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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと色彩の女神
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 しばらく、わたしもエレンハイム嬢も別々に潜りました。エレンハイム嬢への敵対心がなくなったので、わたしも空気タンクをダブルにして、潜水時間が二倍になり、より入念な探索ができるようにもなりました。ひとり言はいつもの通りですが、仕事中のひとり言は大して珍しくないでしょう。わたしはフッド通りのレストランでフライパンの玉ねぎ相手に『このままだんまりを続けるなら飴色になるまで炒めてやる』と脅し文句を並べているコックを見たことがあります。ひとり言は仕事の効率を上げるのです。

 今日は大学地区の南を潜っています。全長三十センチくらいのシルバーヘイクが群れをつくってロータリーとバス停のある交差点をぐるぐると回遊していて、流れ込む水のなかにうっかり混じってしまった小エビや群れからはぐれたカタクチイワシに容赦なく襲いかかっています。タラ科の魚全般に言えることですが、このシルバーヘイクもとにかく何でも食べる魚で、ほっそりとした体がまるく脹れるくらい食べます。割れたレコードや丸まった洗剤の泡にすら襲いかかる彼らですが、一番の好物が自分たちの産んだ子どもということで親子の情も何もあったものではありません。食べても食べてもほっそりとしていて銀色がきれいなので、ダイエットにいそしむ女性たちがこのシルバーヘイクを神格化しているときいたことがあります。しかし、シルバーヘイク自体は非常に栄養価が高い上に食べ方もフライが主なので、食べすぎると容赦なく太ります。人間の食と容姿にまつわる諸問題はいつだって非情です。

 シルバーヘイクの相場は一キロ当たりが二十セントですので、一匹ずつ漁獲する潜水士の獲物としてはあまり旨みがありません。群れごとごっそり持っていく引き網漁師向けの魚です。この魚は本当にたくさん獲れます。空気から湧いてくるのではないかと思われるくらいたくさん獲れる魚なので、ニシンダマシと並んで安価なタンパク源であり『蟹ビール片手にモルトビネガーをひたひたになるまでかけて食べたいフライランキング』一位の魚として、ボトル・シティの住人の食生活を根底から支えてくれています。貝も獲れないほどの不漁の日でも、このシルバーヘイクだけは必ず店頭に並んでいるのです。

 さらにシルバーヘイクは雇用も生み出します。頭と内臓と骨を取り除いたフィレ状態ならキロ当たり四十五セントに値上がりするからです。二倍以上です。そのようなわけで水産加工場は万年人手不足で求人票が途絶えたことがありません。船を失った漁師や夫を失った未亡人、そもそも両親含めて失うものがあった試しがなかった天涯孤独の八歳の子どもが週に八ドル稼げるわけです。

 善良な潜水士はサルベージしたものをそっと市場経済に流して、コミュニティに多大な貢献をしていますが、シルバーヘイクにはかないません。もし、シルバーヘイクがまったく獲れなくなったら、それはボトル・シティに飢餓と失業の時代がやってくるということです。それは自分以外の人間全員が歩くハムにしか見えない暗黒の時代です。

 マクドゥガル雑貨店の前に橋の脚らしい木の棒が何本も刺してあり、釣り針に刺さった貝がひょこひょこ上下しています。このあたりの建物は三階から上が水面より突き出ていて、それぞれの建物を果樹材でつくった狭い橋がつないでいます。この橋の脚に固い牡蠣みたいな貝がへばりついていて、その貝を食べようとして、クロダイが寄ってきます。釣り竿を買うお金のない人びと、あるいはそこまで釣りにのめり込むつもりのない人びとが釣り針に殻付きの貝を刺して、橋から真下に垂らします。一時間も粘れば、その日の夕ご飯が手に入るわけです。

 潜水士というのは選ばれし職業であり、釣り人たちが魚のいないところに糸を垂らすのを見ることに黒い快感を覚えずにはいられません。

 彼ら釣り人たちは自分の釣り針に刺した貝がいかにもおいしくて活きがいいようにアピールしますが、肝心のクロダイが一匹もいないのでは無駄な努力です。

 釣り人のなかには一度場所を決めたらテコでも動かず、むしろ魚のほうから寄ってくるよう腕を磨けと言う人もいますが、わたしの経験上、魚のいないところには何時間待っても魚は来ません。

 魚がいないのは、魚のほうで何か嫌なことがあって――たとえば、刑事訴追されたとか、奥さんのお母さんにいびられたとか――、そこで餌を漁る気になれないからです。十分粘って釣れなければ場所を変えたほうがいいと思います。

 ただ、なかには餌をつけないで仕掛けを投げている変わりものもいます。もっとすごいのになると、釣り針がついていないのです。こうなると、釣りは趣味というよりは哲学になります。

 釣り人というのはだいたいが病的な嘘つきです。特に釣った魚について話すときの彼らはセンチメートルの理解がなくなって、十センチが一メートルになります。釣り逃した魚については一メートルが十メートルになります。政治家が嘘つきのプロなら、釣り人は嘘つきの神さまです。

 一方で、スピアー・フィッシングをする潜水士は嘘をつきません。刺した魚はキログラム換算で売られるのですから、嘘のつきようがありませんし、そもそも嘘をつくには話さなければいけません。自分のちっぽけな自尊心のために口を開き、喉をふるわし、言葉を発する意味があるのでしょうか?

 ボトル・シティで静かに暮らすには政治家と釣り人、この二種類の嘘つきをかわす必要があります。政治家をかわすのは簡単です。彼らは有権者にしか嘘をつきませんから、有権者登録をしなければいいのです。

 釣り人は見かけた人間誰彼かまわず嘘をつくので難しいですが、政治家と比べて動きがありません。政治家は改造したトラックにバッテリーと電気メガホンを乗せて広範囲に活動しますが、釣り人はお気に入りの釣り場や釣り具屋、トウガラシを漬けたオリーブオイルを常備する料理屋にしか出没しないので、そういう場所を避けます。

 ちなみに魚市場で遭うことはありません。所詮、彼らはアマチュアです。

 今日の収穫はなかなかでした。あるアパートの三階にある印刷所でノーザン・エレクトリック社製の電信キーとマッコウクジラの脳油を二本見つけました。脳油は大きな角ばった壜に入っていて、色合いがウィスキーにそっくりです。これは機械の潤滑油として非常に重宝されます。ボトル・シティではときどき高潮がマッコウクジラの死体を街中に放置していくことがあります。腐りかけ、破れた腹から骨が飛び出し、開き切った顎から未消化のダイオウイカがでろでろになって流れ出るのは気持ちのいい光景ではありません。

 クジラよりもひどいのはサメです。サメは体内にアンモニアをかなり溜め込んでいるので、これが転がると、その区画には一週間は住めない悪臭がばら撒かれます。ボトル・シティにはこれらの死体を沖合で見つけて、さんざん銃弾を浴びせて沈めてしまう、死骸ハンターという職業があるくらいです。

 収穫を入れたネットを引きながら我がボートへと戻ろうとすると、嫌でも巨大な船の底が目に入ります。わたしのボートが木っ端のように見えるほど大きな船で、平らな船底の両側に板の連なりが見えます。いわゆる外輪蒸気船のようです。

 別にサルベージは犯罪でもなんでもありませんし、むしろ世のなかに貢献している仕事なのですから、戸惑う必要はないのですが、ひょっとすると、警察署が沈んで、臨時の移動警察署が作られたのかもしれません。ピカピカに磨いたライフルのラックや緑のテーブルがひとつあるだけの取調室、牢屋、今度警官隊で押しかける予定のもぐり酒場に赤いピンを刺した大きな地図といった不吉なディテールが脳裏をよぎりますが、そんな大胆な予算があれば、みな給料に還元してしまうのがボトル・シティ警察でもあります。

 警察ではないとすると、この巨大な船はいったい何の目的があって、わたしのボートに横づけしているのか。見当もつきません。まさか、その蒸気船をわたしの使い古されたボートと交換しようと奇特な御仁があらわれたわけではないでしょうが……。

 わたしは何でもないふりをして、ボートにあがり、空気タンクを降ろし、今日の収穫を鍵付きの箱に入れました。そのあいだ、蒸気船の舷側から中折れ帽をかぶった男が何人かわたしを見下ろします。こちらから何の用ですかときく気にはなれません。話があるなら、そちらからどうぞ。

 すると、赤く仕上げたマホガニーの手すりがついたタラップが滑らかな動きで降りてきました。あんまり滑らかなので連結部品が全部シルクでできているのかと思うほどです。しかし、やってきたのはシルクとは程遠いもの――、黒いコウモリ傘を持った男でした。

「ご同行願おう」

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