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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 とてもとても嫌と言いたかったのですが、嫌と言わせない雰囲気がありました。ボートを走らせて逃げても、外輪で踏みつぶされるのがオチです。善良な潜水士ヘンリー・ギフトレスは仕方なくついていきます。

 タラップを上がってみると、木材は全てマホガニーで、金属は全て磨き上げた真鍮でした。通路も甲板も、屋根の下のダンス用の嵌め木板の床もです。気が遠くなるような金額を費やした、水没世界で最も高価と思われる船をわたしは案内役のコウモリ傘の男に連れられて、船の内部に行くと、身分のある人が一度に五十人ほど食事をとれる細長い大広間があって、シャンデリアが三メートルおきにぶらさがっています。

 コウモリ傘の男は途中で、金箔で蔓草と花の絡み合う模様を描いたドアを指差しました。トイレでしょうか?

「そこで着替えたまえ」

 そこは更衣室でした。大きな鏡と石鹸、温水が出る蛇口があり、わたしが着ている灰色の服とマスクが置いてあります(その日の終わりに、わたしは家にて、服が何着あるか調べました。一着も欠けていませんでした。彼らはわざわざわたしの服を自分たちでも仕立てて用意させたのです)。

 着替えるとコウモリ傘の男はもうコウモリ傘を持っていませんでした。小柄ですが、人に仕え慣れている雰囲気と抑制された品の良さが高価なスーツにしっくりきていて、小さな顔には気持ちがよいくらい目鼻口のパーツがちょうどいい位置に配されています。

 最後に通されたのは艫にある小さな食堂でした。船尾の半円形をかたどったテーブルの向こうに、この船の主にして、わたしに会いたいという人物が座っていました。

「わしを知っているか?」

 わたしは首を振りました。ただでさえ、狭いわたしの交友関係のなかで、こんな大きな船を持てる知り合いがいれば、すぐ思い出せるでしょう。

「ロブ・ロイ・ジェファーソンだ」ジェファーソン氏はわたしの目をじっと見て、じっと見て、じっと見て、わたしは気まずくなって目をそらせようとしたとき、相手が瞬きをしました。そして、つけ加えます。「弁護士の」

 弁護士。ふむ。裁判所が海の底に沈んでも、弁護士という職業はなくなりません。

 ジェファーソン弁護士は缶詰から木のへらでキャビアをすくいとり、クラッカーに乗せて食べています。キャビアを食べる人はどうしてみなおいしそうに食べないのでしょうか? たとえ裁判所が沈んでも、弁護士はお金持ちなのでしょう。わたしにキャビアを勧めてきましたが、わたしは遠慮しました。マスクを取りたくないですし、黒の粒々というのはあまりおいしそうに思えません。結局、キャビアを食べるのは、自身の富を誇る以上の理由がないようです。ただ、本物のコーヒーを勧められたときは本気で迷いましたが。

 ジェファーソン弁護士はわたしに話があるはずですが、それを話し始める様子は見えません。わたしは彼が何も言わないあいだ、彼を観察してみることにしました。顎の下肉が丸くたるんでいて、ポマードでぺったり貼りつけた少なめの黒い髪、白い口髭の先がくるりと曲刀型に反っています。いわゆる皇帝カイゼル髭です。非常に良い仕立ての背広を着ていて、コウモリ傘の男は弁護士が着ている服のおさがりをもらっているようです。ただ、ジェファーソン弁護士は中背で太っているから、ズボンを詰め、袖を詰め、首まわりを詰めないといけないでしょう。太っていて、カイゼル髭が似合う初老の人物は医者か政治家か弁護士になるしかありません。ジェファーソン弁護士を見ていると、この人は生まれたときから太っていて、カイゼル髭で、ポマードで頭をベトベトにしていたのでは?と思えてしまうものです。産着は染めたての黒染料と樟脳のにおいがするフロックコートといったところ。

「ミリオネア・チャーリーを殺したんだったな」

 それは違います。殺したのはタコの怪物と化したフィリックス・エレンハイムです。あの騒ぎではわたしは誰も殺害していません。それどころか溺死しかけたエレンハイム嬢を助けたくらいです。

「否定しても無駄だ。手口がお前以外、考えられない」

 ああ、あの水に引きずり込んで殺すという戯言ですか。どうも、あの嘘はボトル・シティの根深いところにしがみつき、引っこ抜かれることを拒んでいるようです。

 ジェファーソン弁護士は写真を一枚、テーブルに置いて、わたしのほうへ滑らせました。純白のテーブルクロスからは澄み切った火花が弾けたかと思われるような音がします。

「わしの商売は人と法とのあいだで発生し得る最高の利潤を提供することだ」弁護士はキャビアを乗せたクラッカーを瓶入りの水で胃袋に流し込んでいます。「密造酒をつくるものもいれば、喧嘩が好きなものもいる。密漁や違法な手数料。そうしたものと法とのあいだに発生する問題を解決し、依頼人の利益を守りながら、法律の体面も保つ。そこに最高の利潤がある。わしは水没が起きる前から、その利潤を目指して生きてきた。だが、その男は――」

 と、わたしのほうにまわした写真を見るよう、指で差しました。

 黒人がボクシングをしているところをリングサイドから撮った写真でした。かなり背の高い男でしたが、その相手は白人で、もっと大柄で腕も太いです。ところが黒人はその男をコーナーに追い込んで、めちゃくちゃに殴りつけています。何という名前でしょう?

「名前は写真の後ろに書いてある」

 何も言っていないのに意思の疎通ができるのは素晴らしいことです。写真の後ろには紫色の化学鉛筆で『ジョセフ・〈ロコモティブ・ジョー〉・バーク』と殴り書きされています。機関車ロコモティブジョー。水中を走る機関車が発明されたという話はきかないので、善良な潜水士には関係のない話です。

「そいつを始末してほしい」

 ですから、善良な潜水士には関係がないのです!

「そいつは法に敬意を表さない。馬鹿は好きなだけ暴れて、それで払うものは何ひとつないと本気で信じている。ボクサー崩れの困ったところだ。こっちは分かりやすくメッセージを送ったが、次の日にはメッセンジャーの死体がクレイズ・クロッシングで浮いているのが見つかった。顔はプラムみたいに脹れていて、鼻の骨は陥没していた」

「……なぜ、わたしが?」

 なんとかこれだけ言えました。なぜ?なぜ?どうして?

「ミリオネア・チャーリーを殺したことを不問にしてやる」

 ああ、分かりました。彼が後ろ盾と言っていたのは、フィリックスではなく、ジェファーソン弁護士だったわけです。すると、ひとつの疑問とひとつのこたえが生まれます。ひとつの疑問はなぜ、このジェファーソン弁護士はエレンハイム嬢を狙ってさらわせたのでしょう?

 次にひとつのこたえですが、フィリックスは妹であるエレンハイム嬢を殺そうと思ったことはありません。絶対に。むしろ、さらわれた妹を救おうと奮闘していたのです。ただ、両親を食べてしまったときは怪物に思考を乗っ取られていたのでしょう。誰も救われない話です。

 さて、ここでわたしは機関車さんを暗殺することを拒否しないといけません。そんなことできるわけはありませんし、できてもいたしません。わたしは潜水士なのです。

 ただ、弁護士はこの暗殺司令が一種のペナルティだと思っているらしく、ここではっきりノーと言えば、わたしの身がどうなるか分かりません。彼のおかげでリンチや牢屋暮らしを免れたギャングたちは許可が出れば、わたしをズタズタにしてしまうでしょう。

 ここはイエスともノーともとれない曖昧な態度で、この場を去ってしまうことです。一回五ドルで人の手足の骨を折る乱暴者も、人の足元に弾を撃って踊らせる冷酷非道な拳銃使いも、わたしは会いたくないです。はやく、アンクル・トッドの店にいき、電信キーとマッコウクジラの脳油を売り渡したいのです。

 わたしは立ち上がり、その場を後にしました。コウモリ傘の男がわたしを案内してくれます。ボートに戻ると、いきなり蒸気船は外輪をまわして、わたしをボートごと粉々にしようとしました。

 わたしのボートが破壊されることと法のあいだにどんな利潤があるのか、考えただけでうんざりします。

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