはめれば、五千ドルは五ドルということになります。五ドル稼ぐなら、シルバーヘイクをせっせと捕まえるほうがずっと割にあいます。これ以上、値下げのしようがありませんので。

 とりあえず、顔の真ん中がへこむほどのパンチを受ける心配はないようです。ジェファーソン弁護士の死体に五千ドルという話もいますぐというわけではないので、ヘンリー・ギフトレスの善良な市民生活がこれ以上、危機に瀕することはないでしょう。

「そこでなんだがな、代わりに死んでもらいたいやつがいる」

 ともに手をつなぎ、仲良く生きていく選択肢はないのでしょうか?

「ギャヴィストンのクズども。ひとりにつき、百ドル払う。ジジイを沈めたら、一万ドルだ」

 ああ、なるほど。ギャヴィストンですか。

 有名です。百年以上前、ボトル・シティがまだ更地だったころ、このあたりの土地は全てギャヴィストンという地主一族の綿花畑だったそうです。その土地には何千人という黒人が奴隷として農園で働いていたのですが、なにか政府が奴隷解放令を出すと、ギャヴィストン一族は反乱を起こし、負けてしまい、奴隷と土地のほとんどを失って、いまはボロボロの屋敷に一族が寄り集まって、暴力沙汰と酒の密造とアリゲーターの飼育、そして政府と名のつくもの全てへの反抗を繰り返しているという話です。

 これは又聞きなので、本当か分かりませんが、「ギャヴィストンは発狂しない。もう狂ってるから! ギャヴィストンは怪物にはならない。もう怪物だから!」とギャグを飛ばしたコメディアンが彼らに捕まって、アリゲーターに食べられたという蟹に食べられたほうがマシなエピソードがあります。善良な潜水士は絶対に関わり合いになりたくないですし、死んだアンドレアス伯父からも絶対にギャヴィストンとはもめるなと言われています。伯父の言葉をそのまま使うと『スゲーヒデー目にあう』かららしいです。

 ただ、困ったことに彼らの屋敷のあるあたりの土地は水に沈むかわりに浮かんでしまっていて、その浮島が新市街か要塞地区にときどき姿を現すのです。はっきり言って、ジェファーソン弁護士の蒸気船と同じくらい厄介です。いえ、アリゲーターを飼っている時点で、弁護士以上にひどい。これは考えものです。

 なぜ、ビリオネア・ジョーがギャヴィストンを沈めてほしいのかは簡単で彼が黒人だからです。ギャヴィストン一家が黒人を憎むようにビリオネア・ジョーもまたギャヴィストン一家を憎むのです。ビリオネア・ジョーがジジイを沈めたら一万ドルと言っていましたが、このジジイとはギャヴィストン一家の当主ダディ・ギャヴィストンのことでしょう。

 この調子だと次はギャヴィストン一家に捕まって、ジェファーソン弁護士の殺害を依頼されるでしょう。こんな目に遭うなら、蟹に食べられたほうがマシです。

 とりあえず、首をふって、否定の意思を示しましょう。ボトル・シティの憎悪の連環を断ち切るためにはどこかで楔を打つべきなのです。

 そうやって首をふったら、三人の中折れ帽のうち、黄色い帽子が唾を吐き、爪をいじっていたナイフで、わたしのマスクを止めている編み紐をさっと切ってしまいました。驚きです。マスクが落ちてしまい、あ、と言ってしまいました。ちょっと頬を触ってみますが、切れていません。ぴったり肌にくっついていた編み紐だけを切るとはこの黄色、相当な腕前のナイフ使いです。じゃあ、彼がジェファーソン弁護士とギャヴィストン一家に対処すればいいのでは? と、思っていると、黄色がわたしに話しかけます。

「おい、てめえ。このサカナ野郎。ジョーがやれって言ってんだぞ? 黙って、やればいいんだよ!」

 サカナ野郎なんて呼び方をきくのは初めてですが、それよりもなによりも、マスクが外れた状態でこんな高圧的な言葉を言われてしまうと、わたしはすっかり萎縮してしまいます。目を合わせられません。人と話すのが怖いです。こんなわたしに人を殺せ、溺れさせろとはいったい何を考えているのでしょう。

 とにかく、まずは平常の状態を取り戻すことです。こんなことがあるかと思って、内ポケットに予備のマスクがあります。これを口に当てて、頭の後ろにも布地をまわして、左頬のところで編み上げてしっかり固定します。ほら、元通り。文明的な話し合いをする余裕が生まれます。実際、話すつもりはありませんが。

「やめろ、ジョニー」と、ビリオネア・ジョーが黄色に言います。「街で最高クラスの殺し屋だぞ。敬意を払え」

「でも、ジョー」

「でも、も、だって、もなしだ」

「わかったよ、ジョー。でもよ、ギャヴィストンなんて片づけるのはおれでも――」

「もういい、ジョニー。頭が痛くなってきた。お前ときたら、癌が相手でも遠慮しねえんだろうな」

 黄色はしぶしぶナイフを畳んで、胸のポケットに入れます。

 ビリオネア・ジョーはわたしに百万ドルのゴールデン・スマイルで、まあ、考えておいてくれ、と笑いかけ、肩をポンと叩きました。ビリオネア・ジョーはなかなか紳士です。ジェファーソン弁護士、ギャヴィストン一家と比べると、船を本拠地にしていないので、わたしの仕事場と重なることもないですし、わたしに人殺しを強制しません。いまのところ、わたしの印象は一番です。本当に彼はジェファーソン弁護士のメッセンジャーを顔が陥没するほど殴りつけて、クレイズ・クロッシングに捨てたのでしょうか? 何かの間違いかもしれません。

 わたしが外に出ると、双子の殺し屋がオホンと咳をします。まず、右が、次に左。左の殺し屋の横には事務所のなかが見える窓があるのですが、その窓に、赤い点々が飛び散りました。え? なんですか? これ、血ですか? ――いえ、違います。血ではありません。正確には髪付きの血まみれの皮膚片です。ビリオネア・ジョーがダイヤモンドの指輪をブラスナックルの代わりにして、あの黄色をボコボコにしているのです。最初の一撃で黄色は壁際まで吹っ飛び、ひっくり返っているのですが、ビリオネア・ジョーはさらに馬乗りになって、毛皮のコートに返り血と肉片と骨片が飛散するのも構わず、素早く重いパンチを浴びせ続けています。倒れた黄色の顔の真ん中は目と鼻と前歯がなくなって、煮詰めたイチゴジャムのようなものがドロッと溜まっています。

 とりあえず、精肉市場から大急ぎで逃げます。ビリオネア・ジョーが一番紳士的という見通しには若干の修正が必要です。いえ、相当な修正です。間違いありません。わたしが彼に否と言えば、わたしの顔には機関車が通れるほどの大きな穴が開くことでしょう。ああ。だから、機関車ロコモティブジョーなんですね。こうなると、ダイヤモンドが世界で最も固い物質であることが恨まれます。もう、このまま水に潜りたいですが、それをすると、わたしの厄ダネたちは自分たちの仕事にかかるものだと勝手に勘違いされるでしょう。これではおちおち仕事もできません。

 とりあえず、家に帰ります。もちろん、ギャヴィストン一家がやってくるでしょう。今日はもう、そういう日なのです。

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