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いくつかの変化がありました。
まず闖入ペンギンという呼称の廃止です。これからはきちんとエレンハイム嬢と呼びます。
闖入ペ――エレンハイム嬢の追放作戦も無期限延期です。善良な潜水士として、年端もゆかぬ少女をボトル・シティの裏路地に放り出すのはよろしくありません。潜水士は紳士なのです。
……それに、というより、それ以上に、わたしは女の人と話すのが苦手です。かなり苦手です。筆談だって困難です。よそに移ってくれと交渉することは絶望的になりました。
わたしがルディ・フランコといたあいだ、世間一般の無口なりに会話ができたのは奇跡の連続なのです(世間一般の無口とは無口であるくせに、必要になったら、ちゃんと会話ができる、なんちゃって無口のことを言います)。
準生命保険業者との悪夢の歓楽街めぐりは終わりましたが、わたしの日々の暮らしが平穏を取り戻したわけではありません。エレンハイム嬢を道に放り出すこともできず、会話もできないわたしですが、異性と同じ屋根の下で生活することの困難は先に挙げたふたつの比ではありません。わたしは母親と暮らした記憶だって、ほとんどないくらいなのです(アンドレアス伯父は異性との交遊はもっぱら歓楽街のセジウィック通りで行い、家に女性を連れ込むことはしませんでした)。
それに一人称問題もあります。
闖入ペ――エレンハイム嬢はギャングや銀行家相手にはもっぱら男の子のようにしゃべり、一人称はボクを使い、剣劇小説の主人公のように凛々しい態度をとっていますが、わたし相手のときは使う一人称は『わたし』であり、言葉遣いも凛々しさ、というのとは違うものになります。なんだか、恥ずかしそうで、表情はどことなく、ふにゃ、っとした感じになります。
これには何か重大な事実が隠されているような気がしますが、いかんせんわたしには男女関係について何らかの知見を構築するための経験と調査能力が蟹に食べられたほうがマシなくらい欠如していました。
女性の心は分かりません。女性が否と言ったら、それは是のサインだとおっしゃる方もいますが、それは本当なのでしょうか? 否と言っているのに是と思って、女性に接して、それが誤りであった場合、たちまち刑事事件です。ボトル・シティは裁判所が水没していますが、それでも警察官の仕事がなくなるわけではありません。むしろ、裁判所の水没により、市内にはリンチを是とする空気があります。
とりあえず『異性交遊教典』という真面目そうな名前の本を購入して、女性が人によって一人称を変化させることが何を意味しているのか調べました。すると――、
『一人称を汝にのみ変えるはかの女の意識の証左なり。つとめて、これを性交すべし』
小難しい言い回しを使っていますが、要はセックスをしろという意味でしょう。
居候してきた異性について何を意味しているのか調べました。すると――、
『そは汝との家族の構築を夢想するものなり。つとめて、これを性交すべし』
そのほかの相談案件を見てみましたが、全て最後の締めくくりは『つとめて、これを性交すべし』でした。
確かに世界が水没したことで結構な数の人間が海の藻屑となりました。再び人類がこの星の覇権を握りたいのであれば、人口をもとの水準に戻すことが急務です。
だからと言って、『異性交遊教典』という仰々しい題名をつけた本が、女性とのあり方について、セックスの相手としか見ていないのはいかがなものでしょうか?
ちなみに女性がいないけど、女性とセックスがしたいという問いについては、
『汝、節穴のあいたクルミ板を購入すべし。佳人、これをラブ・ボードと呼ぶなり。つとめて、これを性交すべし』
と、返答がありました。
男女関係のABCを知らないヘンリー・ギフトレスですが、それでもわかります。次に鱒のムニエルをつくるとき、燃やすべきは物語ではなく『異性交遊教典』です。
もう一冊買ってきているので、それを読んでみることにします。ただ、題名が『ガールフレンド百人をセックスメイト百人に仕上げる百の方法 完全版』ですので、あまり期待はしません。
とにかく一人称の問題やら居候問題やらでもうパンク寸前、いやとっくにパンクしたわたしなので、目次を引き、『とにかくどうしたらいいのか分からないとき』のページを開きます。
『女性は男性のように、何も目的を持たず、ぶらぶらとすることはありません。その行動や会話には何かしらの意味が含まれています。もし、彼女が別の街からやってきたのであれば、やはり目的があります。まずは目的をきいてみましょう。そこから解決法のヒントが見つけられるかもしれません』
出版社は編集者を全員首にして、題名の重要性を心得ている人間を採用すべきです。『ガールフレンド百人をセックスメイト百人に仕上げる方法 完全版』は読者の悩みに対して真摯に答えを提示してくれる一方で、『ヒントが見つけられるかもしれません』と返答が可能性であることを釘で刺して、読者が過大な期待を抱いて致命的な失望を負うリスクを軽減してくれています。
頼りになるコンサルタントを得たところで、わたしは持てるガッツの全てをなげうって、エレンハイム嬢にこの街に来た理由をたずねました。すると、彼女は一枚の写真をわたしにも見せてくれました。以前、この部屋で口髭と顎髭に見せたあの写真で、ちょっと血で汚れています。
肝心の写真に写っているものですが、これはどこかの写真館で撮影したものらしく、ありふれた庭園の書割の前で燕尾服を来た若い男性が立っています。伸びた髪がわかめみたいに波打っていて、目に憂いをおびた繊細そうな顔をしているのですが、どことなくエレンハイム嬢に似ています。
「わたしの兄、フィリックスです」
「……」
次に出した写真は同じ写真館ではありますが、写真全体が斜めに傾き、ひどくぶれていますが、青年の背後からタコの足が伸びてきていて、カメラマンの運命に悲観を感じざるをえません。
「父と母を食べました」
「……目的は敵討ちか?」
エレンハイム嬢はこくりと頷きます。
本日のガッツはこれにて終了いたしました。
しかし、外の街にも発狂から怪物となる人間がいるのだということはなんとなく感じていましたが、やはりそうでしたか。新市街はそれなりの海抜がありましたから、あそこが全て水没するのなら、世界じゅうもひどいことになっているのは当然です。どこもかしこもボトル・シティのようになり、ビーフステーキや本物のコーヒーは夢のまた夢。見られる夢は悪夢ばかりで、その悪夢が発狂から怪物化への引き金を引くわけです。
ミリオネア・チャーリーを食べ、わたしに目を撃たれたあの巨大タコはエレンハイム嬢の兄フィリックスということで間違いはないようです。エレンハイム嬢は両親の仇を討つべく賞金稼ぎの怪物ハンターになったわけですが、果たして兄のフィリックスにエレンハイム嬢に対する敵意があるのかは疑問です。巨大なタコの足がミリオネア・チャーリーを海に引きずり込む前、ミリオネア・チャーリーはエレンハイム嬢の喉元にナイフをあてていました。あのときはタコの行動を全て敵意に基づくものだと思っていましたが、今考えるとあれはギャングのナイフから妹を守るためだったのかもしれません。水中でははるかに有利な立場ながらエレンハイム嬢とわたしを襲って食べるかわりに墨を吐いて逃げました。敵意がないのでしたら合点がいきます。
じゃあ、実の妹をギャングを使ってさらわせたのはどういうことなのだと賢い筋から非難が来ると思いますが、怪物になったことで愛憎が不安定になっているのかもしれません。妹に危害を加えようとする怪物タコの意識と妹を守ろうとする兄の意識がひとつの体のなかでぶつかり合っているというわけです。そもそも怪物になっていなくても人間は愛憎が不安定です。
以上、長くつらつらと考えましたが、それを言葉にして伝えられないのが、わたし、ヘンリー・ギフトレスという人間です。そもそも、こうした際どい指摘をすれば、必ず相手から『なぜ?なぜ?どうして?』が飛んできます。それにまで返答を用意して言葉として発することはわたしの正常精神限界を軽々と超えています。筆談も考えましたが、返答を求める相手の視線と気迫に耐え切れず、発作的に鉛筆を自分の耳から脳に突き刺すリスクがあります。兄妹喧嘩にそこまでのリスクを負うのはちょっと納得がいきません。よその家庭問題に首を突っ込むのは賢い行動ではないのです。なんのために弁護士がいるのか考えてみましょう。




