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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスとペンドラゴンの財宝
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 沈黙を肯定ととらえる人がいます。

 彼らおしゃべりは無口な人間を無条件に征服してもよいという許可証を持っていると勘違いしています。しかし、行間を読めというように、その無口の下には強い否定の気持ちがあるものです。

「とはいえ、この問題をクリアできたのなら、そもそも、わたしはこんなパイプのなかを潜っていないのです」

「へんりー、あんりー? コキゲン?」

「あんまりそうでもないですね」

「でも、しゃべってるよ?」

「ひょっとして知らなかったですか? 水のなかなら、そこそこ話せるんですよ」

 わたしの言葉は泡となり、錆とソフトコーラルの溜まったパイプの天井にぶつかり、キラキラと鏡のように光ります。冷却用パイプというから、人ひとりがギリギリ通れるか否かくらいのものを創造していましたが、二車線自動車道を通せるくらいに広いです。ただ、自動車と言っても、いろいろあります。小さな旧式ロードスターのような小さなものから所有者の態度と同様大きくなったリムジンまで。この場合はピクニック・ワゴンが余裕で走ることができる道です。水没前にはドアを木造にして車にも木材の温かみをという奇妙な流行があったとききます。特にピクニック・ワゴンに多かったそれですが、水没とともに消えました。ずっと曇って小雨が降っているものだから、乾かすことができず、ボロボロに腐って崩れてしまったのです。

 冷却水パイプのなかにも生態系はあり、相変わらず小エビがワリを食っています。パイプのなかには点検用のランプが一本のコードでずっとつながっているので、視界は最低限確保されているのですが、くらがりも多いのです。そうした暗がりのなかにはスズキやカサゴみたいな肉食魚が小エビを食べるのに夢中になったハゼなどを狙っているわけです。

 そんななか、ミカ嬢のニシキゴイたちがあらわれて、パイプの底にたまった砂を吸ったり吐いたりするわけです。エビからスズキまでポカンです。彼らが生まれてからこの方、砂を食べる魚なんて見たことがないのですから。

 まあ、それを言うなら、キモノを着た人魚や善良な潜水士もまたこの生態系では異形なのです……。

 ――と、思いましたが、前言撤回です。いました。潜水士。

 うつ伏せに倒れているから、もうこれは絶対にろくなことにならないと思っていたのですが、ミカ嬢が、

「人工呼吸だ、それー!」

 なんて言って、潜水士をひっくり返しました。

「ぎょえー!」

 そりゃ驚くでしょう。ウェットスーツのなかには骸骨が入っているのですから。

「ガイコツだよ! ゴキゲンじゃないよ!」

「ゴキゲンなガイコツなんて見たことありませんよ。はあ、ペンドラゴンM1000にはそれほどの価値があるようですね。パイプんのなかで酸欠死なんて」

 タンクはひとつのみ。ウェットスーツのフードに引っかいた跡が――おや? ありませんね。エア切れでもだえ苦しんだら、必ず首のあたりに引っかき傷が残るはずなのですが。

 なーんか、嫌な予感がします。残圧計を見ると、エアが半分以上残っています。

 わたしは死者のウェットスーツを念入りに調べました。厚手のもので防寒対策と外傷対策に優れるものです。彼を食べた蟹や小魚たちはおそらくウェットスーツ唯一の出入り口。顔の部分から入ったのでしょう。

「つまり、顔の肉を食べて、入り口を開けて、そこからスーツのなかに潜り込み、お肉を――」

「わー、怖いよう! ゴキゲンじゃないよう!」

「おや? これは――」

 胸の真ん中、あばらの中央より少し右、つまり心臓のある位置に一ドル銀貨くらいの大きさの穴があります。怨霊対策で遺体に敬意を表しながら、ゆっくりとひっくり返すと、背中にも同じ穴が空いています。

 潜水には危険生物が付き物ですが、たいていの危険生物はサメやオニカマスみたいに噛みついて首を振って、ズタズタにするものです。ところが、この潜水士はまるで殺し屋に狙撃されたみたいに心臓を何かで打ち抜かれて死んでいます。

「こういうやり方で人を殺す生き物というと……」

 心当たりがありますが、しかし、あれは大洋で生きる魚で、それがこんな狭いパイプのなかで――

「おおお?」ミカ嬢がキョロキョロし始めます。「へんりー、水が震えてるよ?」

 確かにそうです。以前のウェットスーツなら気づきませんが、新調したものなら、この手の微妙な変化を肌で感じ取ることができます。

「伏せて!」

 わたしがミカ嬢の頭をつかんで海藻の茂みに突っ伏すと、間一髪でミサイルみたいな魚がびゅん!と通り過ぎていきました。

「メカジキだ!」

 カジキのなかでも、最も大きくなり、そして、最も速く泳ぐやつです。こちらの遺体を作ったのも、このメカジキで間違いないでしょう。

 メカジキの突進で水が乱れに乱れ、ランプの光も揺れに揺れ、パニックになった魚たちが右に左に飛び逃げていく様子が乱暴に動きまわる白い光の円のなかで切り取られています。メカジキ氏はそんなふうに混乱したスズキを狙って突進し、大きな鎌のような胸鰭が見えたかと思ったら、目の前にいたイソスズキが二匹、きらきら光る鱗を数枚残して消えました。

 鱗のないつるりとした生きた魚雷は信管こそなけれど、こちらの胴をぶち抜いて振り回す角を持っています。不条理です。外の海では彼だか彼女だかの同胞が銛で刺されて、魚市場に吊られ、ブロック単位で切り分けられているのに、一度だってカジキ類に害をなしたことのない善良な潜水士がこんな目に遭うなんて、世のなか間違っています。

「お、お、うおお!」

 見れば、ミカ嬢は闘牛士みたいにメカジキをギリギリのところでかわし、その乱流に身をまかせ、ぐるぐるまわっています。

「思ったよりゴキゲンだよー」

 人魚にもアドレナリンって分泌されるんですね。勉強になります。もし、ここから生きて帰れたら、みんなに教えるつもりですから、なんとか生かして帰してくれませんでしょうか、メカジキさん?

 返答は五十センチ横を突っ切った角です。角は鋼鉄のパイプにぶつかると、水のなかなのに火花が散ります。もはや、わたしには手に負えません。

「とぉーっ。あはは、(たぁの)しーっ」

 デスゲームをつくる才能に恵まれたミカ嬢はニシキゴイと一緒にくるくるまわって、楽しんでいますが、わたしはまったく楽しめません。

「わたしはヒラメ、わたしはヒラメ」

 自己催眠術に生存の可能性を託しますが、いかんせん背に折っているふたつのエアタンクが邪魔をします。六連発の水中リヴォルヴァーは太ももに縛り付けてありますが、真っ暗な水道を時速八十キロで突っ走るカジキに当てるなんて不可能です。

「誰でもいいから助けて!」

 すると、パイプの外から声がきこえました。

「――革命、革命。革命ねえ。おれ、きいたことあるぜ。五十ドル借りて返さないやつの足を折ろうとしたら、抜群に儲かる小売りの革命構想があるからそれで返せるって。なんでも、そいつが言うには生活必需品を片っ端から大量に買って割引して、安値で売る、その店一軒行くだけで魚も洗剤もサンドイッチも手に入るって。そいつ、その店のことをスーパーマーケットって言ってたっけ。笑えるよな。マーケットがスーパーなんだぜ。あんときはそんな与太飛ばす暇があったら、カネ作ってこいって袋叩きにしたが、まさか、こんなとこでお目にかかるとはなあ」

 メカジキがわたしのほうを向いて突進してきたので、ギリギリでかわすと、角がぶすりとパイプの鉄板を貫きました。

「なんだあ!? 水が降ってきやがった! てめえぇ!」

 水のなかではいつだって銃声がくぐもってきこえます。何かが折れる音がして、メカジキが首を振りました。なんと、カジキをカジキたらしめているあの角が根元から折れていました。ジーノの弾丸が命中したのです。

「くらえ!」

「ひえっ!」

 銃弾が泡を引きながら、わたしのすぐ横を飛び上がりました。穴は次々と開いていきます。

「同志ジーノ! パイプを撃つな! スーパーなマーケットがずぶ濡れになるぞ!」

「ブッチャー・タクティクスだ!」

 両腿をぴっちりくっつけて、足ヒレを一枚のヒレのようにして、あらんかぎりの力で上下に動かします。疲れますし、砂なんか巻き上がって、視界も悪くなりますが、速く泳ぐのはこれが一番です。

 安全地域、かどうか、本当は分かりませんが、とりあえず安全そうなところでやっと休めました。わたしの呼吸は派手にボコボコボコとマスクの弁から噴き出され、頭上の鉄板にぶつかって水銀みたいな粒となって光っています。

「へんりー、あんりー、おつかれりー?」

「おつかれりーです。あなたは疲れないんですか?」

「んんー? よく分からんちん」

「あと少しで死ぬとこだったんですよ?」

「別にいいじゃん。死ぬっていうのは別の自分になるだけだしー」

「結構な哲学ですが、わたしは別の自分になるまで、あと六十年は生きていたいんです」

「おおー」

「……前から思っていたんですが、エレンハイム嬢とはどこで知り合ったんですか?」

「『プリティ』のお友だち募集欄」

「なんですか、それ?」

「女の子向けの雑誌だよ~。お友だちになりませんか、って書いてあったからお友だちになったんだあ」

「女の子向け雑誌? もし、大人の男で、悪い目的で投稿してたら、危ないですよ?」

「そういえば、いたよ。男の人。おちんちん、見せてきた。ちっちゃくてかわいいねー、って誉めたら、すっごく悲しそうな顔をして、どっか行っちゃった。お友だち失敗」

 ミカ嬢のリスク管理はかなりの強度を持っています。

「それよりもさ。ききたい? ハンサムくんとのこと?」

「ハンサムくん?」

「あのお巡りさん」

「ああ、ベネディクト警部のことですか。まあ、わたしも大人です。他人の色恋にくちばし突っ込んで野暮なこと、きいたりしませんよ。でも、どうしてもお話したいって言うなら、きかないでもないですけど」

「むむっ、じゃあ、教えないーっだ」

「嘘です。すごく興味があります」

「このあいだねー。デート行ったんだ。ヘロイン工場」

 ブッ!と噴き出すと、それが大きな泡となり、とぉっ!と、ミカ嬢のパンチで一万の小粒泡に生まれ変わります。

「でも、ヘロインってゴキゲンじゃない。ぐったりする。だから、今度、コカイン工場に行くんだあ」

 悪徳警部ならではのデートコースです。

「すごいよねえ。ヘロイン工場。ドアをさ、バーンでぶち破って、そしたら、お巡りさんがいっせいにスババババババーっ!ってなって、で、粉が白いの」

「ゴキゲン物質はだいたい白い粉じゃないですか」

「そうでもないよー。フェニルメチルアミノプロパンとか」

「え? なんて?」

「フェニルメチルアミノプロパン。透明だったり赤かったりするけど、一番ゴキゲンなのは青色」

「まあ、きっと、違法な麻薬なんでしょうね」

「え? 違法じゃないよ。ほら、さっきの自動販売機にも売ってたし」

 そう言って、ミカ嬢がキモノの袖から取り出したのは丸くて平らな缶に〈エナジー・チョコ〉と斜めに綴られた労働促進チョコレートでした。

 これ、わたし、食べたことがあります。夜目が利くというので、食べて夜に潜ってみたのですが、本当に夜の海が遠くまで見通せました。ただ、サルベージ中、マスクを外して、エネルギー!と叫びたくなる衝動と戦い続けるハメになり、使うのはそれ一度切りでしたが、まさか、そんなもろな麻薬だったとは。

 そんな代物をミカ嬢は開封しました。円盤状のチョコが六等分されていて、水のなかに浮かぶと、餌付けされた鯉みたいにパクパクパクっとミカ嬢は食べてしまいました。

「うううーん、ゴキゲン。出口が見えてきた」

 わたしは先を見ました。自分で吐いた泡越しに見えるのは直角に右へ曲がった進路です。

「右、右、左、右、左の順に曲がったら、ゴールだよ」

 本当にその通りでした。夜目どころか透視能力にまで目覚めるようです。

 そこのパイプ管の天井には点検作業員用のバルブがあり、それをまわすと、アスファルトにチョークをこするような音がして、ヒンジが抜けて、ひとりでに出口が開きました。油圧ポンプが蝶番に仕込んであるようです。

 冷却パイプから這い上がって見えたもの。それは巨大な機械の塔でした。空色に塗られた尋常ではない広さの空間を究極製造機械生命体ともいえるペンドラゴンM1000が占有しています。塔に巻き付くように並んだ百台の自動旋盤、世界で最も垂直な銃身削り用ドリル、コードでつながった蓄電ボトル、薬莢製造用真鍮プレス、調速円盤、動力源となる蒸気機関とそれに熱を供給する地熱伝導パイプ、機械の状態を数式化して提示するニキシー管。あちこちのベルトコンベアからはペンドラゴンM1からM999までの銃が曇りひとつない完成品として流れてきます。もうひとつ別のベルトコンベアからはビロードを内張した箱が口を開けて流れてきます。そして、ミトンをはめた鉄のアームによって一丁ずつ、丁寧に真心を込めて箱詰めされていきます。イルミニウスが見たら、嬉しすぎて、おしっこ漏らすんじゃないでしょうか。

 こればかりはいくらカムイでも持ち出せないようです。

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