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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと闖入ペンギン
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「準生命保険っていうのは生命保険とは全くの別物だ。生命保険は死体に金を払うが、準生命保険は契約者を死体にさせないことで金を払う。真の生命保険だ。一般的な生命保険は死体保険と名乗るべきなんだよ」

 ルディ・フランコはそう言います。カウボーイのようなファッションで無精髭を生やした背の高い男が蛇皮ブーツを履いた足をデスクの上に投げ出し、オールドなんとかという名前のウィスキーを壜ごと煽っています(ウィスキーはなぜ必ず『オールド』と名前をつけるのでしょう?)。

 生命保険会社の最高経営責任者はどちらかというと、小説のなかの私立探偵のようです。彼はフランコ準生命保険会社の社長であり役員であり部長であり課長でありセールスマンであり調査員であり事務所の清掃員ですが、ざっと部屋を見まわすと、彼はあまり仕事をしない清掃員のようです。

 そんな彼をピンク色のネオンが縁取ります。この事務所の向かい側は売春宿です。セジウィック通りは歓楽街に走っていて、怪しげな保険会社以外に賭博場や酒場、ギャング団のアジトがあります。率直に言って、ボビー・ハケットの演奏がきけると言われなければ、足を踏み入れたくなるところではありません。うまい具合にタダ酒にありつこうとする女性たちが情け容赦なく話しかけてくるのをかわしながら、ここに来るのだけで、向こう一週間の活力を使い果たしました。

「さて」

 と、ルディ・フランコが言って、指をポキポキ鳴らします。

「対象者はルゥ・エレンハイム。契約の発動条件は今日、夕方六時までに生きて、お前さんの家に戻らなかったとき。となると、こりゃ動かなくちゃいかんわな」

 チラッとフランコはわたしのほうを見ます。わたしは目が合わないよう、視線を下に向けます。あと少し耐えればよいのです。闖入ペンギンの捜索をフランコに任せてわたしはこの罪深い街から立ち去ります。この事務所も二度と訪れることはないでしょう。

「しかし、無口で人を寄せ付けないヘンリー・グレイマンがねえ」

 そうです。わたしは無口で人を寄せ付けないヘンリー・ギフトレスです。

「そのあんたがわざわざこうやって保険証券を持ち込んできたわけだ」

 なんだか雲行きが怪しくなってきました。

「わかった。本当ならおれは誰とも組まないが、今回は特別だ。ついてきていいぜ」

 ヘンリー・ギフトレス! なんとしても拒否するのです! でないと、大変なことになります!

 わたしは目線を上げて、ルディ・フランコと目を合わせます。彼の目には家父長的温情のようなものが光っていました。何とか、彼に主義を曲げずひとりで調べてくれと言わないといけないのです。いけないのですが、でも、やっぱり人の目を見て話すのは怖い……。

 また視線を下に逃がすと、それが一連のジェスチャーの締めくくりに見えたのか、フランコはいいってことよ、と大物っぽく言って、鷲の羽根を一本刺したステットソン・ハットをかぶりました。

 もう、今日は疲れました。家に帰って寝ることにします。フランコだって、オールドなんとかウィスキーをもうひと口くらい飲んで寝れば、わたしを連れて、闖入ペンギン捜しをすることの愚を悟るかもしれません。

「じゃあ、いまから探すとするか」

 いま、午後十時です。罪深い歓楽街なら、これからが本番なのでしょうが、善良な潜水士は明日に備えて眠る時間です。決して、行方をくらました闖入ペンギンの捜索に使っていい時間ではないのです。

「ああ。……行こう」

 いま、わたしは『行こう』と言いましたか? どこに行くのですか? 地獄ですか? というより、なぜしゃべってしまったのですか。ストレスのなせる技でしょうか? 自分で自分の言葉を制御できないようなら、いよいよ危ないです。発狂の危険性があります。発狂すれば、そのまま怪物ですから、これは非常に重要なサインです。

 しかし、既成事実はどんどん積みあがっていきます。いま、わたしはルディ・フランコの後ろについて、セジウィック通りを歩いています。酩酊や快楽を商品化した店が並び、トウガラシみたいに辛い空気がよそに流れずこもっていて、ランドーレット型の自働車が猛スピードで歩道の縁石を踏んで弾みながら、歩行者や屋台を跳ね飛ばしそうな際どいカーブをしてみせます。賑やか過ぎて頭が痛くなる通りで、自分の呼吸の音しかしない水中が恋しくなります。

 オニカマスに突撃を食らったり、化け物アンコウの疑似餌に引っかかって頭を食いちぎられそうになったり、豪族の墓のなかで溺れ死にしかけたりとリスクはいろいろありますが、やはり水のなかは安心できます。水のなかには暴走するランドーレット型の自働車はありませんし、腕をとって宿に引きずり込もうとする売春婦もいませんし、何よりわたしを助手にして夜の歓楽街を歩く準保険会社の最高経営責任者もいません。

「なあ、お前、心当たりとかないか? ルゥ・エレンハイムが消えちまうような」

「ない」

 いま、話しかけられました。ない、とこたえました。フランコは何か言いたげですが、ない、これを言うだけでも大変な負担を体と精神に課しているのです。だいたい、心当たりやら何やらを調べるのは準生命保険会社の調査員たる彼の仕事であって、わたしの仕事ではありません。当座の目標はわたしは名探偵のよきパートナーには程遠い存在であることをアピールし、必要なら彼をイライラさせて、最終的には「お前、帰れ。いないほうがマシだ」と言わせることです。ただひたすら愚になるのです、ヘンリー・ギフトレス。幸福への近道はそこにあります。

 しかし、フランコはしつこくきいてきます。視線が厄介です。なんだか、心臓の動き方が変則的になってきました。わたしは心臓発作で死ぬかもしれません。

「何か、なんでもいいんだ、思い出してくれ」

 思い出すのは口髭と顎髭と頬髯です。さらうとしたら、彼らです。ただ、闖入ペンギンは水中で行方不明になった確率が高いので、潜水技術も器具も持っていない彼らにどれだけのことができるのかは疑問です。

「……右手を刺された口髭の男がいる」

 顎髭と頬髭のことは教えません。教えられません。これ以上、お話するのは無理です。家に帰って、眠りたいです。いえ、眠ることはできないでしょう。わたしの体内環境はメチャクチャで、精神はコンプレックスが玉突き事故を起こしています。家を出るべきではありませんでした。生半可な同情心を持つと、こうなります。得難い教訓です。

 ルディ・フランコはセジウィック通りから門をくぐって横町へとそれて、防水タールを貼りつけた家の並びに出ました。砲艦の水兵らしい男たちが道の真ん中で小銭と小さな包みを交換していて、ひとり、藪睨みの男がこちらを、というか、フランコを見てきます。水没都市の準生命保険業という仕事にはいろいろ危険もあるのでしょうし、恨みも買うのでしょう。しかし、いきなり銃を抜かれるというのはどうなのでしょうか? 普段の勤務ぶりに興味が湧いてきます。

 藪睨みが銃を抜くよりも先にフランコは長銃身の六連発銃を抜き、藪睨みの胸に二発撃ち込みました。水兵たちがバラバラに逃げていき、藪睨みはぐるっとまわって、顔から泥に突っ込んでうつ伏せに痙攣しています。もうひとり、藪睨みの助手らしい若者がいて、こちらは素早くゴミ缶に隠れて、手だけ出してめくら撃ちをしてきます。デタラメに飛んでくる弾丸へとフランコは平気で歩いていき、ゴミ缶を蹴飛ばすと、落ち着いて若者の顔に一発、至近距離で発砲しました。目と鼻が別々の方向に飛んでいき、それを見て、フランコは満足げに鼻歌を歌いながら、弾を込めなおしています。

 会って二時間でこんなことを言うのはなんですが、ルディ・フランコはいろいろ欠点のある人間です。依頼人との話し合いの場でウィスキーを壜であおり、善良な潜水士を夜の歓楽街に連れまわす。これは間違いなく欠点でしょう。特に後者は大きな欠点です。しかし、臆病が彼の欠点に数えられることはないようです。

 わたしも全てが美しいクリスタルでつくられた都市に住んでいるわけではありません。倫理があまり重要視されない水没した街の住人です。人が撃たれるのを見るのは今日が初めてではありません。詳しい事情は不明ですが、イルミニウスが両手にショットガンを持ち、突進してくる自動車の前半分を運転手ごと吹き飛ばしたのを見たことがあります。

 しかし、撃たれた人間の顔を踏みつけるのは初めて見ました。藪睨みはまだ息があったのですが、ルディ・フランコはその顔を踏みつけ、足を顔からどかしてほしいなら、モートンがどこにいるのか教えろと交渉を始めました。かなりえげつない脅迫ですが、歓楽街の、古い家が並ぶ路地では顔を踏みつけることは交渉テクニックになるのです。

 そろそろ、わたしは現実と向かい合い、とんでもないことに巻き込まれつつあることを悟りました。闖入ペンギン救出作戦でひき起こされる銃撃戦は先ほどが最後ではないのです。藪睨みはゴロゴロと血で詰まった喉を鳴らしながら、『ディニーズ』と言いました。

「やつは出入り禁止になったと思っていたがな」

 フランコは足をどけません。間違いなく、フランコは死ぬまで踏みつけておくつもりのようです。藪睨みはフランコを見て、銃を抜いたわけですが、わたしのことも撃つつもりだったことは間違いありません。

 しかし、いま、わたしは藪睨みに同情します。藪睨みはもう何も話したくないのです。話すことが体に辛いのです。その気持ちがわたしには痛いほど分かります。普通の人間なら撃たれて死にかけて顔を踏まれなければ発生しない苦しみに、わたしは普通に暮らしているなかで常に悩まされているのです。

 ディニーズというのはおそらく違法営業の酒場でしょう。フランコは紳士の店だと言っていますが、明らかに皮肉です。海水を吸って痩せ衰えた並木道に例のソルトボックス型式の家が並んでいて、フランコは廃屋の裏手にまわります。

 水が染みてきている庭に扉があり、そこから階段室を経由して、地下の酒場へ通じるドアを前にしたわけですが、ここでフランコは「この酒場にいる人間は店主も客もディッキー・オアーも(オアーとは口髭のことです)敵だ。援護してほしい」と言って、わたしに銃を持たせてきました。

 三二口径の自動拳銃でそれを持たせた後、「撃鉄は銃のなかにある」という別にどうでもいい銃の構造を教えてくれました。酒場のドアの横にはゴミバケツがあるので、そこに銃を捨ててしまいたかったですし、闖入ペンギンのことは運に任せて、ロンバルド通りの我が家に帰ってしまいたいです。

「時計はあるな?」

 わたしは懐中時計をポケットから取り出して見せました。

「おれが入ってから五分後に店に入れ。それでカウンター席に座って、適当に飲んでてくれ。おれがオアーに仕掛けたら、銃を抜いて、おれを背中から撃とうとするやつを撃て。殺すかどうかは任せる」

 なぜ、善良な潜水士がギャングの相棒みたいなことをするよう頼まれるのか、その因果律はさっぱり分かりませんが、フランコはわたしの是非をきく前に、店に入ってしまいました。それからわたしは四分五十七秒後に店に入りました。誤差三秒はわたしの動揺です。

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