最後の肖像画
ある日、パウルは「自室に飾る絵を自分で選びたい」と思い立ち、敷地内にある絵画美術館へと足を運んだ。
「ちゅてきな絵がいっぱい!」
世界最高の絵画美術館の中を、縦横無尽に走り回り――絵を選ぶことを忘れ、顔を近づけてみたり、離れて見てたりと鑑賞に没頭していた。
飾られている絵は、どの絵も美術館の目玉となり得るものばかり――一言で表すならば圧巻。
幼い頃からシャルルに連れられ訪れ、鑑賞していたパウルだが、まだ見ていないものの方が遙かに多い。
「あえ? あえぇぇ?」
すっかり鑑賞に没頭していたパウルは、不思議な一枚の肖像画を見つけた。
それは手が込んだ一点物だと一目で分かる額縁で飾られた、300号の肖像画――そこに自分が、見たこともない人物と一緒に描かれていた。
「ボナおじしゃんと、おんなじかっこうしてゆ」
”ボナおじしゃん”ことボナヴェントゥーラ――現教皇と同じ格好をしている、椅子に座った気難しそうな老人と、その隣に立っている聖職者の恰好をしている自分。
「……だれかな?」
不思議に思ったパウルは駆け出し――
「ああ、それはあなたのお父さまと、先々代教皇イシュトフ五世の肖像画ですよ」
絵画のことなら何でも知っているシャルルに尋ねた。
シャルルは絵画を見ることなく、パウルの説明だけで、どの絵なのかすぐ当てた。
肖像画を描いた画家は名声高く、その名声に相応しい技術を持っており、モデルも教皇と聖王子と選りすぐりで、作品としては見事なものだった。
とくにモデルの表情の描写は素晴らしく、何とも気難しい仕上がりになっていた。
「おとうしゃまと、じっじのぱっぱ!」
モデルの表情はともかく、パウルは賢いので、先々代がなにを指し示しているかは理解し――彼の中で答えを導き出した。
もちろん先々代教皇は、先代教皇の父ではないのだが、その辺の説明をシャルルは割愛した――「じっじのぱっぱ」でも、全く問題はないとして。
「気に入りましたか?」
モデルの表情と陰気な雰囲気はともかく、作品としては見事なものなので、なかなかの審美眼ですね、パウル……と思いながらシャルルは「飾るんですか?」と尋ねたのだが、
「じっじのぱっぱって、どんなひとだったの?」
パウルは絵を飾るよりも、モデルになったじっじのぱっぱが気になってしまい、自分の部屋に飾る絵を探していることは、すっかりと忘れていた。
「わたしは会ったことないから、あまり知らないんですよ。元教皇がおそらく一番詳しいでしょうね。次はあなたのお父さま、マックスも少しは知っている筈ですけれど」
シャルルにそう言われ――パウルは父親のリリエンタールのところへ行き、ズボンを引っ張り再び絵画美術館へと向かい、自分が描かれていると勘違いした絵の前へと連れていった。
「クレメントのことが聞きたいのか」
「くぇめんちょ?」
「イシュトフ五世のもう一つの名前だな。パウルの名前の一つ、クレメンスはこのクレメントから拝借したものだ」
「くぇめちゅ! そうなんだ! はい、じっじのぱっぱのことをききたいです!」
――じっじのぱっぱ……まあ……それでいいか
シャルル同様、リリエンタールも訂正はしなかった。
リリエンタールはパウルを抱き上げ、教皇の部屋でバナナを食べさせられた話を語った――三本も渡され、食べきることができずボナヴェントゥーラとストックに分けたことなど。
途中途中で抱き上げているパウルの表情をうかがうと、目を輝かせ楽しそうに聞いていた。
「おとうしゃま!」
「なんだ、パウル」
そして話を聞き終えたパウルは、リリエンタールの血色の悪い頬を両手で挟み込み、力を込めて振り回す。
「じっじのぱっぱは、バナナをおとうしゃまとはんぶんこにしたかったんですよ!」
当時のリリエンタールには、バナナ一本が多すぎて大変だった……と聞いたパウルは、唐突にそんなことを言い出した。
「半分……を、クレメントに渡せばよかったと?」
「そうです!」
それは自信に満ちあふれた表情で、パウルは宣言し――
「じっじのぱっぱに、ばななを!」
リリエンタールはパウルが何をしたいのか、さっぱり分からなかったが、パウルが「ばなな! ばにゃにゃ! ばーにゃーにゃー!」と叫ぶので、抱きかかえたままイシュトフ五世と幼い頃の自分が描かれた肖像画の前から去り、召使いに指示を出しバナナを一房、パウルの遊ぶ部屋へと運ばせた。
「じっじのぱっぱのしゃしんとか、まちゅわゆものは、ないですか?」
パウルは房からバナナを一本ずつ取り外しながら言い――何をしたいのか、やはり分からないリリエンタールだが、息子が希望していることは叶えるのが信条なので、クレメントの写真と、まつわるものとして彼から譲り受けた数珠と聖典をパウルの前に差し出した。
パウルの指示でそれらはテーブルに飾られ、
「じっじのぱっぱは、ばななをたべたかったんです! だから、おいしいばななを、ぱうゆが!」
その隣でパウルがバナナの皮を剥き、バナナの湾曲した中心部に噛みつき――
「ん! おいしい!」
それを一房十本分繰り返した。
普通の人間ならば、一本全部食べなさいと言うところだが、リリエンタールは息子がバナナを一口食べただけで、別のバナナに口をつけても気にならないので、黙ってやりたいようにさせ、
「おとうしゃま! このばにゃにゃが、いちばんおいしいです!」
やりたいようにさせてもらった息子のパウルは、皮が剥かれ一口食べた一本のバナナを高らかに掲げた。
「そうか。それは良かった。その美味しいバナナを食べるがいい」
「ちがいます! このばにゃなは、はんぶんをじっじのぱっぱにしゃしゃげるのです!」
パウルはそう言うとバナナを半分に折り、半分をクレメントの写真の前に置き、
「どうじょ」
もう半分をリリエンタールに差し出した。
「どうじょ!」
”美味しいのならば、パウルが”と思ったが、リリエンタールは息子の押しにすぐに負け、
「では、いただこう」
手袋を外してバナナを受け取った。
「おいしいよ! おとうしゃま!!」
きらきらと輝く息子の眼差しを受けながら、その息子が一口食べたバナナを口へと運んだ。
「おいしいでしょ! おいしいでしょ!」
「さすがパウルに選ばれしバナナだ。とても甘くて美味しい」
「じっじのぱっぱも、おいしいって言ってくれるよね!」
「まぁ、おそらく……言うのではないだろうか?」
パウルが思うような教皇ではなかったので、リリエンタールは少しだけ言葉を濁した。
残りの一口かじられたバナナは、帰宅したイヴがパウルの身振り手振りのお話と、リリエンタールの解説を聞きながら全部食べた。
もちろん変色していたが、イヴはそこは全く気にしないので。
「あしたは、おかあさまに、いちばんおいちいばななをさしあげますね!」
「パウルが食べていいんだよ」
「おかあさまにたべてほしいのです!」
「わかった! 半分こしようね」
「はい!」
最愛の妻子の微笑ましいやり取りを眺めてから、バナナを捧げられたイシュトフ五世の写真を一瞥し――その日の夜、リリエンタールは珍しく夢をみた。
リリエンタールの記憶通りの司教冠をいだき、教皇の私室で椅子に腰を下ろしているイシュトフ五世。
その隣に立っているリリエンタール。幼い頃の定位置だが、あの頃とは違いイシュトフ五世を見下ろしている。
リリエンタールのほうを向いたイシュトフ五世――彼はリリエンタールを見上げた。
まだリリエンタールが幼かった頃に死別したので、
[久しぶりだな]
[そうですね]
この視点は記憶にないのだが、自分を見上げてくるイシュトフ五世の表情に、全く違和感はなかった。
[お前の息子から、バナナを貰ったので、感謝を述べようと思ってな]
[あの半分の?]
[そうだ。可愛らしい嚼み跡がついたバナナだ]
リリエンタールの記憶にあるイシュトフ五世は、一口食べられたバナナを半分渡され感謝するような人ではなかったが、
――考えてみれば、クレメントも教皇なのだから、イヴァーノや前教皇と同じように、嫌がらんのかも知れぬ
だがそうではないとも言い切れなかった。
[それでしたら、パウルの元へとどうぞ。パウルはとても賢いので、古帝国語は完全に理解しておりますので話し掛けてやってください。本人も喜ぶことでしょう]
[お前に言われなくとも]
[そうでしたか]
――わたしはなぜ、こんな夢を見ているのだろうか。明晰夢……いや違うな
かつての記憶と、存在しない記憶が入り交じった不思議な夢の中で、
[頭を下げろ]
イシュトフ五世にそう言われ、リリエンタールは久しぶりに頭を垂れた。
少し間が空き、リリエンタールの頭に手が乗せられ、縦横に動く。
――これは、多分撫でているのだろうな……
イシュトフ五世に撫でられる覚えのないリリエンタールだが、拒否する気持ちにもならなかったので黙っていた。
そして両手で頭を掴まれ、額に軽くキスをされた。
手が離れたので顔を上げたリリエンタールと、昔と変わらず眉間に縦皺を寄せた気難しい表情のイシュトフ五世。
[お前に会うつもりなどなかった。だがお前の息子のところに礼を言いにいったら、是非とも父にも会っていって欲しいと言われて、断り切れなかったのだ。……いい息子だな]
[ええ、いい息子ですとも。わたしの妃のイヴに似て、それはいい子なのです。好奇心旺盛で、家族思いで、友人思いで、向上心があり、必要かは分かりませんが王族としての矜持も持ち合わせ、少し我が儘ですが、それも年相応のもので……なによりとても優しいよい子なのです]
リリエンタールはいつも通り、演説をする声と口調で息子の素晴らしさの一部を語った。声にも口調にも熱がないで有名な男は、息子のことを熱く語る時も表情を含め、やはり冷たかったが――幼い頃のリリエンタールを知っている人物ならば、その違いは分かったかも知れない。
[良い子だな]
[ええ。妃に似て、本当に良い子なのです]
リリエンタールが言うと、イシュトフ五世は再び頭に手を置き、
[お前だって、とっても良い子だぞ、アントニウス]
撫でながら破顔一笑し――
「…………」
そしてリリエンタールは目を覚まし、右隣にはパウル。その隣のイヴを確認してから、額に手を乗せ――記憶にないイシュトフ五世の微かな笑いを思い出す。
隣で眠っているパウルを眺めていると、イヴにそっくりの覚醒――目蓋が「ばんっ!」と音がしそうな勢いで開き、
「おとうしゃま! じっじのぱっぱよろこんでましたよ!」
寝起きから素晴らしい滑舌――ただし舌足らずという矛盾をはらんでいる――で、顔に抱きついてきた。
「あ、ああ。そのようだな」
「おとうしゃまのところにも!」
二人がこれだけ騒いでいるので、イヴはもちろん目を覚ましているのだが、二人の会話が終わるまでは目を閉じて眠ったふりをすることにした。
「ああ……クレメントは褒めていたよ。とても良い子だと」
パウルは笑い、
「じっじのぱっぱはおとうしゃまのこと、だいしゅきだって!」
「……そのようだな。気付くのに、半世紀ちかくかかったが。まあ、あいつも悪いのだがな。一度も言葉にしたことがないのだから。勘の鈍いわたしが、気付くわけないだろうが」
「ふふ。おかあしゃま、じっじのぱっぱがね! じっじのぱっぱがね!」
イヴにも教えてあげようと起こすために、リリエンタールに背を向けたパウルの小さな背中を見つめながら、リリエンタールは再び額に触れた。
「お早う、パウル」
「おはようごじゃいます、おかあしゃま!」
***********
後日――
[おや? これは]
最後の瞬間に見たイシュトフ五世の笑顔を、スケッチブックに描いた。
[この前、夢で見た……というべきか、会ったというべきか、難しいところだが、その時のクレメントの表情だ]
リリエンタールが絵を描いている姿など見たことのなかった元教皇ガレアッツォ、その手元をのぞき込み――懐かしい顔を見ることになった。
[素敵な絵ですね]
ガレアッツォもイシュトフ五世のこんな表情は見たことはないが、
[そうか……]
きっとこんな感じに笑うのだろうなと――
[その絵、いただいてもよろしいですか?]
[ん? それは構わないのだが。どうするのだ?]
[飾るのです]
――クレメントの笑顔など、部屋に飾っても……高名な画家ならばまだしも、わたしの落書きだが……
美術館にもっといい絵がある、そう言いかけたリリエンタールだが、
[それをか……では額装させよう]
飾りたい絵を飾るべきだろうと思い直し、落書きだが額装してガレアッツォに渡すことにした。
[ありがとう、アントニウス]
[別に]
芸術品、特に絵画といえばシャルルなので、
[あんた、絵まで上手いのかよ! なにこの巧さ! この描写力と、内から滲み出てくる聖職者感。教皇と聖王子よりも、教皇じゃないですか! この絵の教皇。似てるんでしょ? 似てるんでしょ? 元教皇]
”教皇と聖王子”とはパウルが見て「自分と知らないおじいさん」だと勘違いした絵画のタイトル。
[その表情は見たことはありませんが、似ています。いいえ、そのものです。よい表情を見ることができて、良かったですね]
[……パウルに感謝しろよ]
[そうだな]
リリエンタールは足を組み替えて目を閉じた――イシュトフ五世がリリエンタールの夢に現れることは、それ以降一度もなかったが、リリエンタールにとってはどうでも良いことだった。
[FINIS]




