Verre-11 ガラスの靴は誰のもの?4
どれくらいの時間、静かな睨み合いが続いたのだろうか。根負けしたのは侯爵の方だった。
わざとらしいくらい大きな溜息を吐き、やれやれと首を振る。そして、侯爵はガラスの靴をリオンに差し出した。
「分かった。……分かった、この靴をくれてやろう」
「オール侯爵……!」
リオンの表情がぱあっと明るくなった。アンブロワーズの手から宝石の箱を取って侯爵に差し出すが、侯爵は宝石の箱のことはやんわりと押し返した。
「その宝石はいらん。私は、オマエが失くした靴を見付けてやったのだ。私の所持していた靴がオマエの物だと分かったから返却してやるのだよ。大切に保管していた私に感謝するといい。私が紛失や破損をしていたら、オマエはシャルロット殿下の前でこの靴を履くことができなくなっていたのだからな」
一瞬返す言葉に詰まったリオンに代わり、アンブロワーズが侯爵に詰め寄る。相手がリオンにとっての目上の人間でなければ、そのまま襲い掛かる勢いだった。
「なんですかジジイ、貴方、分かっていて期限まで隠し通すつもりだったんじゃないんですか? 自分が保管していてやったんだから感謝しろ? リオン達に探させて、見付からなくて困っているのを見て笑っていたのに。リオンが今日ここまで来なければ、そのまま隠すか壊すかするつもりだったんでしょう」
侯爵はアンブロワーズの殺気など気にしない。ちらりと見てから、リオンの方を向いて返答する。
「はて、知らんな。私は今日リオン殿がわざわざ屋敷を訪問してまで訊ねてきたからもしやと思って見せてやったのだよ」
「リオン、このジジイどうにかしてやってもいいですか」
「駄目だよ。……では、そういうことにしておきます。ガラスの靴を保管してくださってありがとうございます、オール侯爵」
「リオンっ……!」
納得いかないというアンブロワーズのことをリオンは宥める。ばさばさと動くローブと翼により部屋に細かな埃が舞った。
侯爵はただそこで一羽の小さな鳥が暴れているだけであるかのように、食って掛かろうとする一人の青年のことを取るに足らない存在として眺めている。そして、大袈裟に呆れて見せた。
「サンドール子爵代理、従者のことはしっかりと手懐けておくべきだ。他の貴族を噛むような……否、嘴で突くようなことがないようにな」
「……よ、よく言っておきます」
リオンにガラスの靴を持たせると、侯爵は部屋を出て行ってしまった。後ろ姿に向かってアンブロワーズは舌打ちをする。
「クソジジイ……」
「ねえ。このガラスの靴、私の物で合っているのかな」
「えぇ! それはもちろん! 俺が丹精込めて作った貴方のためのガラスの靴です。見間違えることなどありません。あぁ、オール侯爵の元に渡っていただなんて……。貴方の元にこの靴が戻って来て本当によかったです」
アンブロワーズは愛おしそうにガラスの靴を撫で、リオンのことも撫でた。リオンはその手を優しく振り払う。
「さぁ、俺のかわいい灰かぶり。そのガラスの靴を持って王宮へ戻りなさい。貴方の王女様が待っていますよ」
「君は一緒に戻らないのか」
「俺は王宮の馬を借りて来たので。シトルイユの後を同じ速さで走らせるわけにはいきませんから。リオンは先に戻っていてください。大丈夫、屋敷に残ってあのジジイをどうにかするとかそういうことはしませんから」
「……本当に?」
「分かりました。そんなに心配なら門を出るところまで一緒に行きましょう」
リオンとアンブロワーズが部屋を出ると、使用人達への説明を終えたらしいドミニクと鉢合わせた。
ドミニクはクロードを連れており、廊下の向こう側を一度見てからリオン達の方を見た。部屋に侯爵の姿はなく、リオンの手にはガラスの靴がある。状況を確認して、ドミニクはほっと胸を撫で下ろした。
「父とそこですれ違ったのでどうなったのかと思ったんですが、靴は手にできたようですね」
「はい、一応。ドミニク様、我々は王宮へ戻ります。お騒がせして申し訳ありませんでした」
「そんな、謝らないでください。元はと言えば父が色々策略を巡らそうとしたからでしょうし……」
ドミニクは廊下の端に寄った。クロードもそれに倣う。
「リオン様、シャルロット様のところへ行ってあげてください。きっと貴方の帰りを待っていますから」
リオンはドミニクに一礼をしてからその場を立ち去る。ドミニクのおかげか、屋敷の外に出るまでの間に不審者呼ばわりして来る使用人はいなかった。
馬小屋の傍からシトルイユと王宮の馬を連れて来て、リオンとアンブロワーズはジャンドロン邸を後にした。ほどほどの速さで駆けている王宮の馬といつも通りの速さで走っているシトルイユの距離は徐々に開いていき、しばらくすると互いのことを視認できなくなった。
リオンの気持ちを感じ取っているのか、シトルイユの足取りは弾んでおりいつにもまして軽やかである。行きの全力疾走よりは遅いためリオンは安心してシトルイユに身を任せていた。
駆けて、駆けて、駆けて、リオンは王宮に辿り着く。
お茶会は既にお開きになっており、客人達もほとんど帰ってしまっていた。停まっている馬車がすっかり減っている近くでシトルイユを止まらせ、リオンは下馬した。すっかり顔馴染みになっている馬係にシトルイユを任せて、中庭へ向かう。
探している姿はすぐに見付かった。リオンは息を整えて、中庭に踏み込む。
シャルロットはベンチにちょこんと座っていた。会場の片付けをしている使用人達のことを眺めながら、時折指示を出しているようだ。
「シャルロット様!」
リオンの声に気が付き、シャルロットが顔を動かす。声が耳に届いた瞬間、振り向く動作の間、リオンを視界に捉えた時、花が開くように徐々に表情が明るく晴れやかになって行った。
「リオン!」
歩み寄って来るリオンに対して、シャルロットは「ガラスの靴は?」と訊ねた。リオンは侯爵から渡された箱をシャルロットに見せる。すると、シャルロットもベンチに置いていた箱をリオンに見せて来た。
箱の中身はガラスの靴。左右片方ずつ入っている。
「リオン、座って」
手を取って、シャルロットはリオンのことをベンチに座らせた。そして箱を二つ開けて靴を取り出す。
「わたくし、上手にできたわ。お茶会は大成功よ」
「そうですか。この二日間お疲れ様でした」
「そうね、たくさん疲れちゃった。でも貴方の顔を見たら疲れなんて吹き飛んだわ」
履いていた靴を脱いで、リオンはガラスの靴に足を入れる。シャルロットが拾った左側にはもちろんするりと足が入った。侯爵が持っていた右側に恐る恐る足を入れると、そちらもするりと足が入った。窮屈ではないし、隙間もほとんどない。靴はリオンの足にぴったりである。
わぁ、とシャルロットが声を漏らした。小さく手まで叩いている。
「……おかえりなさい」
リオンはガラスの靴を指先でそっと撫でる。一年半ぶりに、右足にガラスの靴が戻って来た。
「これでお父様とお母様に……皆様に貴方のことを認めてもらえるはずだわ。認めさせてやるわ」
シャルロットに手を引かれてリオンは立ち上がった。中庭の芝生をガラスの靴が踏む。そうして、二人は黙ったまましばらく見つめ合っていた。
先に動いたのはシャルロットだった。ふわりとドレスを揺らしながら、リオンに飛び付いた。勢い余ってその場で半回転してから、リオンはシャルロットのことを抱き返す。
夕暮れ時を知らせる鐘が鳴っていた。あの日十二時の鐘に慌てて駆け出したガラスの靴は、今日は大切な人と共にその場に留まり続けていた。




