第二十七話 そは絶望の底から現れし希望
前回のあらすじ:
ジェニとローザの味比べ
「……ひどい目に遭ったわ」
もういったい何十度目の嘆息か、ローザは独りごちた。
元気なし。体に力が入らない。普段のように凛としていられない。
かっぽ、かっぽ、騎馬の歩行に合わせて揺れる鞍上で、ローザの体もふにゃふにゃと揺れる。
アーカス州都――同名のアーカス。
その栄えた目抜き通りを、ローザは領主居城へと単騎、ゆっくり向かっていた。
南部長官府ブューリィにて、吸血鬼カイ=レキウスにけちょんけちょんにやられた、その敗戦報告のための登城である。
当然、気が重い。
しかし、彼女とてただの小娘ではない。一流の騎士だ。
城門をくぐるころには背筋も凛と伸びて、態度も毅然たるものに改まっている。
きっちり気持ちを切り替えている。
ナスタリア伯ナターリャは今回も、公的な謁見の間ではなく、私的な彼女の居間での面会を約束してくれた。
おめおめと生き恥をさらすローザへの、配慮と慈悲であろうことは間違いなかった。
本当に優しい、仁君であった。
(それを悪逆呼ばわりしたんだから、ジェニの奴、目が腐ってるとしか言いようがないわ!)
思い返しただけでローザは、義憤の念が新たになる。
◇◆◇◆◇
ナターリャの居間に招かれたのは、これでもう何度目だろう?
貴人と相対するのに、さすがに剣こそ侍女に預けているが、ローザは己が特別目にかけてもらえていることを、喜ばしく思っていた。
「騎士ローザ、ただ今ブューリィより帰参いたしました」
女伯爵のすぐ御前で、ひざまずいて頭を垂れる。
だから寝椅子にしどけなく横たわる、ナターリャの顔は見えない。
居間に敷かれた、血のように真っ赤な絨毯が、視界に映るだけ。
「よく生きて帰ってくれたわ、ローザ。早速、報告を聞かせて頂戴。件の吸血鬼は、エルフの秘術を以ってしても、斃すことはできなかった化物ということなのよね?」
「はい、伯爵閣下。それどころかジェニは――」
ローザは仔細を報告する。
特に、ジェニが邪悪な吸血鬼に寝返ったくだりは、憤懣なしに語ることはできなかった。
一方、報告を受けたナターリャが、果たしてどんな感慨を抱いたか――
「……そう。本物のカイ=レキウスだと言ったのね。あのジェニが。他でもない長命種が」
何か激情を押し殺したような、聞いた物を底冷えさせるような、そんな声で呟いた。
慈悲溢れる女伯爵の、こんな恐ろしい声音を聞いたのは、初めてだった。
ローザは思わず背筋を震わせ、視線を上げてナターリャの表情を確認してしまいそうになる。
こっちの気を知ってから知らずか、ナターリャは冷酷な声音のまま続けた。
「吸血鬼の軍勢は、南部長官府を制圧した後、とるものもとりあえず東部長官府への侵攻を開始したと、既に報告が上がってきているわ。東部長官は既に討たれ、これに抵抗するのは不可能でしょうね。結果、我が都の包囲網は完成し、直に吸血鬼はここまで攻め入ってくることでしょう」
「ね、願わくば、伯爵閣下! もう一度、この私にチャンスをお与えください! 今度こそ彼奴めを討ち、御身をお守り申し上げます! 伯爵閣下にひろわれたこの身命を賭して、必ず果たしてみせます!」
「そう……あなたの気持ち、とてもうれしいわ。ローザ」
ナターリャの声音が、ようやく慈愛あふれるものに、戻ってくれた。
ローザはホッと一安心する。
「ねえ、ローザ」
「は、はい、伯爵閣下!」
「私を大切に思ってくれる、あなたの気持ちは本物だわ。この欺瞞に満ちた世において、いっそ尊いほどの誠心だわ。だから、あなたには私の大切な秘密を見せてあげる」
「よ、よろしいのですか!?」
ローザは反射的に聞き返した。
他でもない領主が秘密にしているものを、一介の騎士風情が目にしてよいものかと、畏れ多かった。
「ついてきて、ローザ」
しかし、ナターリャは彼女の遠慮を笑い飛ばして、手招きする。
ローザもならばと随行する。
ナターリャが向かったのは領主の居城でも、ナターリャ個人のものの性格が強い一角、その奥の奥にある温室だった。
大輪の華が咲き乱れ、思わず状況を忘れて、うっとりするほどである。
「私自身で手入れをしているのよ。喜んでもらえて、誇らしいわ」
「あ……ハイ! とてもステキだと思います! さすがは伯爵閣下、美意識もアーカス随一かと!」
「フフフ、お世辞でもうれしいわ」
ナターリャはそう言いつつ、温室のさらに奥へと進む。
そこには小奇麗な納屋があって、鍵を開けて入る。
中には花壇を管理するための器具や道具が、整然と棚に収められている。
そして、地下へと続く階段が。
「さあ、着いたわ」
ナターリャはそういうと、無造作に階段を降りていく。
ローザも続くしかない。
しかし、階段を降りるすがら、地下から吹く冷気に首筋を撫でられ、ヒヤリとさせられた。
地下には常時、松明の灯りが点されているようだった。
真横から照らされ、ローザの影が、石畳の上にひどく伸びた。
おかげで明かりに困らず、地下室の様子が一望できた。
石牢であった。
数えきれないほどの少女たちが囚われ、鎖で壁につながれていた。
皆、生気を失った顔をしていた。
その目はもう、絶望しか見ていなかった。
ナターリャとローザが来ても、誰もが無反応だった。
「こ、これは……っ」
「私がアーカス中から、十四歳になる貧しい少女を集めているのは、知っているわよね?
「は、はい……。しかし、それは彼女らが食うに困って、体を売ったり、犯罪に走ったりするのを、防ぐためでは? ちゃんと教育を与えて、然るべき仕事を与えるためでは?」
「もちろん、それもやっているわ。でも、本当にお気に入りの娘たちは、誰にも渡さないの。ここにずっと閉じ込めて、毎日、愛でてあげるの」
「は……?」
「綺麗な娘の血を好むのは、何も吸血鬼だけではないのよ?」
ナターリャは艶然と笑った。
凄絶なまでに美しく――同時に、どこかおぞましい笑顔であった。
「ど、どういうことですか、伯爵閣下!?」
まだ信じられない想いで、問い質すローザ。
ナターリャは答える代わりに、その場でタタンと足踏みをし、石畳を鳴らした。
それは「反閇」という魔術式だった。
騎士にすぎないローザも、今では知っていた。
対魔術師のために、他ならぬこのナターリャから、魔術のイロハを教わった時、仕入れた知識だ。
そして、ナターリャの魔術が発動する。
優美そのものの彼女の姿かたちが、変貌していく。
胴より上はそのまま、しかし下半身が縦に縦に際限なく伸びていく。
天井スレスレまで上昇していくナターリャの顔を追って、唖然となったローザの視線もまた徐々に上がっていく。
ナターリャの変身が完了した。
あるいは、正体を現した。
彼女の胴から下は、巨大な大蛇のそれに変わり果てていた。
口から覗く舌もまた蛇のそれで、先端が二又にわかれていた。
「ら、蛇女……」
ローザは愕然となって呟く。
まさか、敬愛するナスタリア伯の正体が、栄えある帝国貴族の本性が、こんなバケモノだったとは!
ラミアーとは、人の生き血を啜って糧とする、半人半蛇の妖魔である。
「ローザ、この役立たずちゃん? 相手が史上最強の大魔術師その人だと判明した以上、もはやあなたに剣を求める意味はなくなったわ」
天井スレスレの高みから、ナターリャが嘲弄する。
「でもそれでも、あなたが私のお気に入りであることは、変わらないわ? いつかあなたの血を啜る日を、私は楽しみにしていたのよ!」
二又にわかれたそれで、ちろちろと舌舐めずりする。
ローザはまさしく蛇ににらまれた蛙のように固まったまま、ジェニの言葉を思い返していた。
――家畜を大切に育てるのを、あなたは仁愛と呼ぶのか?
――家畜をどう扱おうと所詮、最後は同じだ。貪り、喰らうだけだ。
――ナスタリアは、せっかくなら美味いものを食べたくて、手間をかける主義だというにすぎん。
ジェニの言うことが正しかったのだ。
ジェニは真実を知っていたのだ。
嗚呼、自分はなんと愚かな小娘であったのだろう!
こんなバケモノの甘言に、今までずっと誑かされていたとは!
ローザは絶望した。
石牢につながれた、他の娘たちと同じ目をしていた。
そんな自分を見て、ナターリャは満足げにしていた。
血を吸うため、腰を屈めた蛇女の、おぞましくも美しい顔がにじり寄ってきた。
ローザは動けない。
抵抗もできない。
腰の剣は、侍女に預けてしまっていた。
このまま化物の餌食になるしかない。
そう思っていた――まさにその時だ。
クククク……。
ハハハハハ……。
ハハハハハハハハハハハハハ……!
哄笑が、石牢に響き渡った。
ローザのよく知る笑い声だった。
ムカつくほどに憎らしく、いっそ羨むほどに堂々とした、王者の笑声。
「何奴!?」
と、ナターリャが鋭く誰何した。
「下郎。誰にものを訊いている?」
と、声が不快げに切って捨てた。
同時に、石畳に伸びたローザの影から、何か黒いものが大量に噴き出てくる。
蝙蝠だ。
無数の、蝙蝠の群れだ。
それらが寄り集まり、溶け合うようにして、一つの影を形作る。
吸血鬼の真祖。
カイ=レキウス……!




