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ペンドラゴン氏は男尊女卑には反対であり、というより性別というものを重視せず、人間を、銃を作れる人間とそうでない人間に分けていたそうです。
なるほど、アイアトン氏と出会って、こそこそ逃げる途中、ウーマン・ガンを見かけました。食堂の調理場で男女が言い争う声がして、四五口径弾をホワイトチョコでコーティングすることが邪道かどうかを銃をふりまわしながら口論していたのです。女性側はなし、男性側はありとの主張に立っていました。今更ながらですが、マン・ガン、ウーマン・ガンともに銃弾を食べて生きています。彼らはわたしたちがこっそり通り抜けていることに気づかないほど怒っていたので、字に起こすことが激しくためらわれる罵詈雑言さえ我慢すれば安全は保証されます。わたしたちが食堂の床に倒れた最後の椅子を何とかまたいで、外に出る瞬間、銃声が二度しました。振り返ると、1)婦人用の髪留め 2)髪と脳漿 3)婦人用護身ピストルの破片、以上1)~3)を吐き気を催す邪悪さで混ぜたものが冷蔵庫に飛び散っていて、コック風の帽子をかぶったマン・ガンがひとり、上機嫌に口笛で『タイガー・ラグ』を吹きながら、四五口径弾を溶けたホワイトチョコレートのなかにざらっと落とし込んでいました。
その昔、遠い外国の、ある田舎町を国王ご一行が通りがかったら、町人たちは興奮して、町で貯めていたお金を全て使って歓迎の式典を行い、さらに町人たちは老若男女を問わず興奮して、自宅の家具を叩き壊し、家畜を皆殺しにして、家に火をつけて、脱いだ服を全部火に投げて、裸で明け方まで踊り狂い、翌朝になって自分たちのしたことに気づいて顔を蒼くしたという話をアンドレアス伯父からきいたことがありました。なぜ、この話をいま思い出したのか? なぜでしょうね。まあ、女性に備わっている冷静で現実主義的な面がこの狂気の楽園では何の役にも立たなかったことを知ったことと関係があるのでしょう。両手がウツボになるのは男だけとは限りません。ウツボ女に五百ドルの賞金をかけた張り紙を見たことがありますし、ある賞金稼ぎの一団が獲物をトラックのボンネットにくくりつけて、走りまわっていたのですが、あのときの化け物は間違いなく蟹女です。どちらも罪状は子どもを食べたことでした。まず我が子を。次に近所の子を。
そんなわけで我々卑小な人類は狂気に慣れているのです。そして、そんな我々でもゾッとするほどペンドラゴン研究所は狂っています。さらなる援軍を要請しなければならないことは明らかです。幸いなことにわたしはアイアトン氏に導かれて逃げている途中、タチアナ女史を見つけることができました。彼女は弾薬箱に乗っかって、あまり地位の高くないマン・ガンたちを相手に経営者たちに対する武装革命の必要性を演説していました。マン・ガンたちはみな何か怪しげな飲み物でも飲んだみたいに口を開けて、コルダイト火薬のにおいがするよだれを垂らしていたので、彼らが正気に戻る前に彼女を連れ出し、一度地上世界に戻ることの必要性を説得しました。わたしは誰かを説得するとき、箱は使いません。仰々しいレトリックも使いません。それどころか言葉も使いません。これでなぜ誰かを説得できるのかたずねられたら、まあ、一朝一夕にはならない職人技があるのだとこたえますが、あえてコツがあるならば、正しいタイミングに正しい人選でもって筆頭会話代行人を任命することとこたえておきましょう。
このとき、わたしの筆頭会話代行人はアイアトン氏でした。彼が自分を正義のために身を捧げるジャーナリストであることをさりげなく前提に置いたため、タチアナ女史の印象は非常によろしいものになり、〈ナ・ヴロードナ号〉で地上へ戻ることを了承してくれました。アイアトン氏はまだまだやることがあるので一緒に地上には戻らないそうです。
タチアナ女史は機関銃を八丁と弾薬三千発という気の遠くなるような荷物を確保していました。これを〈ナ・ヴロードナ号〉で運ぶのは絶対に無理だと思っていました。重量と体積の問題であのプロレタリア潜水艦は耐えきれないと思ったのですが、どういうわけだかわたしたちはそれを運び出し、しかもロンバルド通りの我が家に保管することができました。ただ、その過程の記憶がありません。気づいたときには自分の部屋の床に倒れていて、全身が疲労で悲鳴を上げていました。酔っ払い運転や麻薬中毒者、ウツボ男にサメ女、それに泥酔状態のジーノやブラザーコンプレックスを発症したエレンハイム嬢と、この世には避けるべき危険がいくつもありますが、人力潜水艦もそのリストに加えましょう。恐ろしい話ですが、機関銃八丁に弾薬三千発など一分もかからず撃ち尽くすのでもっと弾丸が必要そうです。そういう話はわたしではなく、カムイにすべきです。実際、そうしています。部屋の外から声がきこえるのです。
「同志カムイ。革命を完遂するためにきみの力が借りたい」
「おお! いいぞ! 力仕事は好きだ!」
そうです。何事も適材適所です。
夕闇がじわじわ冷たい空気と一緒になってやってきます。窓から通りを見下ろすと手鉤をつけた杖を手にした女性たちが籠を背負ってうろうろしています。わたしが拳銃狂人たちを相手にデス・ペナルティな鬼ごっこをしているあいだに高潮があったらしく、そこらの水たまりに魚が跳ねているようです。食べ物のことを思い出した瞬間、猛烈にお腹が空いてきました。革命組織のために武器弾薬を運ぶ重労働がわたしの体内にある栄養分を全部燃やし尽くし、わたしは現在、エネルギー的すっからかん人間になっているのです。こういうときは牡蠣の出番です。熱いオイルとからっからのパン粉。ガーリックとバジル。魚市場のまわりにある、オイスター・ロックフェラーのおいしい店がいくつか頭に浮かびました。ケッパーの効かせ具合が絶妙な〈フランソワ―ズ〉。ソースにワカメのピューレは使っていないと言っている〈ガーデン〉。ですが、今日は〈ブラック・ロバーツ〉です。〈ブラック・ロバーツ〉は牡蠣が一番大きいのです。
歩いていく気にはなれないので、乗合自動車をどこかで捕まえられればいいのだけどと思って、部屋を出て階段を下ると、表通りに出る玄関ホールでふたりの女性が大きな鱸に手鉤を刺して、自分のほうが先に引っかけたと綱引きみたいなことをしています。おい、お前、どっちが正しいか判定しろと言われそうなので裏から出ましょう。わたしくらいになると、会話リスクをすぐに割り出し、最適なルートを設定することができるのです。
わたしの住んでいるアパートは裏口が中庭を通った向こうにあります。弱った芝生とずぶ濡れのベンチ、それに藻が垂れ下がった街灯があるだけの小さな庭ですが、そこにロレンゾがいました。いつもの黒装束姿です。真昼から仕事に励んでいたので、今日はもう上がりなのでしょう。彼はわたしが後ろを歩いているのに気づきませんでした。ロレンゾは気配を消す以上に気配を察するのが得意なので、これは意外です。そこまで何かに打ち込んでいるということはきっとジーノが何かをやらかしたのでしょう。子どもの列に走行中の自動車から機関銃を乱射したとか。ちょっと立ち止まって、そっとまわり込んで見てみると、ロレンゾは腕に軸を固定するタイプの刃物をドライバーで装着しているところでした。その刃物なのですが、三日月形の鎌がついています。そんな鎌は子どもを脅かす絵本のなかの死神くらいしか使わないような代物ですが、それが両腕についています。以前、刃物の専門店で暗殺用のナイフを少しうっとりして見ていた気がしますが、それだけならば、わたしも何も言いません。ロレンゾはその刃物のスイッチを押して、カチッと刃が飛び出すのを確認して、
「くっくっく」
と、笑ったのです。
さきほど『わたしは何も言いませんが』と言いましたが、わたしは言ったのです。
「……ロレンゾ、大丈夫か?」
自分から質問したのです。このわたしが。
しかも、わたしはそれに返答を求めたのです。
普段のわたしなら絶対自分から話しかけないし、話しかけたとしても、これ以上の会話をしないために返答は絶対に受けつけず、むしろこたえられる前に逃げるという本末転倒なことをするのですが、このときは何もかもが異常でした。
わたしはロレンゾにいつもの冷静な口調で「ああ、問題ない」と言ってほしかったのですが、ロレンゾは新品の刃物の具合を調整しながら、クスクス笑っています。
今日一日、武器に狂った男たちに追いまわされたから分かるのですが、ロレンゾの刃物に対する反応が完全にマン・ガンの銃に対するそれと一致しているのです。
しかし、こういう危機においてはわたしもそれなりの対応手段を持っています。水没前の平和な都市の住民なら、平和ボケもするでしょうが、町全体が水浸しスラムと化したこの世界では生き残るのにはそれなりの努力が必要なのです。
わたしは後ろ歩きで一歩二歩とゆっくりロレンゾから離れ、彼の刃物鑑賞を邪魔しないよう、そっと裏口から出ていきました。ただでさえ、疲れたわたしはしゃべったことでますます疲労困憊し、一刻もはやくオイスター・ロックフェラーを食べなければいけません。倒れてしまいます。倒れたら最後、手鉤に引っかけられて籠に入れられてしまいます。裏口からまわり込んで表の玄関口へとまわり、今にもバラバラになりそうなオンボロの乗合自動車を見つけ、乗りました。
トラックの荷台にボロボロの帆布で屋根をつけただけのバスもどきには水産物を箱詰めにするというエキサイティングな仕事をしている男たちが乗っていて、みな夜勤シフトで魚市場そばの加工場に向かっているのでした。彼らはしゃべらない人間は耳もきこえないと誤解していて、既に遂行された殺人とその後始末について、べらべらしゃべっていました。何でも、彼らを魚臭い連中と馬鹿にした色男がいて、その色男が彼らの妻を片っ端から誘惑しまくって男女の関係になったらしいのです。それで、彼らは色男を殺したのですが、死体の始末に困り、ひとまず冷蔵庫に入れて、その後バレないよう少しずつ魚の切り身っぽく見えるよう切り刻んで箱に詰めて出荷したと。おぞましい話ですが、それで終わりではありません。なんと、その色男氏はまだ半分残っているのです。作業員たちは警察に探られている気がするから、箱詰めを少し急ごうかどうかという相談をしていました。
「渡り蟹の缶詰ならあと三百グラムはいける」
では、しばらく渡り蟹の缶詰は食べません。
「サケの箱はもう限界だな。タラは一日あたり六百グラムいける」
タラも食べません。
「なんとか一キロ入れられないかな」
「無理だろ。味で気づかれる」
「そんなに魚の味なんて分かるやついないだろ」
「人の味でバレる。三軒隣の、いかにも大学教授でございって上品なじいさんがいるんだがな、そいつ、いつもレパントのサケ缶を買ってたのに急にうちのサケを買い始めたんだよ。気になって、記録をつけてたら、サケにあいつを混ぜてた時期と一致してるんだな。サケをやめて、メヌケに混ぜてたらサケをやめて、メヌケの箱詰めを買う。間違いないぜ。あいつ、人喰いだ」
「人肉を缶詰や箱に混ぜるようになって困るのはパラノイアになりかけるところだよな」
「いや、結構人を食ってる人間は多い」
そう言って、三人はわたしを見ました。心外です。わたしは人なんて絶対に食べません。
ぐちゃ、ねちょ、と車がゆれました。タイヤが道いっぱいに広がったダイオウイカの死骸を踏んだのです。地下には狂人たちの銃研究所。人力潜水艦。刃物に微笑む店子。人肉を缶に詰める男たち。そして、イカ。素晴らしきかな、人生は。
新港湾地区の魚市場前で車は止まり、男たちは近くの水産加工場へと歩いていきます。ブラックモア水産。覚えておきましょう。
〈ブラック・ロバーツ〉は煉瓦造りの元倉庫で、大きくて火力のあるオーブンを持っています。一度に二百人分のオイスター・ロックフェラーを焼けるくらいの大きさです。緑色に塗ったドアを開けようとしたら、向こうから開いて、お腹を撃たれた男があらわれました。お腹を撃たれたにしては元気なようで「医者を呼んでくれ!」と叫んでいます。割れたホットソースの壜みたいに赤い点々を道に残しながら、去っていく彼を見送ると、足元に何かがキラリと光ります。見覚えのあるバッジです。これは例の自警団のようです。次には前掛けをしたふたりの男が担架でもうひとり自警団員を運んできましたが、こちらは意識不明です。何があったのか、ちょっと小首をかしげていると、担架の片割れが言いました。
「マヌケがふたり、相手を知らずにからかった」
またイルミニウスでしょうか? ですが、イルミニウスが撃ったのなら相手は即死しているはずです。ということは……。
「ヘンリー・グレイマン! よう! こっちに来てくれよ!」
ジーノです。どうやら、あのふたりはジーノに生の牡蠣をおごったようです。ジーノは生牡蠣に目がなく、それにたまたま天然の高価なレモンを手に入れられるツテがあったので、生牡蠣を堪能したとか。ということは自分に牡蠣をおごってくれた快い自警団員をなぜ半殺しにしたのでしょうか(しかもひとりはもう全殺しになっている可能性が高いのです)。
「それがさ、おれも変だなと思ったんだよ。あいつらはへらへら笑ってるし。それで、おれ、気づいたんだよ。牡蠣って海のミルクって言うだろ? 酒場でミルクをおごられるってことだよ。人をガキ扱いしやがって」
そんな肩がぶつかった程度のことで人をふたり撃ったわけです。
しかし、そのことを倫理面から非難するにはわたしはお腹が空き過ぎていました。わたしはジーノに相席すると手をふって店員を呼び、手帳に書いて、オイスター・ロックフェラーと蟹ビールを頼みました。
「おれはカモメのガンボにしようかな。あと、ウィスキー。本物。グラスの縁まですれすれで注いでくれ」
ガンボときくと、無性に食べたくなります。わたしは店員に三位一体のガンボを注文しました。
ガンボというのはシチューの一種です。ルールはとにかく濃く作ることで、サンショウウオ・パウダーでとろみをつけ、ウツボの脂を溶かし込んで胃もたれするほどのこってりさをつけ、発育不良のくずみたいな野菜が溶けてスープが泥水みたいになるまでじっくり煮込みます。色が泥に近ければ近いほどいいガンボです。ジーノのガンボは焼いたカモメを入れるガンボで、わたしのガンボは三位一体――渡り蟹とザリガニとロブスターが入った甲殻類のガンボです。これだけの具は固定で、後はその日の市場の水揚げによって、具が変わります。
スープ鉢に入ったガンボが届きました。においからして濃厚です。霧吹きに入れて吹きかければ、実に美味しそうな人間と思われることでしょう。ジーノのガンボはついていることにリスが二匹入っていました。わたしのほうは真っ赤になった甲殻類たちの足とハサミがボールから飛び出しています。オイスター・ロックフェラーはというと、殻の上で熱いオイルがパチパチ跳ねています。これだからオイスター・ロックフェラーはやめられません。あとはジーノがこれ以上人を撃たないよう祈るばかりです。
ジーノは一方的に話しています。彼が言うには自分は一日に一回、いいことをすることにしている、そして、今日のいいことはイカサマ師の手をハンマーで叩き潰したことで、そのおかげで世界は昨日よりちょっぴり善良になったらしいです。
「あと二、三人、汚職ポリを地獄に送れば、もっとよくなるんだがな」
わたしは手帳を取り出して、残念ながらロレンゾが刃物に魅せられてしまったことを伝えました。
「そんなの前からだぞ? あいつがやばいくらい刃物に執着するの」
は?
「そういやあ、ここに来てからはあんまりやってなかったな。まあ、昔は自分の商売道具、つまり刃物に名前をつけてかわいがってた。最近はまともになって、それはしなくなっていたんだが。あいつとはガキのころから基本的に一緒だったけど、一時期悪い大人どもにそそのかされて、ヤバい殺しをタダでさせられてたことがあった。そのときはもう、こいつはいろいろな意味でダメになったかもしれないなって思ってた。ロレンゾも善悪の判断が自分でつけられるくらいになったら、自分をさんざん利用したクズのことは自分で始末をつけた。あいつ、そのクズのペニスのすぐ上にナイフを刺して、そのまま喉元まで一気に切り裂いたんだよ。ほら、アンコウの内蔵全部引き出すみたいに鉤に吊るしてさ。そのときは笑ってたっけ。そう、ちょうど、その蟹のハサミに似たナイフでギザギザまで一緒だ」
残念なお知らせです。ロレンゾはやはりジーノの兄弟でした。
「まあ、昔に比べると、すげえよくなったんだ。仲良くしてやってくれ」
うーん。刃物に名前をつけるくらいならば安全な気もしてきました。夜中にわたしを叩き起こして、「愛についてひと晩じゅう語り合おうぜ」と言ってくるわけではありませんし。オイスター・ロックフェラーを食べることに集中しましょう。




