Verre-9 ガラスの靴は誰のもの?2
婚約破棄はやはり両者に溝を作ってしまったのでは、と誰かが言った。侯爵の去って行った方を見て、貴族達がざわめく。
「ねえ、どこへ行っていたの」
「あぁ、俺のことを心配してくれていたんですね。ありがとうございます」
「ご主人とおかみさんは私のところにいると思っているみたいだったから、そういうことにしておいたけれど」
「昨日、可能な限り大量の情報を集めた結果やっぱりオール侯爵が怪しいという結論に至ったんです。それで、どうにかしてジャンドロン邸へ侵入して靴の真偽を確かめ、あわよくば持って来てしまおうと思ったんですよ。それが一番手っ取り早いですからね。でもさすがに無理だったんで、はったりをかますことにしました。侯爵、驚いていたでしょう? やっぱりあのジジイが持っているんですよ、右足」
リオンに説明をしながら、アンブロワーズはガラスの靴を丁寧に箱にしまってシャルロットに手渡す。
「魔法使いさん、侯爵帰ってしまったけれど」
「あのジジイ、たぶん今から急いで帰って靴を隠すか壊すかするつもりだと思いますよ」
「壊されたら困る! 追い駆けなきゃ」
「それを見越してシトルイユを外に待たせています」
「ありがとう、いつも」
「リオン、わたくしも行くわ」
ガラスの靴の入った箱を抱えたシャルロットがリオンに近付いた。駆け出そうとしていたリオンは踏み止まる。
靴を探すと最初に言ったのはシャルロットだ。もう片方がそこにあるという可能性が僅かでもあるのなら、自分もそこに行くべきだ。訴える彼女のことを、リオンはやんわりと退ける。
「貴女はここに残ってください。貴女がいなくなれば客人達が困ります」
「そ、そうよね……。リオン、気を付けて行って来てね」
「はい」
リオンは箱を持つシャルロットの手に自分の手をそっと重ねる。それから小さく頷き、踵を返して中庭を後にした。
「魔法使いさん、リオンをお願い」
「お任せください、王女様」
身振り手振りもわざとらしく大げさに頷いて、アンブロワーズはローブを翻してリオンの後を追った。
オール侯爵に続いてサンドール子爵代理まで会場からいなくなってしまった。事情を知らない残された貴族達は困惑した様子である。
シャルロットはガラスの靴の入った箱を侍女に渡し、配膳係の使用人に声をかけた。そして、目立つ場所へ移動する。
「皆様! 本日はわたくしから皆様に贈り物があるのよ!」
シャルロットの声に、一同がそちらを向く。
「昨日は大好評だったんだから! さあ、わたくしが作った果物のシャルロットを召し上がれ!」
漆黒の馬体が駆けて行く。足元の道路が舗装されていようといまいとシトルイユには関係ない。王宮から飛び出したスピードそのままに、侯爵の馬車を追い駆ける。
リオンはぎゅっと手綱を握った。しっかり掴んでいなければ指示を出すどころか乗っていることすら難しい。あまりにも速すぎるこの馬を乗りこなせる者は限られている。信頼しているからこそ、シトルイユは本気の速さを出せた。
あの日、ガラスの靴を履いてシトルイユを走らせた。今日はガラスの靴を求めて走っている。
しばらく駆けて行くと、豪奢な馬車が見えて来た。
「見付けた」
少しスピードを緩めて、見失わない距離感を保ちつつ追う。
「追い付かなくていいのかって? 追い抜くくらいの勢いで行ったら君が疲れてしまうだろう」
まだ行けると言うように訴えるシトルイユを宥めて、リオンは馬車に目を向けた。
ジャンドロン邸までたどり着いたら、どうやって靴を見せてもらおう。そもそも侯爵は靴を持っているのか。咄嗟に駆け出して追い駆けて来たが、その後のことを考えていなかった。リオンの顔に不安の色が浮かぶ。
「な、なんとかなる……! たぶん……!」
シトルイユはリオンに耳を向けているが特に何も答えない。
やがて、馬車が大きな門を抜けた。奥に屋敷が見える。ジャンドロン邸である。近付いて来る人馬に気が付いた門前の使用人がリオンのことを止める。
「私はリオン・ヴェルレーヌ。サンドール子爵家の者です。王宮で開かれているお茶会にて、オール侯爵が忘れ物をしていらっしゃったので追い駆けて来ました」
「忘れ物……? 旦那様が?」
「はい。もう、すぐに追い駆けて届けて差し上げねばならないと思いまして。侯爵に直接お渡ししたいのですが」
使用人は訝し気に馬上のリオンを見上げている。
何か身分の証明になるものはないだろうか。リオンはポケットに手を突っ込むが、役立ちそうなものは所持していない。もう一度ポケットの中をあさり、シトルイユに提げさせているポーチをあさり、顔を上げた。
サンドール子爵家の紋章が付いたものが手元にあればいいのだが、使えそうなものは見当たらない。普段使っている懐中時計には紋章が刻印されているが、持ち歩いているのはアンブロワーズである。
「あの、本物……です……」
「怪しい人を屋敷に入れるわけにはいきません」
シトルイユが前脚で地面をがりがりと搔いている。不快感を露わにすることはほとんどないが、リオンが疑われているのが気に障っているのだ。リオンはシトルイユのことを宥めて、再びポーチに手を入れた。
「何か見付かりましたか」
「いえ……。あの、本当なんです。本人です。サンドール子爵代理リオン・ヴェルレーヌです」
「証明できるものがないと。旦那様の忘れ物があるのならこちらで受け取りますから」
「直接お渡ししたくて」
ついにしびれを切らしたシトルイユが後ろ脚で立ち上がって大きく嘶いた。慌てて掴まるリオンと、驚いて腰を抜かす使用人。門前の地面を蹴って、シトルイユが駆け出した。使用人の呼び止める声がすぐに遠くなり、建物が一気に近付く。
そうしてシトルイユが立ち止まったのは、馬小屋の前だった。侯爵家の馬達は見知らぬ馬の登場に動揺している。
リオンは下馬して適当なところにシトルイユを停める。綱は強く引けばすぐにほどけるように縛った。
「私が戻って来るまでに誰かに見付かって何か言われたら、私を置いて逃げるんだよ」
シトルイユはリオンのことをじっと見る。是とも否ともとれる沈黙の後、近くにあった草を食み始めた。
リオンは馬小屋を後にして、大きな屋敷の外壁に沿って歩き出した。どこかに開いている窓があれば中に入れるだろう。まるで泥棒になった気分だが、正面からは入れてもらえないので裏から入るしかない。
窓を確認しながら歩いていると、窓越しに目が合った。しまったと思い離れようとしたが、窓が開けられる方が早かった。外に顔を出して来たのはクロードである。ここにいるはずのない姿を前に目を丸くしている。
「リオン様!?」
「クロード」
「まさか、追い駆けて来たんですか」
「頼む、そこから中に入れてくれないか」
「えっ」
誰かいるのかい、という声が廊下からした。クロードは声のした方を見て、リオンを見て、そしてまた声のした方を見た。
「ドミニク、リオン様が来てる」
「えっ!? 追い駆けて来たの!?」
クロードの横からドミニクが顔を出す。ドミニクはクロード以上に目を丸くして、口をあんぐり開けた。
「リオン様」
「ドミニク様、この窓から中に入れてもらえませんか。侯爵の持っている切り札に用があります」
ドミニクは少し迷ってから、窓を大きく開けた。リオンに手を差し伸べる。
「私が勝手に入ったことにしてもいいのに、私が手を取れば貴方も共犯者ですよ」
「窓枠なんて一人じゃ越えられませんから。クロードと一緒に引き上げるので掴まってください」
リオンは窓枠に両手をかけて体をある程度持ち上げてから、右手を離してドミニクの手を取る。そしてドミニクとクロードに引っ張り上げられ、廊下に着地した。




