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夕食後、ジーノと何をするでもなく、ぶらぶらしました。もう、雲の帳が夜の帳に乗っ取られ、歓楽街のネオンが遠くに見えます。ジーノが言うには密造ジンとへこんだ帽子を友に、人びとがカードにうつつを抜かす理由はストリップ劇場であられもない姿で踊る女性の下着に五ドル紙幣を差し込むためらしいです。そういう女性の下着に挟み込まれたお札はそのまま彼女のものになるので、お札を挟むと目の前でサービスをしてくれるらしいです。十ドル挟んだら、出番が終わってから、エッチをしてくれるそうです。
ジーノは根っからの博徒なので、つまらない下心で集中力が落ちるのは好ましくないようです。
「売女のネックレスを考えながら、フルハウスをそろえたやつはいない」
ジーノのギャンブル哲学によれば、ギャンブルとは人間の精神を研ぎ澄まし、純化する唯一の方法なのです。高さ二千メートルの岩山の上で暮らす修道士のように俗世の垢をふり落とせというわけです。
『ロシアンルーレットは?』と、手帳に書きます。
「あんなもん、やらん。ほら、見てみ?」
と、いきなりジーノがリヴォルヴァーをこっちに向けました。見れば、回転弾倉に真鍮のきらきらした弾丸が半分顔を出しています。
「前から見れば、次に弾が入ってるかどうか分かる。だから、意味がない」
なるほど。いいことをききました。しかし、それを教えるためだけなのに、なぜジーノは人差し指を引き金にかけているのでしょうか?
「わりい、わりい。癖になってんだよ」
貝剥き屋の集まるブロックにワインを出す酒場がいくつかあって、貝殻の剥き過ぎで発狂寸前の人びとの精神安定剤として機能しています。ただ、市内の密造酒事情を逐一耳に入れているジーノ曰く、そのワインは魚の卵と貝殻で出来ているそうです。魚卵と貝殻を砕いて混ぜてペースト状にしてから海藻で作った袋に入れて一日ゆでると、まずワインの素ができます。それは粘っこく、度も強すぎるので水で薄めるのですが、完成品はワイン愛好家に抗議の拳銃自殺をさせるほどの代物でした(彼は水没前は数千本のワインを自分用にストックしていたほどの人だったとのことです)。そんなことを言えば、ビールは蟹でつくるし、ウィスキーは製法はまだ不明ですが、絶対に大麦を使っていません。九割方はイモでつくったただ強いだけの蒸留酒で、問題は残り一割ですが、蒸留所の持ち主たちはがんとして口を割ろうとしません。その頑固さは商売敵に製法を知られたくないというよりは、知らないほうが幸せなこともあると言いたげにどこか寂しそうです。
「おれもウィスキーの密造を考えたことはある」と、ジーノ。「でも、最後の一割に何を使ってるのか知ったら、その気はなくなった。どうせ人肉か、酔っ払いのゲロを再利用してるくらいのもんだと思ってたけど、それよりひでえ。知らなかったころに戻れるならカジノの上がりを半分くれてやっていい。マジな話」
旧市街に戻り、ロンバルド通りへとのそのそ歩いていると、家がみな東へ沈んで傾いています。地下を流れる潮流によって土台を砂とすり替えられたため、こんな憂き目にあったのですが、奇々怪々な不動産投機の世界ではいずれ誰かが土台の砂をコンクリにすり替え返す技術が発明されるというおとぎ話が本気で信じられていて、これらの家がロンバルド通りの平均取得価格の三倍で取引されています。確かに一軒家ですし、三階建て、楡の並木があり、ゴミ混じりの芝生に張り出した六角形の書斎や立派なパントリーがついていますが、潮がいずれ残りの土台をさらっていくのは三歳児でも分かります。そうなったら、このあたりもわたしのサルベージポイントになることでしょう。
わたしたち卑小な人類が滅亡へと転がっているのは間違いないのですが、いまだドルには人間の死命を制する力がありますし、不動産投機も盛んです。不動産価格の高騰をもたらすものは鉄道路線かリゾート開発ですが、そのふたつがないのに、土地価格が跳ね上がっています。狂気の沙汰です。それに『お金で買えないものはない』という言葉と『お金で買えないものはある』という言葉が並び立っています。ちなみにわたしは後者のグループです。
「おれもカネで買えないものはあると思ってる」と、ジーノがいいます。「ダムダム弾五発ほど腹にぶち込んでやりゃあ、キャンデーひとつ買えないんだぜ?」
可能不可能の問題は状況に大きく依存している。意外なことですが、わたしの家の居候のなかでジーノが一番哲学者っぽいところがあります。本人は気づいていませんが。おそらく回転砥石に押しつけられる包丁みたいな生き方をしていくうちに世のなかをシニカルに見る目が養われたのでしょう。
バトラー通りの焼け跡まで来ました。ロンバルド通りまであと五分のところです。このあたりは水没直後にブロック丸ごと灰になった大火事があって、建物はみな崩れてしまっています。煙突と地下室の残骸にナマコ板を海藻糊でつけただけのバラックが続いていて、縦横に走る小道の軒にハリケーン・ランタンの吊るされたのがささやかな光を提供しています。本当にささやかです。隣を歩くジーノの七十ドルもする靴を踏むことはなくても、狭い道と道が交わる十字路に刃物を手にした凶漢が待ち伏せているかどうかまでは分かりません。
言い忘れていました。靴はジーノの生きがいです。銃も好きですが、あくまで仕事道具であり、趣味として好きなのは靴です。いっぱしのギャングスターなら五十ドル以下の靴を履くんじゃない、合成皮革? そんなもんぶっ殺しちまえ。正直、水たまりだらけでじめじめしているボトル・シティは靴愛好家に優しい土地ではありません。ただ、ジーノは極めているので靴を汚さないよう水たまりを避けて歩くなんてことはしません。どこの世界に水たまりにビビるギャングスターがいるんだよ? というわけです。カジノは順調でジェファーソン弁護士たちの縄張りも分捕っていて、市内に支店が十三もあるクリーニング・チェーンもやっているのですから、お金なら唸るほど持っています。靴が汚れたら新しいものを買うまでです。
バトラー通りの昼夜逆転型の住民たちがバラックの前にガタガタとテーブルを出して、商売を始めます。ここは縁日です――飲む、打つ、買うのどれかひとつが日常生活に悪影響を及ぼすほどになった人びとが飲んで、打って、買うための。もちろん、手ごろにお腹をいっぱいにしたい、手ごろに酔っ払いたいときに行くのもまたバトラー通りです。
質の悪い油を燃やしたときに出る黄色い靄をかき分けるようにして、前へ進みます。売り子の怒鳴り声。背ワタを取っただけのザリガニを生きたまま、沸いた油に放り込み、パン油を注文すると、魚粉パンに魚油の壜がついて出てきます。流しのバンジョー弾きの頭のなかには二百曲以上の懐メロ。密造酒と大笑いする女性とダンス。廃棄された電気椅子をスツールに使う居酒屋。
〈偉大なマジシャン、ロバート・カーストン〉が民衆劇場で奇跡を見せるとがなり立てる黄色い髭の老人がいます。民衆劇場というのは板張りの小屋でちょっと風の強い日は演者も客も死を覚悟するレベルでぐらぐらゆれます。こんな頼りないバラックに民衆の名を冠させるあたり、〈民衆〉を貶める目的があるとしか思えません。タチアナ女史がここにいなくてよかったです。これを見たら、即武装革命です。この劇場、表の不自然な位置に〈安全第一〉の文字があるところを見ると、この板材はどこかの鉱山から持ち出したもののようです。
〈護身用バット 正真正銘のルイヴィル・スラッガーにユナイテッド鋼の釘四十二本を使用!〉の売り文句の下にぶら下がる原始時代の凶器たち。逆さにして熱した鍋にペンキの刷毛で雑魚のミンチを塗りつけてつくるフィッシュ・チップス売り。親切な金属加工職人に作ってもらった義足をつけた野良犬。詳細不明の自治地区宣言と警察に対するたっぷりの賄賂で許された罪人処刑ショーの『本日の処刑は終了いたしました』と髭だらけのむさい生首が三つ(悪人とはいえ人命にかかわることなので二ドルと高いです。でも、いつも切符は売り切れです)。昆虫が悪進化したのかと疑いたくなる騒音メーカーのバイオリン奏者と足で踏まれるので切り落とした燕尾服。まったくにぎやかです。
入れ墨パーラーはボトル・シティ市内では高所得に分類される職業です。だいたい水兵や漁師、商船の船員というのは入れ墨が好きです。長い船旅で船員同士が彫ってやることもあるようですが、絵柄と技術がいまいちですし、安全性の問題もあります。チクチク刺して墨を入れたところから傷が化膿して腕を切断したとか。そこでプロの出番です。プロは安全ですし、絵柄も色も充実しています。いま、そこでプロがシャツとパンツを脱いでうつ伏せになった男の背中に専門の機械で〈蟹に食われた天使〉を描いています。パーラーのガラスドアには見本が額に入っていて、絵柄もいろいろあります。帆船、水兵に扮した女性、鷲、火を吐く悪魔。腕を組んだ船乗りが自分のお徳用ワイン壜より太い腕に入れたい絵柄を選んでいます。わたしも本気で入れ墨を彫ってもらおうかと考えたことがあります。手のひらに『わたしは会話ができません』と法律文書向けのカクカクしたフォントで彫ってもらおうと思ったのです。あれは恐怖の居候たちが我が家になだれ込む前の話で、三日連続で真夜中に「おれと世界のラブを語り合おうぜ!」とバカモノがわたしを叩き起こしたのです。わたしは、あ、あ、お、う、と呻くしかできず、あのバカモノはそれからひと晩じゅう、ラブについて一方的に話して、空が白み始めてから グッバイ!と去っていきました。居候に棲みつかれてからはあまり見かけていませんが、あの手のバカモノはいま、どこで何をしているのやら。オオメジロザメにでも食べられて、生態系の窒素化合物サイクルのなかをぐるぐるまわっていればいいのですが。
ロレンゾは確か左腕に『12』と彫ってあったのを見たことがあります。これは悪い大人にタダ働きさせられていたころに彫られたもので、管理の必要上、彫られたものでした(この世界のどこかにはロレンゾが行った暗殺の数々を記録した台帳のようなものがあるそうです)。それから、これはロレンゾからきいたのですが、ジーノは右腕にエース三枚と8が二枚のトランプ、つまりフルハウスを自分で彫ったそうです。そのそろえたフルハウスの下にリボンが流れていて、そこに『Fullhause』とあります。正しくはaではなくoですが、ジーノはまだ気づいていないそうです。
ロンバルド通りの我が家に戻ると、明かりがついています。カンテラ型の電灯がふたつ、テーブルに置いてあり、ロレンゾが座ったままぐっすり寝息を立てています。珍しく熟睡しているのか、わたしたちが帰ってきても気づきません。ナイフは体のあちこちにつけたままなので、起こして敵と間違えられると嫌です。
すると、ジーノが毛布を持ってきて、ロレンゾを優しく包みました。ジーノも兄なわけです。
「本当にクソみたいなやつらに使われてたんだ」
ジーノは壁によりかかり、煙草を一本、箱から振り出しました。
「ロレンゾは子どもを殺した。ロレンゾが十二歳、そのガキが五歳。あのクズどもがなんで五歳のガキの命を欲しがったのかはいまでも分かんねえ。分かりたくもねえよ、んなもん。ただ、確かなのはそんな殺しのせいで、ロレンゾのなかが少しずつ歪んでいったことだ。元に戻るまでどんだけひどい目にあったかやつらに教えてやりたいが、もう全員地獄送りにしてやったからな。チンポコから喉までパックリ」
マッチをすって、煙草に火をつけると、ジーノは言いました。
「笑いながら泣くやつを見たことがあるか? おれはある。ロレンゾだ。子どもを殺したときは決まって、笑いながら泣くんだ。どうすりゃいいのか分からなくてな。おれがギャングになった理由は分かるか、グレイマン? ロレンゾを使ったクズは四人、警察と政治家と社長と司祭だ。そうなったらギャングになるしかねえじゃねえか」
なはは、とジーノは笑いました。
「ギャングほど素敵な職業はねえってわけよ、まったく。おれが話したことはロレンゾには内緒だぞ」
これはジーノなりにわたしを信用してくれた証のようです。




