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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと闖入ペンギン
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 こちらも潜水士としての経験がありますし、何よりこうなることは予測していました。実際、ボートをもっと速く走らせないとなんとかかんとかと言い始めたところで、水中用の呼吸マスクをつけています。ただ、わたしの所有するボートからわたしが突き落されるのは海賊行為にあたるということを少し考えてほしいものです。

 スーッ、ゴボゴボ。

 やはり水中はいいです。静かで誰かに話しかけられる心配をしなくて、水の冷たさが心地よい。

「もう、このままずっと潜っていたいです」

 ボートのほうはスクリューで水をかきまわしながら、ハイマン・ハウスへと突っ込んでいきます。あのスピードではテラスにぶつかるのはないかとハラハラします。水面に刺さった弾丸は白い泡を引いて、水底へと沈んでいきます。このあたりの底には北から流れてきた砂が厚く積もっていて、砂は道沿いに並ぶヴィクトリアン様式の民家に礼儀正しくドアから入って、家のなかにあるものを片っ端から飲み込んでいます。

 訓練された潜水士の目には砂底のカレイが見分けられるほどの光が水面に満ちてきました。夜が明けたようです。正直、関わりたくないのですが、水のなかにいても分かるほどの銃声が鳴っています。足ヒレでしっかり水を掻きながら、ハイマン・ハウスへと近づいていきます。鋳鉄の柵を上で泳いで越えて、砂が一番少ない窓から入ると、そこはダイニング・ルームです。小さなパーチたちが群れで泳いでいる広い部屋では配置してたった三日で沈んだ家具たちが驚くほどきちんと保管されていました。壁はみな本棚になっていて、その上に置かれた外国製の磁器や金の象眼の壺はそのまま藻ひとつつけずに立っています。床はきめの細かい砂に覆われ、部屋の隅では砂が溜まって高く急斜面をつくっていますが、少し砂を払ってみると、白熊の剥製が頭だけあらわれて、結構な泡を吐いてしまいました。心臓に悪いですが、もっと心臓に悪いことがいま天井のさらに上で起きていると思うと気が重いです。

 中世の騎士に扮した果物王アイゼン・ハイマンの実物大肖像画が飾られた階段室でマホガニーの階段を無視して浮上していきます。残圧を見ると、たっぷり三十分以上潜れるだけの気圧があります。黒く光る水面のゆらめく鏡が頭上に見えると、いよいよハイマン・ハウスの三階――陸上部分に出ていきます。

 顔を出した途端、鼓膜を震わすのは激しい銃声でした。どのくらい激しいかと言うと、手下が三名ではなく三十名だと確信するくらい激しいです。ハンサム・ジョニーは前歯を折られても嘘をつけるほどの余裕があったのでしょう。

 まったくやかましい世界です。また潜ります。

「水は静かでいいです。カレイでも探しましょう。やっぱり人付き合いは恐いです」

 それでも自分が解放されるには闖入ペンギンを確保しなければいけません。別の階段室から顔を出してみると、銃声が少し遠くなった気がします。足ヒレを取り外して、ベルトから吊るし、残りの階段を昇りました。水中用リヴォルヴァーが陸上で役に立つのか自信がありませんが、ないよりはマシでしょう。今回は弾が装填されています。真鍮のリングを引くと金属部品が滑らかに動いて、発射準備が整いました。

 ハイマン氏の廊下はこの数年でひどい略奪に遭い、水中よりも保存状態は悪いです。家具や装飾品はもちろん、真鍮のカーテンリングも花柄の壁紙も全部引きちぎられて持ち去られています。扉もほとんどが外れているので、銃声は非常に反響します。ひょっとすると、反響を多数のガンマンと間違えたのかもしれないと思ったのですが、五人のギャングが撃ちながら後ろ歩きして、廊下に入ってきたのを見て、やはり三十人のギャングがいるのだと思い知らされました。希望の花は摘まれる運命なのだ、と何かの本で読んだことがありますが、わたしの胸に咲く希望の花は摘まれた後、二度と咲くことがないよう強酸の入ったコップに沈められます。

 五人のギャングはこれまできいたなかで一番やかましい銃声のなかで、まるで音に殴り倒されるようにバタバタと倒れていきます。すぐにフランコの姿が目に入りました。大きな銃の台尻を腰に当てて、壁に寄りかかり、弾倉を取り換えています。わたしの姿を目にすると、ウインクをしてきました。

「何人殺った?」

 わたしが水に引きずり込む手口でギャングを殺したと思っているのでしょう。親指と人差し指でゼロを作ります。

「オーケー、ベイビー」

 あ、誤解されました。いま、わたし、誤解されました。仕方なく言葉で誤解を解こうとしましたが、あの凄まじい連射音がして、あれに勝てる自信はないので、もう放っておくことにしておきました。無気力に陥ったヘンリー・ギフトレスは目の前の出来事に一切の責任を取りません。

 責任は取りませんが、死にたくはありません。フランコの後ろから階段を昇って四階まで来たところで、突然、ドアが開いて、エプロンをつけたギャングが肉切り包丁をふりおろしてきたのです。

 咄嗟に水中用リヴォルヴァーを撃つと、包丁に弾が当たって、コックの右目に破片が飛び込みます。わッ、と声が上がって、包丁の動きが止まりました。すると、フランコが測量士みたいに左へぴったり九十度向きを変え、腰だめに構えた銃でコックの腹を吹き飛ばします。

 四階の調理室では魚や豆がテーブルにあり、そして、本物のコーヒーが薫り高い湯気をゆらゆら伸ばしています。誘惑がありますが、とりあえず闖入ペンギンが助かるまではお預けです。コーヒーはポットに入って、アルコールランプの上でやんわり加熱されています。銃撃戦で流れ弾が当たらないことを祈るばかりです。

 わたしとフランコは四階の廊下を静かに、ゆっくり、用心深く、耳をそばだてて、進みます。右の壁から床が軋む音がして、フランコはわたしに目配せをすると、壁を軽くトントンと叩きます。壁の向こうのギャングは仲間だと思ったのか、トントンと叩いて返事をしました。フランコは壁越しに自動小銃で返事しました。死んだかどうかの確認をわたしにしろと目配せします。嫌な役目です。死体を見るか、死にかけのギャングを見るか。部屋を覗いてみると、すらっとして優雅な身なりの男性が大の字になって倒れています。ブロンドの整った顔と整った髭、ブルーの眼、細い銀のフレームの眼鏡、ブラウンのピンストライプのスーツ。ベージュの中折れ帽は少し離れた位置にひっくり返っています。銃弾は胸に五発、ワイシャツに黒い焦げの穴をつくっています。

 あ、やってしまいました。どう見ても、ギャングではありません。ギャングに誘拐されて身代金を要求される爵位持ちの紳士です。この騒ぎにおいて、わたしは共犯なのか、あるいは誘拐ギャングたちとの戦いで生じた緊急避難なのか。

 司法リスクをあれこれ考えていると、フランコがひょいと顔を出し、

「マッドドッグ・ヘンリーだ」

 と、言って、袖を蹴飛ばすと、滑車のようなものの留め金が外れて、袖口から小さな銃が飛び出してきました。

 最上階のテラスまでやってくると、ミリオネア・チャーリーが待っていました。小太りでタワシみたいな口髭、マッドドッグ・ヘンリーよりも高そうなスーツですが、いかんせん似合っていません。顔にナイフ沙汰の喧嘩でつけたU字型の傷跡があって、生え際が後退した額は脂っぽい汗、分厚い唇、血走った目。そうです。これがギャングのあるべき姿で、いくらヘンリーという素晴らしいファーストネームを持っていても、ギャングならギャングらしくあるべきです。でないと、より優秀なヘンリーが迷惑するのです。

 雪花石膏の欄干には薬か何かで意識を失っているらしい闖入ペンギンが座らされていて、足には円錐形の鉛の塊が荒縄で縛りつけられています。ミリオネア・チャーリーが撃たれれば、支えを失った闖入ペンギンは水にダイブです。ギャングはギャングらしく卑怯者です。

 なぜよその街のギャングが闖入ペンギンを狙ったのか分かりませんが、闖入ペンギンのことだから、これまで稼いだ賞金をどこかに隠していて、それを奪おうとしたのでしょう。問題が他人のお金で解決できるのは好ましいことです。闖入ペンギンの金銭感覚の淡白さを考えれば、誰も傷つかずに解決を望めます。今夜のボトル・シティでは血が流れ過ぎました。一度くらいスマートに物事が解決してもいいはずです。

「おれには後ろ盾バックがいるんだ!」

 金銭の授受だけで解決が見込めた兆しに暗雲が立ち込めました。闖入ペンギンの隠し財産や身代金よりもバック、とやらがもたらす得のほうがよい、と言っているわけです。ミリオネア・チャーリーは闖入ペンギンの喉元にナイフを当てています。

「お前らなんか、一発でひねりつぶせるんだぞ!」

 これは比喩的表現です。本当にひねりつぶすことはありません。撃つか刺すか身に覚えのない借金でがんじがらめにするかです。

 ですが、この場合は違いました。ミリオネア・チャーリーのバックは本当にひねりつぶせました。まさにその後ろバックから赤黒い巨大なタコの触手が伸びて、哀れなギャングを絡め取ります。パニックを起こしてナイフを振り回しますが、吸盤は皮がよじれて血が出るほど強くミリオネア・チャーリーを捉えています。ギャングが水へ引きずり込まれ、闖入ペンギンも水へと落ちていきます。

 わたしはすぐにマスクをかぶり、闖入ペンギンを追って飛び込みます。水のなかで最初に見たのは巨大な眼でした。瞳が縦に裂けたその目が巨大タコの眼だと分かった瞬間、わたしはリヴォルヴァーでその目に二発撃ち込みました。タコが極めて黒に近い赤に色を変え、墨を吐き、視界が死にます。そのなかでバキバキと何かが砕ける音がしました。ミリオネア・チャーリーが出した音だと願いましょう。闖入ペンギンはどこにいるのか、このまま行けば溺死間違いなしです。追い出したい店子ではありますが、潜水士の仁義といいましょうか、手をデタラメに振りまわし、何かに当たらないか探ります。今は時間の経過は敵です。意識のない人間が水に落ちて生きていられる時間はほんの三十秒です。しかし、手は何にもかすりません。これは駄目かもしれません。

「いいえ、ヘンリー・ギフトレス。あきらめてはいけません。人命がかかっているときは特に!」

 そのとき、手が何か柔らかいものにぶつかりました。それは潜水スーツ用のゴム素材に包まれています。わたしは首のある部位に手を伸ばすと、顔を引き寄せ、予備のブリーザーマスクをかぶせて、エアのバルブを一気に緩めました。

 ゴボッ! ゴボッ!

 細かく震えてから、闖入ペンギンが息を吸い込む音がきこえました。ゴム・ベルトを闖入ペンギンの頭の後ろへまわして外れないようにしてから、彼の足を縛るロープをナイフで切ります。そのまま、マスクが外れたりしないよう、闖入ペンギンを引っぱって、腕を背中にまわして、しっかり抱きかかえると、墨の雲を出て、水面へと泳いでいきます。

 水面から顔を出すと、落ちてきた縄梯子が頭にぶつかりました。

「いたっ!」

 フランコは登れるか?とたずね、わたしはタンクが重いから登れないと返事をしました。フランコはボートを裏にまわしました。わたしの頭はぶつかり損です。

 わたしと闖入ペンギンを引っぱり上げて、船外機は大聖堂を南に眺めながら、旧市街へと向かいます。闖入ペンギンはマスクを外しました。そして、しゅんとした、いえ、なんだか恥ずかしそうに顔を赤くして、

「あの、わたしっ……あ……じゃなくて、ボク……え、と……ありがとう、ござい……ます」

 ます、を言うときは首が外れたのではないかと思うほどうつむいていて、その声はほとんど消え入りそうでした。

 ん?

 ――。

 わたし? ボクではなくて?

 わたしはじっと闖入ペンギンを見ました。

 髪を短く切った少年ですが、その顔つきは中性的なところがありました。そして、ああ、水のなかでまさぐって、つかんでしまったのは、非常に控えめながらも、女性の胸で――。

 わたしの顔がポッポと熱くなります。とんでもない新事実発覚です。

 闖入ペンギンは女の子だったのです!


          ヘンリー・ギフトレスと闖入ペンギン end

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