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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと闖入ペンギン
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 床が水に浸かったことのある地下室は一発で分かります。泥が染み込むのです。どうやって水を抜いたのか知りませんが、それだけで一流店を名乗る資格があるでしょう。吸い出しポンプを借りるコネクションがあるか、バケツで必死に掻き出したわけですから。

 ボトル・シティで手に入るなかでも特に安価な松材のカウンターが地下室の左にあって、樽がテーブルの代わりになり、労働者風の男たちが蟹ビールを入れたブリキ缶の前に座って、ぼうっとしています。奥にはビリヤード台があって、フランコはそこでふたりのならず者風の男と笑いながら、ボールを突いていました。ならず者のふたりのうちひとりはあの口髭でした。左手に包帯を巻いていますが、器用にビリヤードをしています。

 もうひとりも口髭をたくわえていたので、便宜上、最初の口髭をオリジナル、ふたり目を新口髭ノヴァ・ムスタシュと仮称します。フランコはちらりともわたしを見ようとしなかったので、お互い知らないという設定なのでしょう。それにわたしがオリジナルの目に入ると少々厄介です。

 言われた通り、カウンターに静かに寄っていきます。スツールはなく、古い真っ黒なレンジでは石炭がとろとろとした火をまとい、エンドウ豆を温めています。店主は細い顔をした赤い顎髭の男で「何を飲む?」ときいてきます。

 わたしが黙っていると、店主はため息をつき、何も言わずに茶色い、ずんぐりとした壜を置きました。中身はなんでしょうか? バスタブでつくった粗悪なジンか、つぶしたジャガイモでつくった蒸留酒にカラメルを入れてウィスキーと称したものか。飲んだら死ぬまで緑色の妖精を見続けることになるアブサンかもしれません。アンドレアス伯父はお酒はなんでも飲んでしまう人でした。ビールを八パイント飲むのにお腹には小皿ひとつ分のナッツだけしかなく、ショットガンで吹き飛ばされずとも、肝不全で手足の指がむくんでのたうちまわりながら死んでしまう運命が遠くない未来で待っていたことでしょう。

 わたしの飲酒事情を言うなら、まったく飲みません。潜水士は体が資本です。安酒だろうが高級酒だろうが毒にかわりはありません。そもそもアンドレアス伯父がわたしを引き取ったのは自分が潜れなくなったため、わたしを潜らせて、上前を跳ねようとしたからです。

 その点で言うと、わたしは優秀な金蔓でした。適性もあったのか、わたしはあっという間に潜水技術を会得して、せっせとお金を稼いでいたわけですし。アンドレアス伯父は人を見る目があったわけです。

 鍋の蓋にピカピカになるまで磨いた金属板がはめ込まれていて、それが壁にぶら下がって、鏡の代用品になっています。それを見ると、ビリヤード台の様子を振り向かずに見ることができます。

 フランコはオリジナルと熱心に何か話しています。

 オリジナルも熱心に答えています。

 だんだん、表情が険しくなってきました。

 話し合いは言い合いになってきています。

 オリジナルがフランコの胸を指で突きました。

 フランコが笑うのですが、目がまったく笑っていません。

 これはもう駄目です。よくて殴り合い、悪くて撃ち合いです。ただ、覚悟して数秒考えると、突発的な戦いもそう驚かずに済みます。

 フランコはオリジナルの髪をつかみ、ビリヤード台に頭を叩きつけます。反撃のいとまを与えず、何度も叩きつけるので、オリジナルの頭がたんこぶでボコボコになっていきます。フランコの後ろには新口髭ノヴァ・ムスタシュがいて、象牙の柄が美しい、大きな折り畳みナイフを振り出します。

 間違いありません。あれはわたしが新市街の北部に沈む温室付きの家でサルベージしたものです。自分がサルベージしたものが使用されるところを見たことはほとんどありません。見てみたい気もしますが、使われたらフランコは死んでしまい、闖入ペンギン救出大作戦は失敗です。わたしだって、ここからロンバルド通りまで自力で無事に帰ることができなくなります。

 正直、自分に人が撃てるかどうかは分かりません。ここはスピアー・フィッシングの要領で臨みます。スピアー・フィッシングのコツは水中銃で狙うのではなく、水中銃を向けることです。狙っているあいだに魚は逃げますし、どうせ水に阻害されるから狙ったところで真っ直ぐは飛ばないのです。銛がなんとなく向けるだけで当たるくらいの距離まで忍び寄れるかがスピアー・フィッシングの腕の見せ所です。

 わたしは銃を手にして腕をまっすぐ、新口髭ノヴァ・ムスタシュのほうへ向けて、歩いていきます。労働者たちは頭をかばうようにして床に伏せているので、そちらから邪魔が入ることはないでしょう。ざっと向けただけで銃弾が当たる距離まで新口髭ノヴァ・ムスタシュへ近づいていきます。もう少し近づかないといけません。しかし、近づいてみると、まだ離れすぎている気がします。わたしはまた近づき、最終的にほんの十センチ先まで近づいていきました。フランコはオリジナルと新口髭ノヴァ・ムスタシュのふたりのナイフ攻撃に挟まれて、てんてこ舞いになっていました。ビリヤードのキューを振りまわして、なんとかナイフを間合いから外しています。

 わたしが発射した最初の弾は新口髭ノヴァ・ムスタシュの左腕に命中しました。その威力で相手は体をこちらに向ける形で壁にぶつかりました。わたしは何となくの極意を守って、相手の頭になんとなく銃を向けて、また発射しました。今度は右耳がかじられたパイみたいになってしまい、新口髭ノヴァ・ムスタシュは戦意を喪失して、へなへなと腰を下ろしていきます。

 そのあいだ、フランコは彼の言うところ、魔法の体操というものをしていました。それをすると、どんな相手でもやったこともやってないこともぺらぺらしゃべるというのです。オリジナルが魔法の体操の餌食になると(体操をする人を餌食と呼ぶのは奇妙ですが、この場合、最も適切な表現でした)、すぐしゃべりました。自分は闖入ペンギンのことをリトル・オーギーに話しただけだと。

 そのころ、わたしは銃をカウンターの向こうの店主に向けていました。こういう店ではカウンターの下に二連式のショットガンが隠されているもので、店主はそれを取り出そうとしたのですが、わたしに銃で狙われて、それも諦めました。ただ、わたしたちは別に店主に危害を加えるつもりはありませんし、こうして喧嘩の舞台にしてしまったことに申し訳なく思ってすらいます。できれば、彼にはわたしたちはいい人間であり、ちょっと乱暴なことをしてしまいましたが、それには理由があるのだと分かっていただきたいところです。

 フランコがわたしの肩を叩いたので、わたしは彼の後をついて、外に出ました。わたしは物騒な拳銃をフランコに返そうとしますが、フランコは、

「まだ使う」

 と、またまた卒倒したくなることを言ってきました。リトル・オーギーという人物に会いに行くのでしょう。彼が聖堂参事会員である確率はこの上なく低そうです。

 セジウィック通りへ戻る途中、フランコが帽子のツバを軽くつまんで引き下ろし、そして、わたしに言いました。

「さすが元凄腕の――だな」

 奇妙な言葉です。わたしが水中を潜っているところを見て、凄腕と言ってくれるのなら、素直に喜べます。しかし、あの酒場で水と言えるものはこっそり水増しされた蟹ビールだけです。それに『元』とは何でしょうか? わたしは潜水士を引退したと言ったことは一度もありません。

 わかっています。どうも、フランコの言葉の一部がひどく理不尽かつわたしに動揺をもたらすものだったので、わたしの心の防衛機能を司る部分がフランコの言葉をシャットアウトしたのです。

 しかし、わたしはボトル・シティの潜水士、ヘンリー・ギフトレスです。

 歓楽街を歩き、人の腕と耳を撃った男です。

 今更、言葉で動揺するわたしではありません。なに、闖入ペンギンが見つかって、平穏無事な生活が戻れば、今日のことだって、笑って思い出せる日が――まあ、笑わないと思いますが、ともかく、以前のわたしなら『――』を永遠に封じ込めますが、今のわたしなら『――』に適切な対処ができる自信があります。だいたい『――』が何なのか、放っておいたら気になってしまいます。好奇心とは蓋し厄介な感情です。

 わたしはマスクをつけたまま、深呼吸を二回して、心の防衛機能と対決する意志を固めると、『――』を解読しました。

 さすが元凄腕の〈殺し屋〉だな。

 殺し屋!? このわたしが!? スピアー・フィッシングで殺した魚たちから見れば、そうかもしれませんが、それならば、引き網漁師は大量殺戮者ということになります。これは明らかに不当な評価です。

 しかし、ふと、いろいろ思い当たる節が出てきます。ボトル・シティの住人がわたしにあまり話しかけないのはわたしが元殺し屋だからだと思ったために起きたことなのかもしれません。顔をマスクで隠しているのは指名手配書対策と思われたのかもしれません。ああ、いろいろな『かもしれません』が出てきます。心の防衛機能の言うことをきいて『――』は『――』のままにしておけばよかったです。自己を守ろうとする本能の偉大さに敬意を払うべきでした。

「何人……」

 わたしは何人がこの不当な誤解をしているのかたずねました。すると、フランコは指折りで数えたのですが、それは政治家だったり警官だったりギャングのボスだったりとボトル・シティの大物たちで、そんな連中にわたしが元殺し屋と知られているのかと思って、気持ちが悪くなってきました。

 マスクを常時つけていることは精神の安定と会話への絶対的拒否の明示に役立ちますが、突然込み上げる吐き気には遅れをとってしまいます。なんとか吐き気には元の居場所に戻っていただきましたが、そこでフランコが挙げた名前の人物がみな溺死していることに思い当たりました。

 ああ、まったく! フランコはわたしの『何人……』が『わたしに殺された人間を何人知っている?』と勘違いしていたのです! しかも、全員が溺死しているということは、もう間違いありません。凄腕の殺し屋ヘンリー・ギフトレスの手口はターゲットを水に引きずり込んで溺れ死にさせることです。

 潜水士という、海底に眠る宝物を引き上げる冒険者が、恥ずべき暗殺手段と思われている。これは由々しいことです。しかし、どうやって矯正したらいいものでしょうか? マグロを獲ってお金を貯め、新聞に自分が元殺し屋ではないという広告を出すのを本気で考えましたが、『元殺し屋ではない』という表現は暗殺請負への現役復帰の誤解を与えてしまいます。

 こんな重要な事実を知らずに暮らしていたのは何ともおめでたいことですが、逆にそれだけわたしが会話を避けて幸福に暮らせていたことにもなります。それに少しずつですが、ことを好ましくとれるようにもなってきました。元殺し屋なら暗殺依頼をわたしに持ち込むものはいないでしょう。それでいて、殺し屋である過去が恐れられて、誰もわたしに話しかけてきません。結局、下手なことをせず、現状維持の方向でいれば、平穏を取り戻すことができます。

 ただ、もしわたしが今日明日非業の最期を遂げたら、わたしの墓碑銘には次のように刻んでもらいましょう。


 ヘンリー・ギフトレス

 1906~1927

 彼はしゃべり過ぎた


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