僕らの秘密の早朝ランニング
「はっ、はっ、はっ、はっ」
吐く息は白く、冷たい空気が肺を通して体全体に浸透するかのようだ。
だがそれで凍えるようなことはなく、全身の筋肉が熱を放っているからなのかむしろ温かい。
脳が酸素を求め、苦しいはずなのにどこか心地良く思えるのは、ドーパミンだかエンドルフィンだか、そんな感じの怪しい何かが生まれているからなのだろうか。
この夢見心地な気持ち良さこそが、僕がランニングを続けている理由の一つでもある。
大きな池のほとりの遊歩道をテンポ良く走る。
ここは近所にある大きな公園の中で、幸いなことに住所不定な方々もいないため、ランニングするにはもってこいの場所だ。僕以外の大人の人も何人か走っているけれど、遊歩道は二人並んで走っていても軽々追い越せる程に広いのであまり気にならない。
気持ち良くランニングするための最大のポイントは、無理しないペースでなるべく長く走ること。
ジョギングに毛が生えたようなペースだし、大人達はもっと早かったりするけれど気にしてはならない。自分にとって最高に気持ち良い感覚を少しでも長く継続させることが大事なんだ。
もしこの感覚を掴めなかったら辛いだけなので、多分僕はランニングをすぐに止めていただろう。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
一定のテンポで、何も考えずに足を動かす。
やがて腕時計がタイムアップのアラームを鳴らすその時まで。
それがいつもの朝の日課なのだけれど、その日は少しだけ様子が違った。
「おはよう」
誰かが隣に並んだと思ったら、挨拶をしてきたのだ。
走っている最中に他のランナーと目が合ったら会釈するし、走る前とかに会ったら挨拶をするので変な話じゃない。
だから走るペースを落として挨拶を返そうとしたのだけれど。
「おはようござい……雛野さん?」
「ふふ、藤堂君ってこんな時間にここで走ってるんだね」
そこにいたのはクラスメイトの雛野さん。
少し小柄で可愛いタイプの雛野さんは、ジャージを着ていても分かるほどに極一部の発育が良いこともあって男子からの人気が高い。
僕にとっては高嶺の花で、会話したことも無い。
向こうが僕の名字を覚えていたことが不思議なくらいに接点が無い相手だった。
「う、うん。今月の頭から。暑くなくなってきたし、やってみようかなって」
「ふ~ん、じゃあ始めたのは結構最近なんだ」
「雛野さんは……もしかして今日から?」
「そうなの。よろしくね、せ~んぱい」
止めてください。
そういうからかいは非モテに効いて変な勘違いをしてしまうから。
「藤堂君はどうして走り始めたの?」
あ、先輩呼びじゃないんですね。
少し勿体ない気がするけれど、雛野さんが意地悪そうに微笑んでるから内心バレてるなこれ。
でもまだそうと決まった訳じゃないので、何も感じてない風を全力で装った。
「帰宅部だから運動不足にならないようにって思って」
「それで早朝ランニングを選んだの? 朝早く起きるの大変だから嫌だなって思わなかった?」
「思ったけど、いざやってみたら気持ち良くてさ」
「もしかして藤堂君ってドМ?」
「何でそうなるの!?」
別に女子にドン引きされて気持ち良くなりたいだなんて思ってないんだけど。
そんな特殊性癖は持っていません。ほんとに。ほんとのほんとに。
「だって私、もうめげそうだもん。眠いし辛いし、これが気持ち良いだなんて変だよ」
「う~ん、それは自分のペースで走って無いからかな」
「自分のペース?」
「そう。ジョギングになっちゃっても良いから無理しないペースで走るのが大事なんだよ」
「そういえば藤堂君も他の人よりも大分遅く走ってたよね」
「あのペースが僕にとって辛くないギリギリの一番気持ち良く感じるペースだからね」
今は話をしているからそれよりも更にペースを落として、ジョギングっぽくなっている。
「私も気持ち良く走れるかな」
「人によるかもしれないけどね。少なくとも僕は、嫌な気分とか不安な気持ちとかを一時的に頭の中から追い出せて気持ち良く一日を始められるからしばらくは続けると思う」
「え!?」
何故か雛野さんが目に見えて驚愕している。
う~む、どんな表情でも可愛いな。こりゃあ男子がこぞって狙うわけだ。
「今の話の中でそんなに驚くことあった?」
「だって藤堂君が文句とか言ってるところなんて見たこと無いもん」
「よ、良く見てるね」
「女子は男子のこと結構チェックしてるんだよ」
おお怖い怖い。
ならクラスの男子連中はもうアウトかもね。
「それで藤堂君の嫌なことって何?」
「やけに食いつきが良いね」
「だって気になるじゃん」
「そうかな」
他人の愚痴とか聞かされても嫌なだけだと思うんだけど。
その点、男子と女子だと感覚が違うのかな。あるいは雛野さんが特別なのか。
「ほらほらさっさと吐きなよ~」
「う~ん、陰口になっちゃうからなぁ」
「良い人!」
「普通でしょ」
例えばクラスの男子の話。
ある男子は賛否両論ある人気Youtuberの配信を視聴しているけれど、Vtuberはキモイと嫌っている。
別の男子はVtuberの配信を視聴しているけれど、その人気Youtuberを嫌っている。
お互いに嫌っているものは視聴しておらずイメージだけで嫌悪して、その悪口を堂々と口にするんだ。
僕らは高校一年生だからまだ若くて仕方ないのかもしれないけれど、そういう姿を見るとどうしてもイラっとしてしまう。
もちろんその程度のことで指摘なんかしてたらクラスで浮いてしまうから適当に愛想笑いして誤魔化してる。
じゃあその話をここで雛野さんにするかと言うと、彼らの居ない場所でこんなこと話したら陰口を叩いていることになっちゃうから言いたくはない。
溜まっている不満なんてこういうのが大半なんだよ。
言っても問題なさそうなのなんて……
「あ、これなら良いかな」
「何々?」
「数学の中添先生に目をつけられたやつ」
「あ~アレ大変そうだったね」
授業中に質問したら先生の間違いだったらしくて、恥をかかされたとでも思ったのか僕を集中攻撃してくるようになった。普段は授業中に指すことがほとんど無いのに習ったばかりの難問を解けって指してきたり、宿題を集めろとか、僕だけ課題を増やすとか、酷い嫌がらせの連続だった。
「ほんっと、ムカついてムカついて、あんなに誰かにムカついたの人生で初めてだったかも」
「ふふ、そんなにだったんだ。凄いね、全く分からなかった」
「だって態度に出たらもっと酷いことしてきそうだったし、必死で従順なフリしてたんだよ」
「藤堂君って不満をため込んじゃうタイプなんだ。そういうのって良くないらしいよ」
「だからこうして走ってその不満を発散させてるんだって」
「超納得」
ちなみに中添先生の嫌がらせはもう終わっている。あまりにも酷かったので職員室でもう止めてくださいって言ったら他の先生が助けてくれた。どうやらそうとうきつく怒られたらしく、翌日の授業から普通の態度に戻ってた。学年主任の先生から少しでも何かおかしなことがあったら相談しなさいって言われてるので成績面でこっそり嫌がらせをされるなんてことも無さそうだ。
「とまぁこんな感じの嫌な気分とかを一時的にでも追い出せるから毎日走ってるんだ」
「なら私も頑張ってみようかな」
「女子って男子よりもそういう嫌なこと多そうだし良いかもね」
「ほんっっっっとうにそうなの!」
とても実感がこもった返事頂きました。
怖くて詳しくは聞けません。
「あれ、そういえば雛野さんって何のためにランニング始めようと思ったの? やっぱり健康のため?」
「え? あ、う、うん、そう、健康とか、そんな感じ、かな?」
妙に歯切れの悪い雛野さん。
少しだけ頬が赤くなって視線を逸らしたことから、あることを察して僕は前を向いた。
女子が運動する理由として真っ先に考えられるのはダイエット。
それを想像すると彼女の身体をつい観察してしまいそうになるから、鋼の意思でそれを抑えたのだ。
「ふ~ん、藤堂君って、ふ~ん」
「な、なんだよ」
「べっつに~」
隣から嬉しそうな声が聞こえてくる。
どうやら僕の対応は正解だったらしい。
「男子って皆……ううん、なんでもない。これ以上邪魔すると悪いから、私行くね」
何を言いかけたのか気になるけれど、聞くべきでないと本能が察していた。
「分かった。僕も普段のペースに戻すから」
「は~い」
そうして僕らは別れて、各々のランニングを再開した。
雛野さんとお話し出来たことで舞い上がってしまった心を落ち着かせるのは相当時間がかかってしまったけれど、どうにかタイムアップまでの間に無心の状態に入ることが出来て助かった。だってそうじゃないと一日中彼女のことを考えて悶々としちゃいそうだもん。勘違い男子にならなくて本当に良かった。
それから、雛野さんは早起きの苦難にめげずに早朝ランニングを続けていた。
「おはよう」
「おはよう」
公園で出会うと挨拶をして、数分程度並んで走りながら世間話をして、すぐに各々のペースでのランニングに戻る。
仲が良くなった、と言われると微妙な所。
だって学校では相変わらず話すどころか近づくことも無いから。
「でさ~みっち~ったら酷いんだよ~」
彼女は僕と違ってクラスメイトへの不満を口にする。
陰口かと思ったけれど、彼女的に口にして良い話題とそうでない話題をしっかり選んでいる様子。恐らくだけれどみっち~さんとやらは、こういうことを裏で言い合っても平気な仲なのだろう。
だからといって僕に不満をぶつけて解消するのはどうかと思うけど。
いやまぁ僕程度が聞いてあげるだけで雛野さんの心がスッキリするなら吝かではない。
僕と彼女の接点はこの数分間だけ。
その時だけはまるで親友かのようにお互いに気軽に話をする。
いつの間にか僕も、彼女を前に緊張せずに話が出来るようになっていた。
誰も知らない僕らの秘密の早朝ランニング。
決して意図的に秘密にしている訳では無いけれど、誰かに伝えて余計な疑いを向けられるのは嫌なので言う気が無く、結果として秘密になってしまっている。
この関係はずっと続いた。
「もうすぐクリスマスだけど、藤堂君はイブの予定あるの?」
「そりゃあもちろん。雛野さんもありそうだよね」
「当然。モテモテなんだから。流石に明日は来れないかな」
なんて言いながら、クリスマス当日の朝に二人揃ってランニングに来て笑ったこともあった。
「あけおめ~」
「あけおめ。今日も寒いね~」
流石に年末年始はランニングを止めた。
年明け最初の日は極寒だったので、彼女は心が折れて来ないかと思ったけれどしっかりと来た。
「おはよう」
「お、おはよう」
「どうしたのそわそわして?」
「な、なんでもない」
バレンタインデーの日に無駄に動揺してしまったけれど、バレちゃったかな。
「おはよ。別のクラスになっちゃったね」
「だね。おはよ」
二年生になり、僕らは別々のクラスになってしまった。
それでも僕らのこの関係は変わらない。
むしろクラスが別になってお互いに知らないことが増えたからか、世間話の時間が少し増えた気がする。
このまま卒業までこの時間が続くのかと思っていた。
でもある日、それは唐突に途切れることになる。
六月後半、気温が大分上昇して朝も暑くて走るのが辛い時期に入りそうな頃のこと。
雛野さんが突然、早朝ランニングに来なくなった。
予兆は全く無かった。
どれだけ思い返してみても、彼女のサインを僕が見落としたなんてことは無いはずだ。
その日も、次の日も、それからずっと。
彼女は来なかった。
心配で不安でどうにかなってしまいそうで、いつものペースで走っても全く無心になれない。
雛野さんのことばかりずっと考えてしまう。
僕は意を決して学校で彼女のクラスに向かってみた。
そこで彼女は普通に笑顔でクラスメイトと談笑していた。
事故があったわけではなかったと分かり安心した。
きっと早朝ランニングに飽きたのか、暑くなったから止めたくなったとか、そんな程度の話なのだろう。
胸がズキリと痛む。
彼女と並んで走れないことが、こんなにも寂しく思えるだなんて。
こんなにも雛野さんとの時間を大切に感じていただなんて。
これじゃあまるで恋をしているみたいじゃないか。
大事なことに気が付いたその時、僕の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
彼女が早朝ランニングに来なくなってから三週間。
七月後半のもうすぐ夏休みに入ろうかという日。
メンタルボロボロながらもどうにか期末テストを乗り越えられたのは、早朝ランニングを続けたおかげだろう。ランニング中はどうしても雛野さんのことを考えてしまいそうになるけれど、ペースを上げて負荷を強めたらそれどころじゃなくなったんだ。夏が来て暑くなったこともありしんどさが激増し、それが余計な気持ちを追い出せた大きな要因となっていた。
いや、やっぱり暑いのは辛い。
メンタルが立ち直って来たら、暑くて汗だくになるのが全く気持ち良くない。
服装やら水分補給やらを試行錯誤しているけれど、まだ答えが見つからない。
ただそれでも早朝ランニングを止めるつもりはない。ずっと続けているからという意地のようなものもあるけれど、帰ってからの水のシャワーが最高に気持ち良いからだ。
今日もまたシャワーを期待して地獄のランニングを始めようかと気合を入れた。
「おはよう」
「…………おはよう」
心臓が止まるかと思った。
遅くなったけれど挨拶を返せた自分を褒めてやりたい。
もう諦めていた声が隣から聞こえて来たのだから。
「…………」
「…………」
ただ僕らの関係は以前とは違っていた。
彼女が朗らかに話しかけてくることも、僕が話題を捻り出して声をかけることも無い。
無言で並んで走る。
太陽の陽射しに肌を焼かれている感覚に顔を顰めながら。
久しぶりだからどう接して良いか分からない。
という訳では無い。
雛野さんの『おはよう』が、か細くて元気が全く無かったから。
彼女の表情が固く暗かったから。
非モテの僕が気の利いた言葉をかけてあげるなんてことは出来ない。
僕に出来るのは傍で一緒に走ってあげることだけ。
なんとなくだけど彼女もそれを望んでここに来たのではないかと、そう思った。
その判断が正解だったのか、彼女は翌日からまた早朝ランニングにやってきた。
雰囲気は全く変わらないけれど、来てくれるだけで嬉しかった。
辟易するような暑さでランニングを止めた大人達もいるなかで、僕達は毎日続けた。
夏休みに入り夜更かしをし放題なのに、規則正しい生活を続けて必ず朝はここに来た。
変化があったのは夏休み中旬。
お盆に入る直前の事。
彼女が挨拶以外の言葉をついに発したのだ。
「ありがとう」
その日から徐々に彼女の口数が増え、夏休みが終わる頃には以前の雰囲気に戻っていた。
何があったのか大分後に判明したけれど、取り立てて説明する必要も無いだろう。
大事なのは彼女が笑顔になったという事実だけなのだから。
「もうすぐ三年だね」
「そうだね」
二年生がもうすぐ終わり、受験という名の戦争に本格的に立ち向かう時期がやってきた。
ちなみに今年はバレンタインデーのチョコを貰った。店売りの義理チョコだったけれど小躍りしそうなくらい嬉しかった。
僕の気持ちは伝えていない。
だって今の関係が心地良いから。
もしも告白なんてしようものなら、異性として意識していますなんて伝わってしまったら、彼女は嫌がって来なくなってしまうかもしれないから。
それだけは嫌だった。
そのくらい、僕にとってこの時間が大切だから。
もちろん告白が成功する自信なんてあるわけもない。
だって朝一緒に走って少し会話するだけの仲だもん。もしも好感度がもっと高ければ学校でも会話するでしょ。
「藤堂君は何処の大学に行くの?」
「〇〇大にするか、××大にするか迷ってる」
「どっちも遠いね。それじゃあ卒業したらもうここには来なくなっちゃうんだ」
「雛野さんは?」
「私も遠く。どうしてこの近くに大学無いんだろうね」
「だねー」
実家から通える範囲にある大学は農業系のところだけで、僕も雛野さんも別の分野に進みたい。つまりこの街からは去ることになり、この公園での早朝ランニングは終わりを迎えることになる。
もちろん引っ越し先でも良い場所があれば続けるつもりだけれど、隣に雛野さんは居ない。
「…………」
「…………」
将来のことを想像してしまったからか、僕達は無言になってしまった。
普段は貴重な時間を惜しむかのように話し続けるので珍しい。
雛野さんも寂しいと思ってくれているのだろうか。
僕との時間を貴重に感じてくれているのだろうか。
だとすると嬉しいな。
「あのね、藤堂君」
「何?」
「あの……………………やっぱりなんでもない」
「?」
彼女は何かを誤魔化すかのように話を打ち切ってしまった。
この時、無理にでも聞き出しておくべきだったのかもしれない。
あるいは僕が勇気を出すべきだったのかもしれない。
後悔先に立たずとはまさにこのことを言うのだと、後に実感することになる。
「もうすぐ卒業だね」
「早かったなぁ」
三年生の三月。
お互いに大学を合格し、後は卒業式を待つのみとなっている。とはいえ全く暇ではなく、引っ越しなど新生活の準備で忙しい。それでも早朝ランニングは続けていた。
「こうして雛野さんと一緒に走るのも、もうすぐ終わりだと思うと寂しいな」
これまで敢えて触れないようにしていた話題に僕から切り込んだ。
なぁなぁで終わるのではなくて、ちゃんと別れておきたいと思ったからだ。
それが長い間同じ時間を過ごしてくれた仲間への礼儀だと思ったから。
「…………」
雛野さんのことだから、てっきり空気を読んで明るく返事をしてくれるかと思った。
でも彼女は何も言わなかった。
「…………」
「…………」
僕も何も言わない。
彼女が今の表情をしている時は、言葉を選んでいる状態だともう知っているから。
だからゆっくりと待つ。
小さく息を吐きながら、テンポ良く走りながら。
そういえば、いつの間にか走るペースが上がってる。
彼女と一緒の時も、一人の時も。
ずっと走り続けたから体力や持久力が向上したってことなのだろう。
今になってそんなことに気付くだなんて、僕は雛野さんのことしか考えられなくなってたんだな。
最初の頃のように嫌な気持ちから逃げ出したい訳じゃない。
健康のために意地で続けているわけでもない。
雛野さんの存在が僕の走る理由になっていた。
あはは、こんなんじゃ引っ越し先で早朝ランニングやらなくなっちゃいそう。
今になって再び彼女への気持ちが昂り始める。
でも卒業間際になって実は好きでしたなんて告白しても、相手を困らせるだけだ。
この気持ちは青春の一ページとして大切に保管しておこう。
そうやって僕が自分の気持ちを自己完結させようとしていたら、雛野さんがようやく口を開いた。
「私、後悔してるの」
「え?」
どういう意味かと思って隣を見たら、彼女は何故か頬を赤く染めていた。
「勇気を出せば、もっと高校生活が楽しかったと思うのに」
僕は前を向き、共に走りながら彼女の言葉に耳を傾ける。
何の話なのかまだ分からないけれど、きっと大事なことを言おうとしている気がするから。
相手の目を見るのではなく、共に前を向いて走り話すことが、僕らにとっての真摯な態度になっていた。
「怖かったの。嫌われるかもしれないって思って、幸せな時間が終わるかもしれないって思って」
僕も似たようなことを山ほど考えたよ。
君に想いを伝えるべきか、何度も何度も悩んだよ。
「恥ずかしかったの。学校でいきなり話しかけたら、友達とかに何を言われるかと思うと」
僕も似たようなことを山ほど考えたよ。
君に話しかけたら狙ってるだろってクラスメイトに囃し立てられるんじゃないかって。
「勇気を出せば良かった。もっと一緒に青春したかった」
彼女が何を言おうとしているのか。
それが分からない程に僕は馬鹿では無い。
だからこそ思う。
僕も今、全く同じことを想っていると。
勇気を出せば、もっと幸せな日々を送れていたのかもしれないと。
「私が辛かった時、傍に居てくれた。何も言わずに、何も聞かずに寄り添ってくれた」
それは恐らく、二年生の初夏のこと。
彼女が早朝ランニングに来なかった時の話だろう。
確かに僕は、彼女の傍にいることだけを選択した。
「それだけじゃない。いつも話を聞いてくれて、傍に居てくれて、楽しくて、安心出来て、心が温かくなった」
それは僕だって同じだよ。
いつも話を聞いてくれて、話をしてくれて、傍に居てくれて、楽しくて、安心出来て、心が温かくなった。
「そんなあなたに好きだって、もっと早く言えば良かった」
僕が悩んでいたように、密に想いを寄せていたように、彼女も同じだったんだ。
全く気付かなかったのは僕が鈍感すぎるからか。
いや、彼女は心底辛い時にあれほど気丈に振る舞えるのだから、気持ちを隠すのが上手なのだと信じたい。
「僕こそ雛野さんにもっと早く告白するべきだったね。挙句の果てには先に告白させちゃったし」
ほんと男として情けない限りだよ。
でも雛野さんは怒らなかった。
むしろ嬉しそうに頬を染めている。
「だと思った」
「バレバレだったか」
「それなのに私の身体を見ようとしないところ、超ポイント高かったんだよ」
「そうやって視線を誘導させようとするの止めて貰えませんか」
「ふふ、ほら、そういうとこ」
そりゃあ好きな人の身体をジロジロ見て嫌われたらと思うと必死で耐えもするさ。
見たいけど。
「…………」
「…………」
良い感じの雰囲気だったのにお互いに次の言葉が出て来ないで無言になってしまった。
もしここが人気の無い場所だったらやらしい雰囲気になっていたのだろうか。超健康的なランニング中なので全くその気は起きませんけどね。
「雛野さん、ごめんね」
「どうして謝るの?」
「男なら格好良く何かを言わなきゃならないんだろうけど、何を言って良いか分からないから」
「ふふ、なにそれ」
だって本当にそうなんだもん。
両想いだったことは嬉しいけれど、じゃあこれからどうすべきかってのが全く分からなくて困惑してしまっている。
「遠距離恋愛になっちゃうのかとか、僕達ってこれからどういう関係になるのかなとか」
僕達は別々の大学に進学する。
僕と雛野さんとの関係は早朝ランニングだけで普通のお付き合いを全然していないのに、そんなこと出来るのだろうか。向こうでもっと良い男性を見つけた方が彼女にとって幸せなのでは無いだろうか、なんて彼女を怒らせそうなことを考えそうにもなってしまう。
「あ~、それは、その、え~と……」
「雛野さん?」
どうしてだろう。
彼女の顔がこれまでで一番真っ赤になって、何かを言い辛そうにしている。
「ち、ちち、ちなみに藤堂君は引っ越し先決まった?」
「何その露骨な話題反らし」
「いいから、答えて!」
「まだ探しに行ってないよ」
「そ、そうなんだ」
「??」
安心したかのような声色なんだけど、どうして僕が引っ越し先を決めてないのを喜んでるのだろうか。まるで彼女が住む場所を……え、まさか。
「時に雛野さん」
「は、はい!」
うむ、良い返事だ。
絶対裏があるなこれ。
「君の進学先は△△大だと聞いてたんだけど間違いないかね」
「…………」
「なお、君が志望する学部は僕の進学先の〇〇大にもあるんだけど」
「…………」
「受験の日に、僕に見つからないようにするの大変だったでしょ」
「…………うん」
やっぱりやっちゃったのか。
僕に嘘ついて、僕と同じ大学を受験してたんだ。
何故そんなことをしたのかなんて聞く必要も無い。
「だって藤堂君と一緒の大学に行きたかったんだもん……」
彼女の学力じゃ厳しかったはず。
必死に努力してたのは知ってたけれど、まさかこれを狙ってただなんて。
やばい。
やばすぎる。
男として、こんなことを言われて我慢出来る訳が無い。
「雛野さん、抱きしめて良い?」
「だ、だだ、ダメ! 今そんなことされたらどうにかなっちゃう!」
確かにそれはそうだ。
チラりと近くの茂みを見てしまうくらいには、僕の感情は暴走寸前だった。
ランニング中よりも遥かにドーパミンだかエンドルフィンだかがドバドバ出まくっている。
超健康的なランニング中なので全くその気が起きないとか考えた奴誰だよ。むしろランニングで程よく心臓が高鳴って体が火照ってるせいで後押しされてる気すらする。
「ちょっとまずそうなので、全力で走ってくる」
「あ、うん、そ、そうだね」
でもその前にこれだけはちゃんとやっておかないと。
「雛野さん、好きです。付き合ってください」
「はい!」
ちなみに進学先の大学の近くには、早朝ランニングが出来そうな大きな公園があるらしい。
どうやら僕らの早朝ランニングはまだしばらく続きそうだ。




